振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

一宮市奥町の映画館

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(写真)奥町にある貴船神明社

2020年(令和2年)12月、愛知県一宮市奥町を訪れました。

 映画人気が急速に高まっていた1955年(昭和30年)、昭和の大合併で中島郡奥町(おくちょう)が一宮市編入されました。一宮市北西部にある奥町は単独で奥町地区を形成しています。昭和30年代の奥町には「奥町東映」「オリエンタル劇場」の2館の映画館がありました。

 

1. 奥町の映画館

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(写真)オリエンタル劇場と奥町東映の跡地。

 

1.1 オリエンタル劇場(1958年頃-1967年)

所在地 : 愛知県一宮市奥町貴船40(1967年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1967年11月頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「オリエンタル劇場」。1963年の映画館名簿では「オリエンタル映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「一宮オリエンタル劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「貴船神明社」南にある1974年竣工のマンション「コーポ貴船」。最寄駅は名鉄尾西線奥町駅

1968年(昭和43年)の住宅地図には貴船神明社の南にオリエンタル劇場が掲載されています。跡地は1974年(昭和49年)竣工のマンション コーポ貴船。1968年の住宅地図ではオリエンタル劇場の東側に「文蔵商店 カシ タバコ」とあり、現在は「駄菓子屋 ぶんぞう」があります。3人ほど客がいるだけで窮屈な店ですが、子ども連れから年配者までいろんな客が訪れているようでした。

店主の女性と客の女性(それぞれ70代?)に話を聞いてみると、「ぶんぞうの西側のマンションの場所には『オリエンタル』という映画館があった。もう30-40年前にはマンションに替わった。もともとその場所には米屋があり、農家が持ってきた米を計る仕事もしていた。私が小学生の時に映画館が建った。この店は20年ほど前に建て替えたが、『オリエンタル』があった時代から営業している。名鉄尾西線の線路の向こう側にも映画館があった。」とのことでした。

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(写真)オリエンタル劇場跡地にあるコーポ貴船

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(左)オリエンタル劇場跡地の北にある貴船神明社。(中)オリエンタル劇場が面していたバス通り。(右)オリエンタル劇場跡地の東にある駄菓子屋 ぶんぞう。


一宮市周辺を対象とするタウン誌に『City-1』があり、一宮市から映画館がなくなった1990年(平成2年)には「映画館のない町」という特集が組まれました。この特集によるとオリエンタル劇場の閉館年は1968年(昭和43年)とのこと。

『一宮タイムス』に掲載される映画上映案内を確認すると、1967年(昭和42年)11月10日まではオリエンタル劇場の上映作品が掲載されていますが、11月11日には消えています。11月10日の上映作品は『学生妻』『異常な体験』『〇番地の女』の三本立。

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(左)最後にオリエンタル劇場が確認できる『一宮タイムス』1967年11月10日。(右)1961年の航空写真におけるオリエンタル劇場。地図・空中写真閲覧サービス

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(地図)1966年の住宅地図協会 ポータブル住宅地図。中央に「オリエンタル劇場」。

 

1.2 奥町東映(1935年-1968年)

所在地 : 愛知県一宮市奥町芝原28(1968年)
開館年 : 1935年11月3日
閉館年 : 1968年5月31日
1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「奥町劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「奥町東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「奥町東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は美容院「ヘアーサロンサツキ」を含む約10軒分の民家。最寄駅は名鉄尾西線奥町駅

『全国映画館総覧 1955』によると奥町東映(奥町劇場)の開館は1935年(昭和10年)9月。935人という定員は愛知県にあった209館の中で7番目に相当し、60館あった愛知県郡部では第1位です。『映画年鑑 1960年版 別冊 映画便覧』では定員が450となっています。

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(写真)奥町東映(奥町劇場)の開館年や定員が掲載されている『全国映画館総覧 1955』。

 

1936年(昭和11年)刊行の『奥町誌』(奥町教育会)には奥町劇場の写真が掲載されていました。1935年(昭和10年)11月3日落成とのことで、町誌の編纂途中に開館したようです。

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(写真)奥町劇場。『奥町誌』(奥町教育会、1936年)

 

1961年(昭和36年)の航空写真には巨大な建物が写っており、跡地は約10軒分の民家となっています。昭和初期に開館した劇場としてはかなり奇妙な立地であり、当時は水田の中にぽつんと建っていたと思われます。

