振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「3Qタウン Wikipedia town in 琴引浜」に参加する

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(写真)琴引浜。

 

2019年5月26日(日)、京都府京丹後市で開催された「3Qタウン Wikipedia town in 琴引浜」に参加しました。

www.nakisuna.jp

 

 

琴引浜を訪れる

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丹後地方は京都府北部にある地域。東京の方に丹後地方のことを説明しても反応が薄いのですが、関西圏では観光地としてよく知られた地域であり、天橋立 - Wikipedia伊根の舟屋 - Wikipediaなどの観光スポットがあります。丹後半島の大部分を占めるのが京丹後市であり、網野市街地から北東に3kmの場所に、鳴き砂で知られる琴引浜があります。イベント名の「3Qタウン」には、砂が "キュッキュッキュッ" と鳴くという意味が込められています。

今回のイベントの主催は、観光客向けガイドや砂浜の保全活動を行っている琴引浜ガイド「シンクロ」。地元の参加者が琴引浜や鳴き砂などの地域の魅力を再発見すること、また、これらについての情報を発信して他地域の方に知ってもらうことを目的として企画されています。 琴引浜では1週間後の2019年6月2日(日)に「26thはだしのコンサート2019」という環境イベントを開催する予定であり、ウィキペディアタウンはそのプレイベントと位置付けられています。

参加者は地元の方に加えて、京丹後市にある複数の府立高校の生徒、丹後地方の自治体職員、丹後地方の複数の府立高校の学校司書、府内の公共図書館司書、中国地方や東海地方の公共図書館司書など。講師・ファシリテーターを含めると約30人となりました。

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(写真)琴引浜鳴き砂文化館。

 

イベントのスケジュール

09:30-10:30 琴引浜鳴き砂文化館の見学(田茂井秀明館長)

10:30-12:00 掛津区や琴引浜の散策(琴引浜ガイド「シンクロ」の方々)

12:00-13:00 昼食・グループ分け

13:00-13:30 Wikipedia講習(Wikipedia管理者のくさかきゅうはちさん)

13:30-16:00 Wikipedia編集

16:00-17:00 成果発表・ふりかえり

 

 

琴引浜鳴き砂文化館を見学する

琴引浜の民宿「ニュー丸田荘」で女将を務め、琴引浜ガイド「シンクロ」でも活動する丸田智代子さんによる開会挨拶後、田茂井秀明館長の案内で琴引浜鳴き砂文化館の館内を見学しました。

今回のイベントの主題である "鳴き砂" とはそもそも何なのか。琴引浜文化館の公式サイトには以下のように書いてありましたが、うまい説明ではないように思えます。

「鳴き砂とは」(琴引浜鳴き砂文化館)

鳴き砂は鳴り砂ともいいますが、ちょっと動かせば音が出る砂のことで、その昔、日本列島には至るところに真っ白な砂浜があり、足跡一つない砂の上を歩けば「クックッ」と鳴きましたが、現在では限られた浜しか鳴くことはありません。

 

コトバンクを見ると以下のように書いてあります。岩石学辞典、朝日新聞掲載「キーワード」、世界大百科事典は三者三様の説明であり、鳴き砂を簡潔に説明するのは難しいようです。鳴き砂とは "現象" のことだと思っていましたが、これらの説明を読むと "砂" 自体を表す言葉のようです。

「鳴き砂」(岩石学辞典)

上を歩くか何かの方法でかき乱すと音楽的な音を発する砂。音を発する原因はよくわからないが、様々な原因が考えられている。

「鳴き砂」(朝日新聞掲載「キーワード」)

鳴り砂とも呼ばれる。鳴るには条件があり、石の中では固い石英が60%以上含まれ、粒がそろっていること。琴ケ浜の砂は石英が80%以上あり、粒の直径は平均0.3ミリでほぼ均一という。

「鳴き砂」(世界大百科事典)

