振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

厚木市の映画館(1)

f:id:AyC:20210605023815j:plain

(写真)厚木市立中央図書館が入る厚木シティプラザ。

2021年(令和3年)4月、神奈川県厚木市を訪れました。「厚木市の映画館(2)」に続きます。

ayc.hatenablog.com

 

1. 厚木市を訪れる

厚木市立中央図書館でいくつかの文献を閲覧した後、洋食レストラン BONのオーナーであり厚木なかちょう大通り商店街振興組合の代表理事を務める六ヶ村健三さんに話を伺いました。厚木市立中央図書館ではきちんとした文献調査を行っておらず、厚木キネマや中央劇場に言及しているという『目で見る厚木・愛甲の100年』郷土出版社、1991年すら閲覧していないため、いつかまた訪れたいと思います。

f:id:AyC:20210605023820j:plain

(写真)本厚木駅前の洋食レストラン BON。

 

2. 映画館名簿

戦前の映画館(1館)

1930年(昭和5年)の愛甲郡厚木町にあった映画館は「厚木キネマ」の1館。戦前には芝居小屋との差別化を図るためか、映画専門館は館名に "~キネマ" と付けるのが流行していた模様。神奈川県だけでも宝仙キネマ、京浜キネマ、谷川キネマ、三笠キネマ、藤沢キネマ、湘南キネマ、大磯キネマ、秦野キネマ、伊勢原キネマと10館もあります。

なお、戦後になると芝居小屋との差別化を図るための名称は "~キネマ" ではなく "~映画劇場"(または "映劇")が圧倒的になります。"~劇場" という名称は戦前から存在した劇場・映画館に多いものの、戦後に開館した映画館にも付けられており、"~劇場" という名称だからといって戦前開館と断定することはできません。

f:id:AyC:20210604233053j:plain

(写真)『日本映画事業総覧 昭和5年版』 国際映画通信社、1930年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。

f:id:AyC:20210605001024j:plain

(写真)『全国映画館録 昭和11年度キネマ旬報社、1935年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。

 

1950年(2館)~1955年(2館)

1950年(昭和0年)の愛甲郡厚木町にあった映画館は、「厚木会館」と1943年開館の「厚木映画劇場」の2館。両館とも正確な所在地は不明です。

f:id:AyC:20210605235442j:plain

(写真)『映画年鑑 戦後編 11 1950年版』日本図書センター、1998年。

 

1955年(昭和30年)の厚木市にあった映画館は「厚木映画劇場」と1950年開館の「厚木東宝」(後の厚木日活、厚木プラザ劇場)の2館であり、厚木会館は閉館しています。厚木東宝があったのは現在の厚木市幸町であり、相模川に近い街道筋が厚木の中心だったことがわかります。

1958年(昭和33年)には日本の映画館客数がピークを迎え、明仁皇太子御成婚の影響でテレビが普及しだした1959年(昭和34年)には映画館客数が減少に転じます。

f:id:AyC:20210605035743j:plain

(写真)『全国映画館総覧 1955年版』時事通信社、1955年。愛知県図書館などが所蔵。

 

1955年(2館)~1960年(4館)

日本の映画館数は1960年(昭和35年)にピークを迎え、5年前の約1.5倍である約7500館となります。既存の2館のほかに「厚木中央劇場」(厚木東映劇場)と「厚木セントラル劇場」が開館しています。厚木中央劇場があったのは現在の寿町1丁目であり、戦前から料亭や芸者置屋が軒を連ねていた歓楽街です。厚木セントラル劇場があったのは現在の中町2丁目であり、厚木市で初めて駅前に開館した映画館と言えます。

f:id:AyC:20210605054155j:plain

(写真)1960年頃の厚木市にあった映画館。地図・空中写真閲覧サービス

f:id:AyC:20210605031632j:plain

(写真)『映画年鑑 1960年版 別冊 映画便覧 1960』時事通信社、1960年。愛知県図書館などが所蔵。なお個人的にも所蔵。

 

1960年(4館)~1969年(2館)

日本の映画館数は1960年(昭和35年)にピークを迎えて約7500館となりますが、1969年(昭和44年)には半分以下の約3600館にまで減少。厚木市でも「厚木映画劇場」と「厚木中央劇場」が閉館して2館となります。1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)には中央通りに防火建築帯が完成しており、厚木中央劇場は道路の拡幅に支障をきたしたために閉館したと思われます。

f:id:AyC:20210605032336j:plain

(写真)『映画年鑑 1969年版 別冊 映画便覧 1969』時事通信社、1969年。愛知県図書館などが所蔵。

 

1969年(2館)~1980年(3館)

洋食レストラン BONのオーナーである六ヶ村健三さんは、「厚木セントラル劇場」で菅原文太高倉健の作品を観たとのこと。厚木市の映画館が最も少なかった1970年代前半には、厚木セントラル劇場が松竹・東映東宝の邦画、厚木プラザ劇場が洋画とはっきり分かれていたようです。

1975年(昭和50年)頃には厚木セントラル劇場も閉館しますが、1970年代後半にはあつぎ大通り初の映画館として「厚木スバル座・厚木ミラノ座」が開館。経営会社の横浜興行は横浜市で紅座や反町ロマン座を、藤沢市で藤沢みゆき座を経営していた興行会社です。

f:id:AyC:20210605054311j:plain

(写真)1980年頃の厚木市にあった映画館。地図・空中写真閲覧サービス

f:id:AyC:20210605030918j:plain

(写真)『映画館名簿 1980年』時事映画通信社、1979年。愛知県図書館などが所蔵。

 

1980年(3館)~2000年(6館)

1980年代後半には「厚木プラザ劇場」が閉館し、昭和30年代の映画黄金期を経験している映画館が厚木市からなくなります。1993年(平成5年)には本厚木駅前の商業ビルに3スクリーンの厚木シネマミロードが開館。1990年代前半は安価で省スペースなビデオシアターが商業施設に多数導入されていた時期です。

1994年(平成6年)には「厚木ミリオン座」と「厚木スバル座・厚木ミラノ座」が閉館し、厚木市から既存興行館が姿を消します。1990年代前半の短期間だけ存在した「厚木ミリオン座」を含めて、厚木市の映画館があつぎ大通りに集中していた時代。

f:id:AyC:20210605054524j:plain

(写真)2080年頃の厚木市にあった映画館。地図・空中写真閲覧サービス

f:id:AyC:20210605030923j:plain

(写真)『映画年鑑2000別冊 映画館名簿』時事映画通信社、1999年。愛知県図書館などが所蔵。

 

2000年(6館)~2020年(3館)

2004年(平成16年)に海老名市に2サイトのシネコン「TOHOシネマズ海老名」が開館した影響もあり、2005年(平成17年)に厚木シネマミロードが閉館。2008年(平成20年)には厚木テアトルシネパークが閉館し、20万都市厚木市から映画館がなくなります。

2014年(平成26年)には厚木テアトルシネパークの施設を利用して「アミューあつぎ映画.comシネマ」が開館し、2018年(平成30年)には経営者が交代して「あつぎのえいがかんkiki」に。民間の商業施設を厚木市が購入してリニューアルした経緯から、あつぎのえいがかんkikiは "公設民営の映画館" や "コミュニティシネマ" と表現されることもあります。

f:id:AyC:20210605030929j:plain

(写真)『映画年鑑2020年版別冊 映画館名簿』キネマ旬報社、2020年。愛知県図書館などが所蔵。