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(左)1932年の奥町。今昔マップ。(右)1961年の航空写真における奥町東映地図・空中写真閲覧サービス

 

一宮市には商店街アーチが多いらしく、『広報一宮』2015年10月22日号には木曽川銀座通り商店街・浅井町商店街・萩原商店街のアーチが掲載されています。奥町にも多数のアーチがあり、奥町東映跡地の南側には旭町3丁目のアーチがありました。奥町にあるアーチは商店街(商店会)ごとではなく町丁ごとに設置されているようです。

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(左)奥町東映跡地。中央の路地とその両側の民家約10軒分。(右)奥町東映跡地の南にあるバス通りと「旭町3丁目」のアーチ。

 

『一宮タイムス』には奥町東映の映画上映案内も掲載されています。最終日の1968年(昭和43年)5月31日には『泣きどころ』『赤い肉』『続 悪徳』の三本立を上映。6月1日の映画上映案内には「休館」と書かれています。

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(写真)奥町東映が休館とある『一宮タイムス』1968年5月31日。

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(地図)1966年の住宅地図協会 ポータブル住宅地図。中央左に「奥田東映」(※奥田は奥町の誤字)。

 

一宮市奥町にあった映画館について調べたことは「一宮市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

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紀伊長島の映画館

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(写真)三河劇場の建物を転用したガレージ。

2020年(令和2年)12月、三重県南部の北牟婁郡紀北町にある紀伊長島地区を訪れました。

昭和30年代の紀伊長島には「長島中央劇場」「大洋館」「三河劇場」「長島映画劇場」の4館の映画館がありました。三河劇場の建物はガレージに転用されて現存しています。「紀北町紀伊長島図書室を訪れる」からの続きです。

 

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1. 紀伊長島を歩く

1.1 魚まち

紀伊長島で最も建物の密度が濃い通りは、「魚まち」と呼ばれるエリアの旧熊野街道です。「魚まち」には現在もそれなりの数の個人商店が残っています。JR紀伊長島駅の北側にはスーパーマーケットやドラッグストアなどの大型店が並ぶ新市街地が形成されていますが、「魚まち」と新市街地の間には赤羽川が流れており、それなりに距離があるためだと思われます。

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(写真)旧熊野街道。(左)紀北信用金庫付近。(右)魚まちのたまり場付近。

 

漁師町である紀伊長島の路地は、海岸線に並行する数本の通りと、その通りを結ぶ短い路地で構成されています。民家の密集度合はかなりのものであり、隣接する民家と壁面が接続している民家が多く残っています。空き家も多いと思われますが、取り壊すのにも一苦労なのかもしれません。

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(写真)魚まちの通りと民家。(中)壁面が接続している2軒の民家。(右)行き止まりに見える路地。

 

紀伊長島氏神長島神社 - Wikipediaであり、伊勢神宮周辺の多くの神社同様に20年ごとに式年遷宮が行われるようです。三河湾に浮かぶ篠島尾張国)の神明神社や八王子社なども式年遷宮を行いますが、伊勢国から山を隔てた紀伊国の神社でも遷宮を行うというのが意外でした。長島神社の鳥居の脇には、推定樹齢800年(1000年とも)というクスノキがあります。

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(写真)長島神社の社殿。

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(左)長島神社のクスノキ三重県指定天然記念物。(右)長島神社の境内から見た魚まち。

 

2. 紀伊長島の映画館

三河劇場跡地にあるガレージの近くには紀北町長島多目的会館があります。長島多目的会館の男性(60代?)に紀伊長島の映画館について聞くと、「三瀬谷出身なので詳しくは知らない」とのことでしたが、はす向かいにある喫茶ルミの店主の女性(80代?)に聞きに行ってくれました。喫茶ルミの店主によると、「紀伊長島には5館の映画館があった。歌舞伎座、長島座、大洋館、中央劇場、三河屋である」とのことです。

※(注)歌舞伎座は1960年以前に閉館した映画館であるため、本ブログでは紀伊長島の映画館を4館としています。

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(写真)三河劇場の跡地。Google マップ

 

長島多目的会館の男性や喫茶ルミの店主と立ち話をしている際、三河劇場跡地付近から男性(70代?)が出てきました。この男性によると「紀伊長島には映画館が4館あり、銀行が7行もあった。自分は三河屋では顔パスだった」とのことです。最も早く閉館した歌舞伎座のことは知らない様子でした。喫茶ルミの店主もこの男性も、"三河劇場"ではなく"三河屋"と呼んでいたのが印象に残りました。