鳴き砂あるいは鳴り砂、英語ではsinging sand,musical sand,sonorous sandなどと呼ばれ、特異な発音特性を有する石英質の砂がある。自然条件では、激しい波浪や風の作用で砂粒が淘汰されて同じ場所に堆積し、土砂など異物が混入しないような海岸や砂漠でまれに形成される。

 

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(写真)田茂井館長による琴引浜と鳴き砂の説明。

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(写真)鳴き砂体験コーナー。 

全国の鳴き砂分布地図」によると鳴き砂が確認されているのは日本全国で30か所あまり。内陸部の砂浜は東北地方の田沢湖飯豊山系にある3か所のみです。日本の海岸線の総延長は約3万km、うち砂浜海岸は約3,000km、鳴き砂がある海岸は約30kmとのことで、日本の海岸線に占める鳴き砂の海岸は1/1,000しかないそうです。

砂浜が鳴き砂となる条件は3つ。「石英の含有率が高いこと」「砂浜が乾燥していること」「砂浜がきれいであること」の 3つが揃ったときにはじめて鳴くそうです。地元住民や「琴引浜の鳴り砂を守る会」の活動のおかげで砂浜がきれいに保たれているとのことで、「日本初の禁煙ビーチ」であること、「(鳴き砂の浜としては)日本初の国の天然記念物」であることを語る際は誇らしげでした。

琴引浜は山陰海岸ジオパークに含まれるジオサイトです。自然地形を間近で見て楽しめるのがジオパークであり、すぐそこに日本海や琴引浜があるのに展示体験施設なんて必要なのかと思っていたけれど、人間の活動によって鳴き砂が保たれているということを知るために、とても重要な施設であると感じます。

 

琴引浜鳴き砂文化館には海外の鳴き砂も展示されており、英語ではMusical sand、Singing sand、Booming sandなどと呼ぶようです。Wikipedia英語版記事「Singing sand」のトップに用いられている写真2枚は砂浜海岸ではなく砂漠の写真であり、日本と海外では「鳴き砂」という言葉から受けるイメージも全く異なるのかもしれません。

「鳴き砂とは」(琴引浜鳴き砂文化館)

英語では海辺にある鳴き砂のことをミュージカルサンド(音楽砂)とかシンギングサンド(歌う砂)などと呼びますが、砂漠にあるものは、巨大な砂山の砂が自然に崩れ落ちたとき轟音を発するので、特にブーミングサンド(唸る砂)と呼ばれています。

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(写真)Wikipedia英語版「Singing sand」。

 

 

まちあるきする

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掛津区を歩く

琴引浜鳴き砂文化館から琴引浜までは、琴引浜の旅館/民宿街を通って約1km。掛津区唯一(?)の寺院である海蔵寺や、掛津区の氏神である白滝神社では、琴引浜ガイド「シンクロ」の方々から説明を聞きました。戦国時代の細川幽斎や、昭和時代の与謝野寛と与謝野晶子の歌碑などもあり、琴引浜は古くから鳴き砂で知られる海岸だったようです。もっと歴史の浅い観光地かと思ってた。

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(写真)琴引浜鳴き砂文化館近くの水田を歩く参加者。先頭は丸田智代子さん。右上が文化館。

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(写真)海蔵寺で説明を聞く参加者

 

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(写真)琴引浜の文化財指定名称碑。※翌日朝の散歩時に撮影

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 (左)掛津区の氏神である白滝神社の下で説明を聞く参加者。(中)白滝神社の鳥居。石段中腹にあるのは古い鳥居の残骸。(右)白滝神社の社殿。※右は翌日朝の散歩時に撮影

 

 

琴引浜を歩く

琴引浜の砂浜における説明は琴引浜ガイド「シンクロ」の岡田一雄さん。鳴き砂はごみや汚れがあると鳴かなくなるため、琴引浜の砂浜部分では喫煙、花火、バーベキューを禁止しています。特に2001年には、網野町が条例を制定したことで日本初の「禁煙ビーチ」となったそうです。有料駐車場付近には喫煙所があり、また砂浜のすぐ上にはバーベキュー場もありますが、砂浜部分にはひとつのごみも落ちていませんでした。1週間後に開催される「26thはだしのコンサート2019」のキャッチコピーは "貴方の拾ったゴミが入場券" であり、単なる野外音楽フェスではなく環境イベントという意味合いが強いようです。

