振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

東かがわ市引田の映画館

(写真)旧引田郵便局。

2022年(令和4年)8月、香川県東かがわ市引田(ひけた、旧・大川郡引田町)を訪れました。かつて大川郡引田町には映画館「朝日座」「引田中央劇場」がありました。

 

1. 引田を訪れる

2003年(平成15年)、大川郡大内町、白鳥町、引田町が合併して東かがわ市が発足しました。引田町は3町の中で最も人口が少なかった自治体であり、地理的にもやや孤立しています。JR高徳線引田駅には特急「うずしお」の8割の列車が停車するため、小規模ながら訪れやすい町でした。

(写真)JR高徳線引田駅。

 

1.1 引田の町並み

近世の引田は物資を集散する港町として栄え、醤油製造などの醸造業が発展します。主要な観光施設の讃州井筒屋敷醸造業を行っていた商家を改装した邸宅であり、その隣では現役のかめびし屋 - Wikipediaから醤油の匂いが漂っていました。讃州井筒屋敷から南東に向かうメインストリートには登録有形文化財の町屋がいくつもあり、洋風建築の旧引田郵便局がアクセントになっていました。

(写真)向かい合っている旧引田郵便局と日下家住宅。いずれも登録有形文化財

(左・右)旧引田郵便局。登録有形文化財

(左)日下家住宅。登録有形文化財。(右)長崎家住宅。登録有形文化財

(左)松村家住宅。登録有形文化財。(右)醸造業のかめびし屋。登録有形文化財

 

引田市街地の東端には町屋建築にネオンサインのギャップが印象的な水谷屋旅館があります。

(右)水谷屋旅館。

(左)旧松村医院。(右)神崎家住宅。

(写真)引田まち並み案内図。

(写真)引田市街地の地図。

1.2 東かがわ市引田図書室

東かがわ市の図書館は1館3室からなり、東かがわ市役所引田支所と同じ建物に引田図書室があります。1万人弱という人口規模を考えるとまずまずの広さであり、図書室内にスタッフが常駐して貸出・返却の対応をしていました。

(写真)東かがわ市立引田図書室。

(写真)東かがわ市立引田図書室。

 

2. 引田の映画館

(写真)朝日座が掲載されている『全国映画館総覧 1955』時事通信社、1955年。

(写真)引田町に2館が掲載されている最終年の『映画便覧 1967』時事通信社、1967年。

 

2.1 引田中央劇場(1961年頃-1967年頃)

所在地 : 香川県大川郡引田町駅前(1967年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1967年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「引田中央劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年代の一時期だけ映画館名簿に登場する映画館として引田中央劇場があり、映画館名簿では所在地が "駅前" となっています。引田中央劇場の経営者である野網数一は、大川郡大内町で三本松映劇も経営していた人物です。

 

2.2 朝日座(1922年-1968年頃)

所在地 : 香川県大川郡引田町字池田(1968年)
開館年 : 1922年
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「朝日座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「萬生寺」北東40mの建物数軒。最寄駅はJR高徳線引田駅。

高松市の玉藻座が建て替えられる際、玉藻座の建物が引田町の萬生寺前の空き地に移築され、1922年(大正11年)に朝日座が開館しました。経営者は井上政吉であり、横山エンタツ花菱アチャコ浪曲吉田奈良丸、歌謡曲笠置シズ子小畑実、松平晃、霧島昇島倉千代子など様々な芸能人が来演しています。

2024年(令和6年)にNHK連続テレビ小説『ブギウギ』のモデルとなった笠置シズ子は、引田町に隣接する大川郡相生村出身の歌手です。人気絶頂期の1949年(昭和24年)には朝日座で凱旋公演を行い、2500人もの大観衆を集めています。朝日座の西側にある萬生寺には笠置シズ子の養父母と弟の墓があります。

(写真)1940年頃の朝日座。男子席と女子席の文字が見える。『古写真でみる東かがわ その2』東かがわ市歴史民俗資料館、2010年。

 

戦後には娘の井上初美が経営を引き継ぎ、1968年(昭和43年)の映画館名簿では井上むねが経営者とされています。映画館名簿に登場するのは1968年(昭和43年)までですが、『引田町史 近・現代』(引田町、1995年)によると1970年(昭和45年)に閉鎖されたとのことです。

(写真)映画館に転向した当初の朝日座。『引田町史 近・現代』引田町、1995年。

 