長島多目的会館の男性は定年退職前は教員だったそうで、「この周辺の地域で最も遅くまで営業していた映画館は尾鷲ロマン座である。尾鷲ロマン座では映画を観たことがある。生まれ育った三瀬谷にも映画館があったが、小学生の時に閉館した。三瀬谷駅の北西すぐの場所にあり、今でも建物が残っているのではないか」とのことです。

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(写真)長島映画劇場、大洋館、長島中央劇場の跡地。Google マップ

 

2.1 長島座/長島映画劇場(1931年秋-1965年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1965年)
開館年 : 1931年秋
閉館年 : 1965年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「長島座」と「長島映画劇場」の双方が掲載されているが重複と判断した。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「長島映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森林組合おわせ紀伊長島事務所」南東の空き地。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

1931年(昭和6年)秋、大正座の跡地に開館した劇場が「長島座」です。長島座は500人を収容する洋館であり、松本通りは「長島の上海」と呼ばれたそうです。長島座は後に「長島映画劇場」に改称。長島映画劇場が最後に登場する映画館名簿である1964年版では、経営者・支配人ともに浜口安平、木造2階建、定員500、邦画を上映。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた人物です。

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(写真)1931年の長島座。『目で見る尾鷲・紀北の100年』郷土出版社、2009年。

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(写真)『映画年鑑 1960 映画便覧』における北牟婁郡の映画館。

 

喫茶ルミの店主(70代後半?)によると、「琴比羅社のすぐ東には長島座があった。現在は空き地になっている」とのこと。たまたま喫茶ルミ付近を通りがかった男性(70代?)によると、「島倉千代子が長島座を訪れた際に事件があった」とのことです。

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(写真)長島映画劇場跡地にある空き地。

 

2.2 三河劇場(1952年‐1968年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町新田(1968年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三河劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「長島三河劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「紀北町長島多目的会館」北東100mにあるガレージ。映画館時代の建物が現存。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

戦前からあった「長島映画劇場」、戦後の1950年(昭和25年)に開館した「長島中央劇場」に続いて、1952年(昭和27年)に開館したのが「三河劇場」です。紀伊長島の4映画館の中で最も南にありますが、最も「魚まち」の中心部に近い映画館でもあります。1962年(昭和37年)の映画館名簿では経営者が酒井重一、支配人が西田伝蔵、木造2階建。1968年(昭和43年)の映画館名簿では経営者・支配人ともに酒井正男、木造2階建暖房付、定員250。

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(写真)三河劇場の建物を転用したガレージ。

 

喫茶ルミの店主によると、「喫茶ルミの斜め向かいにあるガレージは、三河屋という映画館の建物を改装したものである。映画館だった頃は2階席もあった。酒井正男さんが経営しており、日活と大映の作品を上映していた」とのこと。ガレージの南には酒井正男という表札があるオレンジ色の瓦屋根の民家があります。

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(写真)ガレージの内部。

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(左・右)ガレージの内部。

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(左)ガレージの内部。(右)舞台だった部分。

 

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(写真)ガレージの西面。

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(写真)ガレージの北面と東面。

 

2.3 長島中央劇場(1950年-1969年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1969年)
開館年 : 1950年10月? 1951年?
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は赤羽川に架かる長島橋東詰の「長島ショッピ―中州店」旧店舗の廃墟。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

赤羽川の北側にあった唯一の映画館が「長島中央劇場」であり、やはり唯一の洋画上映館でした。1968年(昭和43年)の映画館名簿では経営者が玉津大門、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員200、洋画を上映。

喫茶ルミの店主によると、「赤羽川の北側にある唯一の映画館が中央館であり、長島橋北詰すぐ東にあった。中劇(ちゅうげき)とも呼ばれ、洋画を上映していた。跡地には長島ショッピー中州店が建ち、新店舗に移転した今もスーパーの建物が残っている」とのこと。

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(写真)長島中央劇場跡地にある長島ショッピー中州店の旧店舗廃墟。

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(写真)昭和中期の長島中央劇場。『紀伊長島町史』紀伊長島町史編さん委員会、1985年と『あの日あの頃』紀伊長島ふるさと懇話会、2000年(同一の写真)。

 

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(写真)話を聞いた紀北町長島多目的会館。

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(左・右)話を聞いた喫茶ルミ。

 