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(左)琴引浜での注意事項を説明する岡田さん。砂浜から離れた場所にある琴引浜休憩所。喫煙場所にもなっている ※右は翌日朝の散歩時に撮影

 

琴引浜の中心である太鼓浜に降りると、岡田さんが鳴き砂を実演してくださいました。鳴き砂は砂浜に含まれる石英が擦れることで起こる現象。舗装路と同じようにペタペタと歩いても鳴りません。岡田さんは効率よく砂を擦るために長靴を履いているそうです。おそらく革靴でもそれなりに鳴るけれど、スニーカーではほとんど鳴らせないのではないかと思います。一番いいのは裸足。裸足を砂に潜り込ませたまま、砂をかき分けるようにすり足で進むと、キュキュキュっと大きな音が鳴りました。

岡田さんほどの熟練者になると、砂を "笑わせる" こともできます。岡田さんが両手で砂を集めて擦り上げると、靴で歩いた時とは明らかに異なる音が鳴りました。岡田さんの実演を参加者が撮影した動画が琴引浜 - Wikipediaなどに掲載されています。

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 (左)太鼓浜の全景。(右)太鼓浜の中心地の目印。※右は翌日朝の散歩時に撮影

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(左)鳴き砂の実演をする岡田さん。(右)鳴き砂を楽しむ参加者。

commons.wikimedia.org

(リンク)鳴き砂の実演を行う岡田さんの動画。CC BY-SA 4.0 作者 : Miya.m

 

太鼓浜の脇にはかけ流しの露天風呂があり、それまで海で泳いでいた(?)方々が浸かっていました。湯を触ってみると確かにあったかい。夜間には湯が自動で抜かれるそうで、翌朝に訪れた際には露天風呂は空っぽでした。

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 (左)琴引浜露天風呂。無料。(右)湯が抜かれた露天風呂。※右は翌日朝の散歩時に撮影

 

お昼ご飯は丹後地方の郷土料理であるばらずし (丹後地方) - Wikipedia。押し寿司とちらし寿司の特徴を併せ持つ寿司のようで、ハレの日には丹後地方の各家庭で作られるようです。Wikipedia記事が詳しいので参照してください。

ばらずしを食べた後は各自で琴引浜鳴き砂文化館に戻ります。琴引浜鳴き砂文化館周辺には田植え後の水田が広がっており、その奥には古砂丘があります。古砂丘の向こう側が日本海(琴引浜)であり、国土地理院の航空写真を見ると、このあたり一帯が砂地であることがよくわかります。いかにも地震には弱そうであり、1927年の丹後大震災の際には、掛津区だけで30人以上が亡くなったそうです。

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(左)お昼ご飯のばらずし。(右)琴引浜周辺の水田と古砂丘

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(写真)琴引浜周辺の航空写真。浜辺以外も基本的に砂地なのがわかる。地理院地図 空中写真 1974-1978

 

 

Wikipediaを編集する

Wikipedia編集対象記事

今回のWikipedia編集対象記事は以下の4記事。「琴引浜」と「鳴き砂」は既存記事への加筆を行い、「琴引浜鳴き砂文化館」と「はだしのコンサート」は新規作成を行います。参加者は自分の興味のある題材のグループに分かれ、テーブルファシリテーターとして、Wikipedia日本語版管理者のくさかきゅうはちさん、オープンデータ京都実践会のMiya.mさん、Code for ふじのくに/Numazuの市川博之さん、私の計4人が入り、edit Tangoの漱石の猫さんが4グループ全体をサポートします。

「琴引浜」と「鳴き砂」は自然科学的な側面が強い題材ですが、「琴引浜鳴き砂文化館」と「はだしのコンサート」は社会科学的な題材だと思われます。題材の大きさを見ると、「琴引浜」と「鳴き砂」は中規模の記事であり、「琴引浜鳴き砂文化館」と「はだしのコンサート」は小規模の記事だと思われます。