引田の商店街の西側には、積善坊、善覚寺、萬生寺が並ぶ寺町が形成されており、裏通りといえる寺町通りが商店街に並行しています。1964年(昭和39年)の航空写真を見ると、萬生寺から寺町通りを挟んで東側に巨大な建物が写っており、この場所に朝日座があったようです。現在はスナックや民家など数軒分の敷地になっており、かつて劇場があった面影はありません。

(写真)寺町通りと朝日座跡地。左は萬生寺。

(写真)萬生寺。

(写真)1964年の航空写真における朝日座周辺。地図・空中写真閲覧サービス

 

引田にあった映画館について調べたことは「香川県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(香川県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

美馬市脇町の映画館

(写真)脇町劇場 オデオン座。

2022年(令和4年)8月、徳島県美馬市脇町を訪れました。かつて脇町には映画館「脇町劇場」と「脇町会館」がありました。

 

1. 美馬市脇町を訪れる

2005年(平成17年)、脇町・美馬町穴吹町木屋平村の3町1村が合併して美馬市が発足しました。2022年(令和4年)4月には美馬市営バスが廃止され、JR徳島線穴吹駅と脇町市街地を結ぶ公共交通機関はなくなってしまいました。

(写真)吉野川

 

1.1 美馬市立図書館

脇町南町重伝建地区には脇町立図書館を継承した美馬市立脇町図書館がありました。1986年(昭和61年)に建てられた鉄筋コンクリート造の建物ですが、本瓦・うだつ・虫籠窓などで周囲の町屋に溶け込むデザインとなっています。明治時代に建てられた農業用倉庫が閉架書庫として使用されていたそうですが、湿度などの点で蔵書への影響はなかったのでしょうか。

(写真)2017年に閉館した美馬市立脇町図書館。

 

大谷川を挟んで脇町南町重伝建地区の対岸にはショッピングコアパルシーというスーパーマーケットがありました。2014年(平成26年)の閉店後には美馬市が土地と建物を購入し、2018年(平成30年)5月13日に美馬市立図書館を含む美馬市地域交流センター「ミライズ」を開館させました。これに伴って2017年(平成29年)12月20日には脇町図書館が閉館しています。

なお、2005年(平成17年)の美馬市発足時には脇町図書館のほかに美馬市立穴吹図書館もありましたが、穴吹図書館は2013年(平成25年)に廃止されています。

(写真)美馬市立図書館が入る美馬市地域交流センター「ミライズ」。2018年開館。

 

2. 美馬市脇町の映画館

2.1 脇町会館(1950年12月-1977年頃)

所在地 : 徳島県美馬郡脇町(1977年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「脇町会館」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。

(写真)美馬郡脇町に脇町会館と脇町劇場が掲載されている『全国映画館名簿 1955』時事通信社、1955年。

 

2.2 脇町劇場(1934年2月-1995年)

所在地 : 徳島県美馬郡脇町(1996年)
開館年 : 1934年2月
閉館年 : 1995年
Wikipedia脇町劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「脇町劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「脇町劇場」。1967年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「脇町劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年・1996年の映画館名簿では「脇町劇場」。1998年の映画館名簿には掲載されていない。建物は現存。

昭和初期には美馬郡脇町の有志によって劇場の建設が計画され、町内の事業家の協力を得て1934年(昭和9年)に脇町劇場が開館しました。

(写真)1955年頃の脇町劇場。『保存版 三好・美馬・阿波・吉野川の今昔』郷土出版社、2008年。

 

1932年(昭和7年)には美馬郡貞光町に貞光劇場も開館しており、巨大な箱形の外観、看板建築ではない下見板張りのファサードファサードから数メートル奥まった場所にある入口などの点で共通点が見られます。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

 

脇町劇場は1995年(平成7年)に閉館。この年の吉野川流域には美馬郡脇町(脇町劇場)、美馬郡貞光町(貞光劇場)、麻植郡鴨島町(シネマコレクション)に1館ずつあり、美馬郡の2館はいずれも藤本一二三の経営でした。

(写真)徳島県の全16館が掲載されている『映画館名簿 1995』時事映画通信社、1995年。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

 

1996年(平成8年)には山田洋次監督が "映画館を守り続ける男" を題材とする『虹をつかむ男』を製作し、"オデオン座" として劇中にも登場したことで、解体予定だったのが一転して保存の機運が高まりました。1998年(平成10年)には脇町有形文化財に指定され、1999年(平成11年)には修復工事が完了して一般公開が開始されています。