2.4 大洋館(1958年2月12日-1970年代初頭)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町新田(1970年)
開館年 : 1958年2月12日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大洋館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「長島大洋館」。1970年のゼンリン住宅地図では「大洋館(浜口)」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「濱口熊嶽邸跡」北側の駐車場。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

紀伊長島の4映画館の中で最も遅く、1958年(昭和33年)に開館したのが「大洋館」です。なお、同年には日本の映画人口(総観客館)がピークを迎え、1959年(昭和34年)には減少に転じています。1968年(昭和43円)の映画館名簿では経営者が浜口安平、支配人は掲載なし、木造2階建暖房付、定員350。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた人物です。

喫茶ルミの店主によると、「大洋館は東宝東映の作品を上映した」とのこと。

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(写真)大洋館跡地にある月極大洋館駐車場。

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(写真)昭和中期の大洋館。紀伊長島町史』紀伊長島町史編さん委員会、1985年と『あの日あの頃』紀伊長島ふるさと懇話会、2000年(同一の写真)。

 

紀伊長島にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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紀北町紀伊長島図書室を訪れる

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(写真)JR紀勢本線紀伊長島駅。

2020年(令和2年)12月、三重県南部の北牟婁郡紀北町にある紀伊長島地区を訪れました。「紀伊長島の映画館」に続きます。

 

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1. 紀伊長島を歩く

尾鷲市や熊野市を中心とする三重県南部は東紀州地域と呼ばれ、律令国紀伊国の最東端に位置する地域です。JR紀勢本線はトンネルの連続する山間部を通って東紀州地域に入りますが、紀伊長島に到着すると「平野の三重」から「海と森の三重」に入った感覚があります。

2005年(平成17年)に北牟婁郡紀伊長島町と海山町が合併して発足したのが紀北町であり、紀伊長島地区には紀北町役場が置かれています。古くからカツオの一本釣漁業で栄えた漁師町であり、長島ショッピー中州店にも長島産カツオのパックが並んでいました。

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(写真)紀伊長島市街地。地理院地図

 

1.1 魚まち

JR紀勢本線紀伊長島駅に隣接するふれあい広場マンドロでレンタサイクルを借り、魚まち散策マップを片手に紀伊長島の町をめぐりました。ふれあい広場マンドロの建物東側は天井高が10m近くありそうな作業場となっていますが、1928年(昭和3年)から続くきほく燈籠祭で用いる巨大灯籠の製作や展示を行っている施設とのこと。

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(写真)「磯の香に誘われ鄙びた港町を行く 長島浦」『おくまの』みえ熊野学研究会、2016年5月、第7号

 

紀伊長島の旧市街地をざっくりと「魚まち」と呼ぶようです。江ノ浦大橋の外側には広大な埋め立て地があり、水産加工市場や漁業センターなどの漁港関連施設があります。しかし、漁船の大半は旧来からの漁港である江ノ浦湾内にあり、江ノ浦大橋や江ノ浦橋と絡めると漁業町らしい写真が撮れました。江ノ浦橋は中央部が真上に持ち上がる昇開橋だそうです。江ノ浦大橋と江ノ浦橋を結ぶ海沿いの道路は干物通りと呼ばれるそうで、干物屋の店先にはさんまが干されていました。

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(左)江ノ浦湾の漁船と江ノ浦大橋。(中)歩行者専用の江ノ浦橋。(右)江ノ浦湾の漁船と江ノ浦橋。

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(左)江ノ浦湾に面する干物通り。(右)店先で干されるさんま。まる芳。

 

1.2 長島ショッピー中州店

JR紀伊長島駅から「魚まち」に向かう途中には海産物の品ぞろえに定評があるという長島ショッピー中州店がありました。並んでいる海産物の大半は長島産であり、東紀州地域では珍しくないというマンボウなどもありました。

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(左)長島産の干物。ムツ開き、アジ丸干、沖キス丸干、アジ開き、赤ムロ開き、さんま開き。

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(写真)長島産さざえ。(右)長島産日帰りかつお

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(写真)長島産マンボウのコワタ、イナダ切身。

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(左)長島産アカハタマス。(右)長島産ガシ(カサゴ)。

 

