振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

つるぎ町の映画館

(写真)貞光劇場。

2022年(令和4年)8月、徳島県美馬郡つるぎ町を訪れました。かつてつるぎ町には映画館「貞光劇場」がありました。

 

1. つるぎ町を訪れる

(写真)JR徳島線貞光駅

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

(写真)二層うだつの町並み。

 

2. つるぎ町の映画館

2.1 貞光劇場(1932年-2011年)

所在地 : 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字宮下68-3(2010年)
開館年 : 1932年、1949年8月
閉館年 : 2011年
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1936年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「貞光劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「貞光劇場」。2012年の映画館名簿には掲載されていない。建物は現存。

1932年(昭和7年)に開館した際の経営者は、貞光町で牧場主をしていた藤本伝助です。脇町に「脇町劇場」が開館したのは2年後の1934年(昭和9年)であり、貞光劇場は徳島県に現存する最古の映画館建築と言えます。芝居小屋としてスタートし、戦後の1949年(昭和24年)8月に映画専門館化したようです。

1950年(昭和25年)には息子の藤本一二三が徳島県立穴吹高校を卒業し、当時は必須だった映写技師の国家資格を取得。1961年(昭和36年)頃には2代目の経営者となりました。藤本一二三は貞光劇場を旗艦館として、脇町の「脇町劇場」や「脇町会館」も経営していました。1995年(平成7年)には脇町劇場を閉館させて貞光劇場のみとなり、2006年(平成18年)に休館するまで営業していたようです。藤本一二三は山田洋次監督と同じ1931年(昭和6年)生まれなので75歳頃まで活動していたことになります。

(写真)貞光劇場の開館年が掲載されている映画館名簿。『全国映画館総覧 1955』時事通信社。1955年。

 

貞光劇場は2011年(平成23年)の映画館名簿まで掲載されており、2011年(平成23年)に閉館したという形になっているようです。なお、言語文化研究所が行っている「日本映画オーラル・ヒストリー・プロジェクト」には藤本一二三に対するインタビューが収録されています。

(写真)1991年に開催された山田洋次映画祭。『目で見る 西阿の100年』郷土出版社、2000年。

(写真)貞光劇場が掲載されている最終年の映画館名簿。『映画館名簿 2011』時事映画通信社、2011年。

 

当初の外壁はベージュ色に塗られていたようで、これまでに4回ほど塗り替えているようです。直近では2007年(平成19年)頃に水色に塗り替えたとのことですが、約15年経っても鮮やかな状態を保っています。

(写真)貞光劇場のファサード

(写真)貞光劇場のファサード

(写真)貞光劇場のファサード

(左・右)貞光劇場のファサード

(写真)街道に面する貞光劇場のアーチ。

(左)背後から見た貞光劇場。(右)街道から見た貞光劇場。

 

つるぎ町にあった映画館について調べたことは「徳島県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(徳島県版)」にマッピングしています。

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