いずれもしても4つの題材は密接に関係しており、「琴引浜」をきちんと説明しようとすると、必ず「鳴き砂」や「琴引浜鳴き砂文化館」や「はだしのコンサート」に触れる必要があります。この結果、イベント終了時の4記事にはほぼ相互にリンクが貼られることとなりました。

琴引浜 - Wikipedia(加筆)

鳴き砂 - Wikipedia(加筆)

琴引浜鳴き砂文化館 - Wikipedia(新規作成)

はだしのコンサート - Wikipedia(新規作成)

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くさかきゅうはちさんがWikipediaの説明を行っている横で、Code for ふじのくに/Numazuの市川希美さんがグラフィックレコーディングを行います。くさかさんの説明を絵や図で整理し、説明の内容を視覚的に追えるようにしているのです。

Wikipediaの編集時間は約2時間30分。私は「琴引浜鳴き砂文化館」のグループに入ったので、「Wikipediaにある他の資料館/博物館の記事を見るとこんなことが書いてある。『琴引浜鳴き砂文化館』の記事にはどんなことを書くべきだろう」という問題提起をしたところ、「歴史に関すること、展示に関すること、三輪茂雄に関すること」の3点が上がったため、この3グループに分かれて文献の調査や文章の作成を行ってもらいました。

 

他の参加者に文献を読んでもらっている間に、私はこの状態で初版を作成。建物の写真は参加者のKさんが事前にWikimedia Commonsにアップロードしてくださっていました。

「概要」「歴史」「展示」「三輪茂雄との関係」の4セクションを作成し、3グループそれぞれに節編集を行ってもらうことで、編集の競合が起こらないように気を配りました。さらに私は、他の参加者が読み込んでいない文献の中から有用な情報をかき集めて、とりあえず「概要」のセクションに書き足していきます。3グループそれぞれが編集を一通り終えたところで、「概要」のセクションの中身を「歴史」「展示」「三輪茂雄との関係」のセクションとすり合わせます。

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 (写真)くさかきゅうはちさんによるWikipediaの説明中の室内。

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(左)くさかきゅうはちさんによるWikipediaの説明スライド。(右)グラフィックレコーディング中の市川希美さん。

 

 

琴引浜鳴き砂文化館を回る

Wikipedia編集を行っている会場自体が編集対象ということで、編集時間にも琴引浜鳴き砂文化館内をうろうろして写真を撮りました。また、施設の英語表記がわからなかったので受付で聞いたら、受付の方が「私が作成しました」という英語のパンフレットを渡してくれ、Kotohikihama Singing Sand Museumという英語表記を用いていることがわかりました。

イベント開始前に入館する際から、2階を支える柱に特徴がある外観は気になっていました。木造建築で知られる吉田桂二 - Wikipediaの設計だそうで、文章中では単に「設計は吉田桂二」と書くのではなく「設計は和風建築の第一人者である吉田桂二」と表現しました。

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(左)琴引浜鳴き砂文化館の外観。(右)文化館正面にある「鳴き砂の父 三輪茂雄先生之碑」。

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(写真)琴引浜鳴き砂文化館1階。(左)微小貝の発見体験コーナー。(中)鳴き砂体験コーナー。(右)琴引浜や鳴き砂の展示コーナー。

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 (写真)琴引浜鳴き砂文化館2階。

 

「琴引浜」に関する文献をいちばん多く所蔵しているのは京丹後市立あみの図書館だと思われますが、あみの図書館は2002年開館なので古い文献はないかもしれず、京丹後市立峰山図書館にある新聞記事スクラップブックが役に立つかもしれません。「鳴き砂」という題材であれば、京丹後市立図書館よりも京都府立図書館のほうが詳しいかもしれません。現代に開始された地域イベントである「はだしのコンサート」については、書籍での言及はほとんど期待できず、京都新聞の記事や『広報あみの』がいちばん詳しいかもしれません。