四国に残る芝居小屋建築は愛媛県喜多郡内子町内子座香川県仲多度郡琴平町の金丸座(旧金毘羅大芝居)、脇町劇場の3棟のみだそうで、内子座と金丸座は重要文化財に指定されています。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

(写真)脇町劇場 オデオン座。

(写真)脇町劇場 オデオン座。手前は水無川の大谷川。

 

美馬市脇町にあった映画館について調べたことは「徳島県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(徳島県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

つるぎ町の映画館

(写真)貞光劇場。

2022年(令和4年)8月、徳島県美馬郡つるぎ町を訪れました。かつてつるぎ町には映画館「貞光劇場」がありました。

 

1. つるぎ町を訪れる

(写真)JR徳島線貞光駅

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

 

2. つるぎ町の映画館

2.1 貞光劇場(1932年-2011年)

所在地 : 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字宮下68-3(2010年)
開館年 : 1932年、1949年8月
閉館年 : 2011年
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1936年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「貞光劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「貞光劇場」。2012年の映画館名簿には掲載されていない。建物は現存。

1932年(昭和7年)に開館した際の経営者は、貞光町で牧場主をしていた藤本伝助です。脇町に「脇町劇場」が開館したのは2年後の1934年(昭和9年)であり、貞光劇場は徳島県に現存する最古の映画館建築と言えます。芝居小屋としてスタートし、戦後の1949年(昭和24年)8月に映画専門館化したようです。

1950年(昭和25年)には息子の藤本一二三が徳島県立穴吹高校を卒業し、当時は必須だった映写技師の国家資格を取得。1961年(昭和36年)頃には2代目の経営者となりました。藤本一二三は貞光劇場を旗艦館として、脇町の「脇町劇場」や「脇町会館」も経営していました。1995年(平成7年)には脇町劇場を閉館させて貞光劇場のみとなり、2006年(平成18年)に休館するまで営業していたようです。藤本一二三は山田洋次監督と同じ1931年(昭和6年)生まれなので75歳頃まで活動していたことになります。

(写真)貞光劇場の開館年が掲載されている映画館名簿。『全国映画館総覧 1955』時事通信社。1955年。

 

貞光劇場は2011年(平成23年)の映画館名簿まで掲載されており、2011年(平成23年)に閉館したという形になっているようです。なお、言語文化研究所が行っている「日本映画オーラル・ヒストリー・プロジェクト」には藤本一二三に対するインタビューが収録されています。

(写真)1991年に開催された山田洋次映画祭。『目で見る 西阿の100年』郷土出版社、2000年。

(写真)貞光劇場が掲載されている最終年の映画館名簿。『映画館名簿 2011』時事映画通信社、2011年。

 

当初の外壁はベージュ色に塗られていたようで、これまでに4回ほど塗り替えているようです。直近では2007年(平成19年)頃に水色に塗り替えたとのことですが、約15年経っても鮮やかな状態を保っています。

(写真)貞光劇場のファサード

(写真)貞光劇場のファサード

(写真)貞光劇場のファサード

(左・右)貞光劇場のファサード

(写真)街道に面する貞光劇場のアーチ。

(左)背後から見た貞光劇場。(右)街道から見た貞光劇場。

 

つるぎ町にあった映画館について調べたことは「徳島県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(徳島県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

 

智頭町の映画館

(写真)智頭劇場の建物。

2022年(令和4年)8月、鳥取県八頭郡智頭町を訪れました。

 

1. 智頭町を訪れる

八頭郡智頭町は鳥取県の南東端部にある自治体。智頭急行線の起点になる駅であり、京阪神から鉄道で鳥取市を訪れる際に通過する町です。

(写真)JR因美線智頭急行智頭駅

 

2020年(令和2年)1月29日には公共図書館のちえの森ちづ図書館が開館しました。智頭町立図書館の設置及び管理に関する条例によると正式名称が "ちえの森ちづ図書館" のようで、"智頭町立" を冠しないみたい。

(写真)ちえの森ちづ図書館。

(写真)河原町商店街。衣料品店 カジカワや鳥取信用金庫智頭支店付近。

(写真)河原町商店街。智頭町消防団河原町分団の火の見櫓附近。

 

 

2. 智頭町の映画館

2.1 智頭劇場(1922年3月25日-1968年)

所在地 : 鳥取県八頭郡智頭町1653(1968年)
開館年 : 1922年3月25日
閉館年 : 1968年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「若桜劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「智頭サービス商工会」として現存。