2. 紀北町紀伊長島図書室を訪れる

2.1 図書館の歴史

紀北町図書館 - Wikipedia(組織名)は紀北町紀伊長島図書室と紀北町海山図書室の2室からなります。2005年(平成17年)に紀北町が発足する前には両町に公共図書館は存在せず、2016年(平成28年)に紀北町図書館条例が制定されています。条例制定の際に紀北町多目的会館図書室が紀伊長島図書室に改称され、2017年(平成29年)3月11日には紀伊長島図書室が紀北町地域振興会館2階に移転しています。

あえて「図書館」ではなく「図書室」という名称を維持したのには理由があるのでしょうか。中央図書館の建設計画があるようには思えませんでした。図書館設置自治体でありながら「図書館」という名称の施設が存在しない珍しい自治体だと思われます。

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(左)紀伊長島図書室が入る紀北町地域振興会館。(右)紀伊長島図書室の入口。

 

紀北町地域振興会館は1971年(昭和46年)に紀伊長島町役場として建てられた建物であり、建物の外観には相応の古さを感じます。紀伊長島図書室には地域振興会館の正面入口ではなく"裏口"から入る必要があり、利用案内には「12時から13時までは閉室」という公民館図書室のような注意書きがありました。

このようなこともあって図書館の中身には期待していなかったのですが、図書館ではなく図書室と名乗っている理由がよくわからないほど図書館という言葉がふさわしい施設でした。フロア全体が図書室であり、床面積は406m2とのこと。

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(写真)紀伊長島図書室の入口。

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(写真)フロアマップ。

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(写真)窓の外に江ノ浦湾が見える閲覧席。

 

2.2 図書館の郷土資料

同一施設の3階には紀伊長島郷土資料室がありますが、2階の一部も郷土資料室の展示コーナーになっており、紀伊長島の歩みや古い写真などが展示されていました。

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(写真)ふるさと写真館。

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(写真)ふるさと写真館。

 

郷土資料室の展示コーナーの手前には郷土資料コーナーがあり、ジャーナリストの北村博司、科学者の宮原章次、著作家大久保房男 - Wikipedia、児童文学者の小倉肇  - Wikipediaと、4人の紀伊長島町出身者の著書などが紹介されていました。

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(写真)紀伊長島出身者の著書など。

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(写真)紀伊長島出身者の著書など。

 

三重県図書館による図書館紹介によると、「漁業の町なので、水産関係の資料や魚類の図鑑などが充実しています」とのこと。保育社の原色図鑑、恒星社厚生閣の水産学シリーズ、水産業に関係する専門書などがありました。Wikipedia記事には「図書充実委員会を立ち上げて町民への募金活動を展開し、図書の寄贈を受けて所蔵冊数を増やしていった」とあり、町民から寄贈を受けた文献だと思われます。

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(写真)水産関係資料。

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(写真)水産関係資料。

三瀬谷の映画館

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(写真)JR紀勢本線三瀬谷駅

2020年(令和2年)12月、三重県多気大台町の三瀬谷を訪れました。三瀬谷にはかつて「宮川劇場」「下村映画劇場」「三瀬谷館」という3館の映画館があったようです。

 

1. 三瀬谷を歩く

1.1 三瀬谷の旅館

1925年(大正14年)に国鉄紀勢東線(現・JR紀勢本線三瀬谷駅が開業した際に三瀬谷駅前通りも開通。同年には駅前通り沿いに割烹旅館の萬栄も開業しています。三瀬谷四辻の南西角にも旅館の大黒屋があり、旅館としての歴史は浅いようですが、1923年(大正12年)に創業してうどん屋を営んでいたらしい。

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(写真)三瀬谷駅前通り。

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(左)三瀬谷の中心部にある四辻。手前から奥が商店街。左から右が三瀬谷駅前通り。左奥は旅館の大黒屋。(右)三瀬谷駅前通りから宮川劇場跡地へ向かう路地。右は旅館の萬栄。

 

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(写真)1968年の三瀬谷。地図・空中写真閲覧サービス

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(写真)2013年の三瀬谷。地理院地図


1.2 大台町立図書館

大台町立図書館 - Wikipediaは2002年(平成14年)開館。1987年(昭和62年)に竣工の大台町役場旧分庁舎を転用したとのことで、構造的に1階と2階が分断されていますが仕方ない。1階には郷土資料以外の一般書・児童書が集められており、2階は郷土資料と学習席となっています。

延床面積403m2、蔵書冊数約4万冊、貸出冊数約3万冊という小規模な図書館ではありますが、蔵書の古さや館内の暗さを感じることはなく、書架に職員の手が入っている印象を感じました。

