振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

沼津市の映画館(1)

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(写真)かつて多数の映画館が入っていたジョイランド沼津宝塚ビル。

2022年(令和4年)1月、静岡県沼津市を訪れました。「沼津市を訪れる」からの続きです。「沼津市の映画館(2)」、「沼津市の映画館(3)」に続きます。

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1. 映画館調査

1.1 映画館名簿

『東駿地誌』1959年

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1969年の映画館名簿

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1986年の映画館名簿

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2001年の映画館名簿

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2021年の映画館名簿

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1.2 「新・盛り場風土記

1950年代後半の『キネマ旬報』には各都市の映画界を3~4ページで俯瞰する「新・盛り場風土記」という連載があり、1958年1月上旬号では沼津市が取り上げられています。

 

湘南電車で東京から二時間。県東部の中心地として発達した人口十三万の新興都市。東海道線の電化と沼津港を背景に交通の要路として早くから経済、文化の交流地となり、隣接する三島、富士、田方などは沼津を考えずして、すべてが成立たない現状だ。

特に商業は市勢をひろげる原動力として、同市の産業構成上、大きな位置を占めている。また、駅北工業地帯には東京芝浦、藤倉電線、東京麻糸紡績などの大工場が活気を呈しこれに加えて、歴史を誇る水産業、同加工品の製造とともに、多角的な農漁業経営として新らたに養殖真珠などが取上げられ、豊かな町をつくり上げている。

因みに同市の要保護世帯についてみると、全国平均千人に対して十八人だが、沼津市は千人に五人という低率で、大金持がない変りに、貧乏人もないといえる。また、伊豆半島が国立公園に編入されてから、ここを訪れる観光客は年々増加しているが、"観光伊豆の玄関口" として沼津市の役割はさらに大きなものがあり期待されている。

この沼津も過去において二回の大火と戦災で町を三たびも焼土に化した。中でも戦災の痛手は大きく、一と夜にして九千五百戸が焼失、町はすっかりあれはててしまったが、復興の足取りは全国戦災都市中第一位という目ざましいもので、戦後の立直りも意外に早かった。

沼津市を訪れる旅行者は "町の感じが都会的で、東京に似ている" という。デパートから吐きだされる人の波。駅前にごった返す四つのバス会社の車、車、車。駅前を走る一級国道の大手町通り。その両側に立ち並ぶビル街。わが国初の試みである横のデパート沼津アーケード商店街。そのウィンドを飾るアカ抜けた流行品etc。これらはすべての都会の要素をそのまま沼津に持運んだといえぬことはない。そして、沼津はそれを受け入れ、消化することにおいて近代都市への道を歩んでいるようでもある。

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一方、この町は山と海に恵まれ、およそ都会には珍らしい自然美を多くもっている。その昔、東海道の宿場町として人の往来がはげしかっただけに市内には多くの名所旧蹟があり中でも千本松原は広く知られているところ。乗運寺の開祖増誉上人が一本毎に経を読みつつ植林したといわれ、名峰富士を背景に老松はうっそうと、狩野川河口から駿河湾にのぞむ海岸を這い、田子浦までつづく大パノラマをくりひろげている。この一隅に沼津を愛し沼津でその半生を送った歌人若山牧水の歌碑があり、その碑には「幾山河こえさりゆかば」の有名な歌が刻まれている。

また同市の東方に海抜一九三メートルの香貫山があって、中腹の香陵台から狩野川をはさむ沼津の全貌がみられ、頂上には某宗教団体が建設した天文台人工衛星打上げ以来人気ものとなり、ハイキングコースとして春秋は家族連れで賑わう。このほかには駿河湾沿いに千本浜、我入道、牛臥、静浦、大瀬などの海水浴場が並び、千本浜には市営塩海寮の施設があって、夏は県下各地から押しかける人たちでごった返す。

さて、盛り場に目を向けてみると、駅前から南に向けて突っ走る大手町通りの西側に上本町通りがあって、映画館はこの一角と、この通りに続く下本町通りの一角を拠点として、十一館が軒をならべている。

まず、駅前寄りから鉄筋四階建の洋画封切館の沼津ロマンス劇場と開館一周年を迎えた封切館の東海劇場が併設、都会的な雰囲気をもった劇場としてその偉観とともに人気を集めている。この向い合せにこれも開館一年余の東宝封切館宝塚劇場がある。シナリオ作家の猪俣勝人氏が経営に一と役買っているという鉄筋三階建の劇場で、完成当時、初の暖冷房を完備した劇場として観客から喜ばれ、以後各館の施設を改善させる方向にむけたという "先駆的" な役割を果した。有楽座は本通りから少し小路に寄ったところにあるが、最近まで名画座と称し、再映館だった。場内を一新してから大映系の封切館として出発した。ふたたび本通りに戻ると沼津でもっとも歴史の古い第一劇場がある。いまは日活封切館だが、終戦直後焼野原の中で映画を上映していたのは二館だけ。この劇場もその一つ。経営者の望月光雄氏は県映画興行協会の東部支部長。この筋向いに近代的な外観を持つ洋画封切館の文化劇場がある。ここも第一劇場同様、終戦直後からつづけている "老舗" だが、当時娯楽や文化に飢えていた市民にとってアメリカ映画を始めとする外国映画の名作はいまなお "文化" の名と共に話題に上るものだ。現在も上映番組に過去の名作を登場させており、学生やインテリ層を多くファンにもっている。東京同時封切の伊映画『鉄道員』はかなりの観客を動員した。

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下本町通りにゆく十字街角に沼津映画劇場がある。大映系のセカンド館で、最近ではストリップの実演との二本立で客を引いている。さらに十字街を突っ切って下ると東映・松竹封切館の沼津東映劇場と開館一周年の洋画セカンド館の国際劇場が向い合わせる。東映劇場はもっぱら近郊農村地方の青少年層を主力にチャンバラ、メロドラマがうけているが、このセカンド館として駅北唯一の沼津中央劇場が一周年を迎えようとしている。娯楽街からおよそ離れた電車通りの大手町通りにポツンと新東宝封切館セントラル劇場がある。かつては洋画封切館で隆盛を誇ったが、いまは映画館が一角に集中したため、場所を失った形でいささか淋しい感じ。

業界が観測する沼津の映画人口は十万人。固定は旧市内の八万人で御殿場沿線、三島市、富士、田方郡下の通勤者、買物客のフリーが二万人という内訳だ。去る三十二年の暮までは七館時代が暫くつづいた。人口二万に対して一館という興行界の理想配置だった。はげしい競争の東海道筋で沼津だけは別天地だったわけだ。

ところが一昨年から雨後の竹の子のようにたちまち四館がふえ客足を分散させる結果を見た。"温室育ちが急に北風にさらされたようです" と嘆く業者もいるが、安眠をむさぼっていた業界も、ようやくせわしく互いにシノギを削るようになり、三本立というのもチラホラ見受けられるようなこのごろである。

なお同市興行界は六つの映画館を手中に収めている山健二氏が勢力をもち、これに対抗して弁護士を職業とする岩村渉氏が三つの映画館を経営、個人経営は二館という分布である。

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