今回は京丹後市立図書館に加えて京都府立図書館なども文献集めに関与しています。文献を集めた何人かの方は、これまでウィキペディアタウンに何度も参加されている方でもあり、イベント終了時の記事の姿を想像して文献を集めているのだろうと思います。

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(左)Wikipedia編集のために準備された文献。(右)Wikipedia編集中の参加者。 

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(写真)成果発表。

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(写真)市川希美さんによるグラフィックレコーディングの成果物。

 

琴引浜に泊まる

この日は主催者である琴引浜ガイド「シンクロ」の丸田智代子さんが女将を務める温泉民宿「ニュー丸田荘」に宿泊しました。天然温泉の家族風呂が建物内に3室あるのがおもしろいと思いましたが、公式サイトを見ると3室とも内装が異なるようで、1室しか体験しなかったのが悔やまれます。丸田さんは画家でもあるため、ニュー丸田荘内に丸田さんの作品が飾られているのはもちろん、琴引浜鳴き砂文化館にも二科展で入選した際の作品が展示されていました。

海水浴ができる夏、カニ料理がある冬もいいですが、丹後地方がいちばん美しいのは田植えを終えた今の時期だと思っています。琴引浜の観光客も少ないので散策には絶好の季節でした。

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(左)ニュー丸田荘の朝食。(右)ニュー丸田荘の外観。

 

このページに使用されている写真はCC0 (No Rights Reserved) です。

「福井ウィキペディアタウン2019」に参加する

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(写真)福井駅

 

1. 福井市を訪れる

2019年5月25日(土)、福井県福井市福井市立桜木図書館で開催された「福井ウィキペディアタウン2019」に参加しました。

www.library-archives.pref.fukui.lg.jp

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(写真)福井市立桜木図書館が入るAOSSA。福井駅前。

 

福井市では2017年11月18日の「福井ウィキペディアタウン in福井市東郷」と2018年5月27日の「福井ウィキペディアタウン in 足羽山」に続いて3年連続3回目のウィキペディアタウン。過去2回は福井県立図書館が単独で主催しましたが、今回は福井市立桜木図書館と福井県立図書館の共催であり、会場は福井駅前の桜木図書館です。

 

2016年8月には個人的に福井県を訪れ、越前市中央図書館、鯖江市図書館、福井県立図書館、福井市立桜木図書館を初訪問しました。越前市鯖江市の図書館の対比に興味を持ち、文献を調べたうえでWikipedia越前市立図書館 - Wikipedia鯖江市図書館 - Wikipediaを作成しています。

2017年3月には県立長野図書館でWikipedia LIB@信州 #01が開催され、私は講師の一人として参加しましたが、ここに福井県立図書館の3人が参加されていました。この方々とは2017年6月8日の「オープンデータソン2017 in 宇治 vol.1」でもお会いし、2017年11月18日に福井で開催されたウィキペディアタウンには編集サポートとして呼んでいただけたのでした。2018年5月27日のウィキペディアタウン、今回のウィキペディアタウンでも編集サポートとして参加しています。

 

2. 福井市立桜木図書館を訪れる

福井市立桜木図書館は福井駅東口の再開発ビル「AOSSA」にある図書館であり、福井駅から徒歩1分の好立地です。休館日は第3木曜日のみで、週の定期休館日はありません。平日は21時まで開館していることもあって、とても使い勝手の良い図書館だと思います。

2017年度の統計を見ると、桜木図書館の蔵書数は21万冊であり、福井市立図書館(中央館)の0.5倍。桜木図書館の貸出数は28万冊であり、福井市立図書館(中央館)の0.8倍。桜木図書館の入館者数は31万人であり、福井市立図書館(中央館)の1.9倍。蔵書数や貸出数と比べると入館者数が顕著に多い、いわゆる "駅前型図書館" ですが、他地域の駅前型図書館と比べると床面積は大きく、ゆったりとしています。

 

イベントのスケジュール

10:00-10:10 開会・イベント趣旨説明(福井市立桜木図書館:北村明恵さん)