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(写真)大台町立図書館。

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(左)1階。一般書・児童書の書架。(右)2階。郷土資料と学習席。

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(写真)ウェブ予約の案内。

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(左)映画鑑賞会の案内。上映作品は『クリスマス・キャロル』(1938年)。(右)一般書の書架。

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(写真)郷土資料の書架。

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(中)『おくまの』と『NAGI』が目立つ大台町の資料。(右)写真スクラップブックなどもある大台町の資料。

 

2. 三瀬谷の映画館

2.1 三瀬谷館(1951年-1958年頃)

所在地 : 三重県多気大台町佐原(1958年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年11月開館。1955年・1957年・1958年の映画館名簿では「三瀬谷館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。

映画館名簿に登場する三瀬谷の3館のうち、最も早く閉館したと思われるのが三瀬谷館です。場所は不明。1957年の映画館名簿では経営者が清水信男、支配人が内海喜久夫、構造は掲載なし、定員500、映写機はオリオン、発声器はビクター。

 

2.2 下村映画劇場(1947年-1965年頃)

所在地 : 三重県多気大台町(1965年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1947年2月開館。1955年の映画館名簿では「下村座」。1958年の映画館名簿では「下村映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「下村座」。1964年・1965年の映画館名簿では「下村映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

下村映画劇場も場所は不明。1960年の映画館名簿では経営者が下村弥輔、支配人が下村伝子、木造2階建、300席、邦画を上映。

 

2.3 宮川劇場(1959年頃-1970年代初頭)

所在地 : 三重県多気大台町(1970年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「宮川劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「三瀬宮川劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「三瀬谷宮川劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JR紀勢本線三瀬谷駅」駅舎から北北西110mにあるガレージ。最寄駅はJR紀勢本線三瀬谷駅

映画館名簿によると三瀬谷で最も遅くまで営業していたのが宮川劇場です。1974年のゼンリン住宅地図には三瀬谷駅の北西に「映画劇場」があり、これが宮川劇場を指していると思われます。

1960年の映画館名簿では経営者が山本七平、支配人が古川毅、木造2階建、定員380、映写機と発声器は記載なし、邦画を上映。1968年の映画館名簿では経営者が古川毅、支配人は記載なし、木造2階建冷暖房付、定員300、映写機はローヤル。

 

1974年の住宅地図における「映画劇場」の場所には巨大なガレージが建っており、映画館建築とは異なるように思われました。内部を覗くと鉄骨造のようであり、また2階が存在した形跡もないため、映画館の建物ではないのだろうと思いました。聞き込みで裏付けを取ります。ガレージの北西には「佐」のマークがある建物があり、映画館との関連が気になりました。

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(写真)宮川劇場跡地にあるガレージ。(左)西面。(中)内部。(右)東面。 

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(左・中)宮川劇場の経営者宅。(右)商店街から宮川劇場に向かう路地。左が経営者宅。

 

JR紀勢本線の南側にあるランドリー白清舎の店主(70代?)にガレージの建物や内部の写真を見せると、「映画館がこの場所にあったのは間違いない。建物の鉄骨構造のみ維持して、屋根や壁などを新しくしたのかもしれない」とのこと。「『佐』のマークがある建物は映画館経営者の自宅であり、現在は空き家になっている。同じ敷地内、商店街に面した建物に経営者の息子夫婦が住んでいる」とのことです。

 

再び映画館跡地の前を通ると男性と女性(それぞれ70代?)が立ち話をしており、「ガレージの場所に映画館があった。映画館は木造であり、現在の鉄骨造のガレージとは異なる」とのこと。

商店街には個人書店の大瀧書店があり、紀伊長島に関する記事が掲載されている『おくまの』第6号を購入しました。大瀧書店の店主(40代?)に映画館について聞くと、「子どもの頃には映画館の建物が残っており、こっそり侵入して怒られたことがある。2階がある映画館だった。椅子は撤去されていたが、スクリーンはまだあったと思う。三瀬谷神社の近くにも別の映画館があったようなことを聞いたことがあるが確信がない」と思い出を話してくださいました。映画館がガレージに建て替わった時期は不明ですが、つい20-30年前までは映画館の建物が残っていたのでしょう。

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(左)話を聞いたランドリー白清舎。(右)話を聞いた大瀧書店。

 

三瀬谷にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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