映画館名簿には智頭町の映画館として智頭劇場が登場します。経営者の岡本照虎は智頭劇場を旗艦館とし、八頭郡用瀬町の富士映劇、東伯郡東伯町の金市座(1960年代後半に買収)、気高郡青谷町の寿座(1960年代後半に買収)なども経営していました。映画館名簿によると智頭劇場の構造は木造2階建て、定員は300となっています。

(左)『全国映画館総覧 1955』時事通信社、1955年。(右)『映画便覧 1968』時事通信社、1968年。

 

河原町商店街では智頭町商工会によって、不定期におかげ地蔵市というイベントが開催されています。おかげ地蔵とは河原町商店街の中ほどにある地蔵堂のことであり、おかげ地蔵の奥に智頭劇場の建物が現存しています。

入口の脇には智頭サービス商工会という表札が掲げられています。おかげ地蔵の脇にある愛宕堂跡地の看板によると、1923年(大正12年)の智頭駅開業の際に劇場が建設され、1968年(昭和43年)に閉鎖されたとのことです。

愛宕堂跡地

古くは宝永年間(1704~10)のころ、河原町の金屋嘉平と藤屋次郎が、京都の愛宕山の分霊を移し祀りました。これより、この町は備前街道の中心街として賑わいました。

天保14年(1843)の智頭宿絵図には、職人の町として45軒が店を連ね、南の端には「愛宕堂」があって、榎の巨木が茂り、鎮守の森と呼ばれました。大正12年7月、「因美線」が開通するにあたって、この所に智頭劇場が建設されることになり、愛宕堂は背後の山の山崎神社の跡地に移されました。昭和43年に至って智頭劇場は閉鎖され、今は地蔵菩薩弘法大師座像が往時を知るのみです。

(写真)智頭劇場の建物と河原町商店街。

(写真)愛宕堂跡地の説明板。

 

智頭劇場が開館した1922年(大正11年)前半の新聞記事を漁ると、1922年(大正11年)2月23日の『鳥取新報』に記事が見つかりました。「陽春4月頃落成する予定」と書かれていますが、3月から5月の新聞記事を片っ端から閲覧しても、竣工やこけら落としの記事は見つかりませんでした。

(写真)「智頭町駅前に劇場建築 杮葺落は四日頃」『鳥取新報』1922年2月23日。鳥取県立図書館所蔵。

 

地蔵堂の中には智頭劇場の棟札が置いてありました。智頭駅の開業の前年、1922年(大正11年)3月25日に新築落成式を挙行したことがわかりました。

 

表面「奉鎮祭 智頭劇場新築屋舎」

屋船久久能廼遅神(やふねくくのちのかみ、家屋の守護神)

屋船豊受姫神(やふねとようけひめのかみ、家屋の守護神)

手置帆負神(たおきほおいのかみ、工匠の守護神)

彦狭知神(ひこさしりのかみ、工匠の守護神)

裏面「大正十一年三月二十五日 新築落成式祭」

執行:諏訪神社社掌 小林一俊

発起人:梶川伝次、伊藤光蔵、藤縄賢蔵

棟梁:谷口政次(鳥取市外行徳)

左官:広田伝三郎

世話人:藤縄義次、有田猪蔵、野村杢一郎、下田政勝、草刈久蔵、佃勝蔵、南子一、下山繁次、吉崎光蔵(鳥取市藪庁原)

(左)おかげ地蔵の地蔵堂。(右)おかげ地蔵。

(写真)智頭劇場の棟札。(左)表面。(右)裏面。

 

おかげ地蔵の地蔵堂と対になるように、智頭劇場の前には光明真言百万遍塔という石碑も建っています。1905年(明治38年)6月12日建立とのことで、智頭劇場よりも古くからこの場所にあるようです。

(写真)光明真言百万遍塔の石碑。

 

智頭劇場の建物から400m北に向かうと、1928年(昭和3年)に主屋が建てられた石谷家住宅(重要文化財)があり、近くには1930年(昭和5年)頃に建てられた洋館を用いた西河克己映画記念館(登録有形文化財)があります。

ちえの森ちづ図書館と石谷家住宅をつなぐ道路はちづみちと名付けられ、エリア全体の賑わいを創出するちづみちエリアリノベーション事業が行われているようです。石谷家住宅や西河克己映画記念館と同じように、近代の智頭の発展を物語る建物である智頭劇場の活用も期待したい。

(写真)智頭劇場の背面。

(写真)智頭劇場の背面。

 

智頭町にあった映画館について調べたことは「鳥取県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(鳥取県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com