10:10-10:30 Wikipediaについて(Wikipedia管理者:くさかきゅうはちさん)

10:30-13:20 まちあるき(福井市文化財保護課:藤川明宏さん)

13:20-14:20 各自で昼食

14:20-14:35 Wikipediaの編集について(くさかきゅうはちさん)

14:35-14:50 図書館での郷土資料の調べ方(北村明恵さん)

14:50-16:50 資料調査・Wikipedia記事編集

16:50-17:20 成果発表・講評

17:20-17:30 記事の再編集・ふりかえり

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 (写真)会場の桜木図書館のおはなし室。

 

3. 福井城下を歩く

今回の参加者は約25人であり、講師・スタッフを含めると30人強となりました。参加者の内訳は、県立高校の高校生が9人おり、それ以外は県立高校の教員、県内の図書館司書、県外の図書館司書、県外の学校司書、元図書館員、市役所職員、学芸員ウィキペディアン、マッパーなどでした。県立高校の高校生は部活動の一環として参加されていました。

福井市立桜木図書館におけるイベント担当者は北村明恵さん。イベント趣旨説明の時は緊張していたのかクールでしたが、前日夜に主催者陣で焼き鳥店に行った際には「(イベントを通じて)いままで見ていた町が違う町に見えるといい」「(郷土資料を通じて)先人の思いに触れる」というかっこいい言葉がどんどん出てくる熱い司書です。開催意図がわかりづらい複雑なイベントだからこそ、なぜ図書館で開催するのか主催者が参加者に説明するのは大事です。Wikipediaについての講義はWikipedia日本語版管理者のくさかきゅうはちさん。

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(写真)くさかきゅうはちさんによるWikipediaについての講義。(※画像編集済)

 

この日は快晴であり、長袖だと暑いくらいの日差しでした。ただし、事前にはまちあるきコース図が配布され、見学場所が明確に提示されていたことで、それほど間延びせずに歩いていた印象です。

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(写真)福井市街地を歩く参加者。

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(地図)配布されたまちあるきコース図。OpenStreetMapを使用している。

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(地図)配布された今昔マップ。『福居御城下絵図』の上に地理院地図が重ねられている。

 

1. 福井市立郷土歴史博物館

最初の目的地は福井市立郷土歴史博物館。1年前に引き続いてまちあるきガイドをしてくださるのは、福井市文化財保護課の藤川明宏さん。郷土歴史博物館は藤川さんが長らく勤めていた施設でもあります。近世以後の福井市の歴史について、九十九橋の原寸大模型や福井城本丸の模型を用いて説明してくださいました。まちあるきの初めに福井市の歴史をざっくりと頭に入れたことが、この後の養浩館庭園や芝原上水や福井城でも活きていたような気がします。

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(写真)福井市立郷土歴史博物館。※当日朝の散歩時に撮影

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 (写真)博物館内で藤川明宏さんの説明を聞く参加者。

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 (左)福井城の舎人門。※当日朝の散歩時に撮影(右)福井市立郷土歴史博物館と芝原上水。※当日朝の散歩時に撮影

 

2. 養浩館庭園

2つ目の目的地は養浩館庭園(ようこうかんていえん)。養浩館は福井藩松平家の別邸であり、芝原上水を引き込んだ回遊式林泉庭園を持ちます。貴重な上水をふんだんに使っていることが権威の証だったとか。庭園は近世から続くものであり、国の名勝に指定されています。

数寄屋風建築の養浩館は1945年(昭和20年)の福井空襲で焼失。1982年(昭和57年)に庭園が名勝に指定されたことを機に、1993年(平成5年)に復原整備されたものです。細い柱、杮葺の屋根などが軽やか。御上り場(風呂)で洗い湯が建物直下の池に落ちる構造になっている説明の際にはどよめきが起こりました。公式サイトでは建物の各部位について紹介していて親切です。福井城の本丸には天守や櫓などが現存しないため、観光客をひきつける建物として養浩館の存在は大きい。

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(写真)養浩館庭園の入口。※当日朝の散歩時に撮影

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 (写真)養浩館内の御湯殿で藤川明宏さんの説明を聞く参加者。

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 (写真)養浩館内や庭園で藤川明宏さんの説明を聞く参加者。

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 (左)養浩館と養浩館庭園。奥に小亭「清廉」。(右)小亭「清廉」と養浩館庭園。奥に養浩館。

 

3. 芝原上水

福井城の北側を流れている芝原上水は、北ノ庄藩(福井藩)初代藩主の結城秀康が家老の本多富正に命じて造らせた上水。1607年完成であり、江戸の神田上水(1590年-1629年)や玉川上水(1653年)などと並んで日本有数の古さを持つ上水だそうです。

近代になって上水道が整備されると、芝原上水の役割は変化し、主に灌漑用水などに用いられたそうです。現代の福井市街地においては、芝原上水を残さなければいけない理由もないと思いますが、多くの部分が開渠で残っていることが城下町らしさにつながっています。

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(写真)芝原上水。右は福井県国際交流会館。※当日朝の散歩時に撮影

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 (写真)福井県国際交流会館前で藤川明宏さんの説明を聞く参加者。

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 (写真)福井市志比口を流れる芝原上水。※当日朝の散歩時に撮影

 

今回のイベントで作成されたWikipedia記事を読むと、芝原上水は現在の吉田郡永平寺町(旧松岡町)で九頭竜川から取水され、約8kmを流れて福井城下に入っているようです。まちあるき時に見学したのは最下流部ですが、Google mapで芝原上水を上流にたどっていくと、北陸自動車道を超えたあたりで「七瀬川」という名称が出現します。「七瀬川」と芝原上水は異なる水路なのでしょうか。『千年の悲願 九頭竜川の用水』には流路図が掲載されていますが、芝原上水と「七瀬川」の関係については判断できません。

芝原上水は鳴鹿大堰という堰が起点のようです。芝原上水の流路についてはぐぐっても適当な画像が出てこないため、『千年の悲願 九頭竜川の用水』を参考にしてざっくりと作図してみました。

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(地図)芝原上水の流路。©OpenStreetMap contributors

 

4. 福井城

福井市立郷土歴史博物館では展示物を見ながら、藤川さんから主に歴史的な話を聞きました。福井城本丸では堀や石垣などの地形を見ながら、地理的な話を中心に聞きました。本丸では人名・地名・年号など頭が混乱する単語をできるだけ避けていたように思われ、聞く側の思考に合わせたわかりやすい解説でした。

お昼ご飯は各自で。今回のまちあるきコースは福井市中心市街地なので食事場所には困りません。わたしは福井駅西口の再開発ビル「ハピリン」で越前そばを食べました。2016年に「ハピリン」が開業する前の福井駅のことを知らないのですが、この場所には何があったのだろう。

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(写真)福井城跡。右は御廊下橋

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 (左)御廊下橋。※当日朝の散歩時に撮影(右)山里口御門の展示施設。※当日朝の散歩時に撮影

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 (写真)夜間の御廊下橋と山里口御門。※前日夜の散歩時に撮影

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(写真)福井城の石垣。1948年の福井地震で一部が崩れた。

 

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(写真)お昼ごはんに食べた越前そば。

 

4. Wikipediaを編集する

Wikipediaの編集に入る前に、桜木図書館の北村さんから編集で使用する文献の紹介がありました。今回も重い文献から軽い文献まで揃えられています。会場がおはなし室ということで、絵本書架を用いて面展示のように提示されました。ウィキペディアタウンで図書館司書は脇役になりがちですが、文献紹介の時間は司書の腕の見せ所です。

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(左)使用する文献の紹介。(右)図書館によって準備された文献。

 

編集対象記事

まちあるきの途中、養浩館庭園に入る前に主催者から提示された編集対象記事は以下の3記事です。すべてが福井城に関連する記事でありながら、歴史(福井城)、文化(養浩館庭園)、地理(芝原上水)と分野が分かれており、参加者が自分の興味のある分野を選びやすいようになっていました。とても題材選びがうまいです。

福井城 - Wikipedia(加筆)

養浩館庭園 - Wikipedia(加筆)

芝原上水 - Wikipedia(新規作成)

 

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(写真)編集作業中の参加者。

 

福井城グループに入った1人を除いて、高校生は養浩館庭園グループに固まりました。福井城グループは参加者の属性がばらけ、芝原上水グループには図書館司書が集まりました。私の役割はWikipediaの編集サポートであるため、Wikipedia講師のくさかきゅうはちさんや一般参加しているウィキペディアタウン経験者とともに各グループの様子を窺います。

芝原上水グループ →節構成も文章の内容も一から考える必要がある新規記事であり、なおかつ題材的にはもっとも編集が難しそう。ただしウィキペディアタウン参加経験のある図書館司書が多いため、ある程度放置して自由に編集を行ってもらって問題なさそう。

福井城グループ →既存の記事への加筆ということで、既存の文章への出典を追加したり、既存の文章にない内容を加筆したりすることに限られる。Wikipediaの編集に慣れていない参加者が多いが、市役所職員や公共図書館司書など能力の高い大人が多いので、ちょっとしたヒントを与えるだけでよさそう。

養浩館庭園グループ Wikipediaの編集経験がない高校生が多い。百科事典的な節構成を検討してもらったり、百科事典的な文章の作成を経験してもらうなど、ファシリテーター的役割の方が必要。

 

ウィキペディアタウンの開催目的は、「参加者にWikipediaの編集方法をマスターさせること」ではありません。「参加者にWikipediaの編集を通じて "何か" を得てもらうこと」が目的であり、その "何か" は主催者は参加者によって違います。Wikipedia編集の時間には "その時間にひとりひとりの参加者が何をすべきか" から考えてほしいと思っています。

とはいえ、高校生にそれを求めるのは無茶であり、編集作業の方向性を提示してうまくフォローできるファシリテーター的役割の方が必要。もっとも気になる養浩館庭園グループには、京都府から参加していた学校司書の伊達さんが入り、「情報カード」や「見出しカード」などワークショップ的手法で編集作業の道案内をしていました。

 

今回の私の役割には、Wikipediaの編集時間に各グループのサポートを行うことに加えて、成果発表後には3記事それぞれについて講評を行うという役割もありました。他地域では参考文献を要約するだけになってしまうウィキペディアタウンもありますが、今回の3グループはいずれも、参加者が何かしらの着眼点を持って編集ができたと思います。

参加者が図書館司書/市役所職員/高校教員など能力の高い方ばかりだったこともありますが、題材の選定や文献の選択のうまさ、ガイドによる説明のわかりやすさなどが大きかったのではないでしょうか。特に題材の選定のうまさ。"福井城" というわかりやすく興味を持ちやすい題材を選定し、メインテーマの福井城にサブテーマとして養浩館庭園と芝原上水を加えたのがよかった。ウィキペディアタウンを過去2回開催している福井県立図書館による全面バックアップも大きいです。Wikipediaの編集サポートとしても、いち参加者としても、とても魅力的なイベントでした。

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 (写真)節構成を決めるための見出しカード。

吉田町の映画館

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(写真)吉田町立図書館。2017年4月。

 

大井川の河口部に位置する町、静岡県榛原郡吉田町を訪れました。1889年(明治22年)に町村制を施行してから町域が変化していない珍しい自治体です。大正時代からうなぎの産地として知られ、かつては大井川の近くに多数の養鰻場がありました。東名高速道路の吉田インターチェンジがあることから、近年には町内に物流企業が多数進出しています。

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 (地図)静岡県における吉田町の位置。©OpenStreetMap contributors

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(地図)吉田町における各大字の位置。©OpenStreetMap contributors

 

吉田町の映画館一覧

かつて吉田町には4館の映画館がありました。

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(写真)『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』。榛原郡の欄には住吉劇場と神戸映画劇場の2館が掲載されている。

 

吉田座(-1960年代前半)

所在地 : 静岡県榛原郡吉田町片岡
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『映画年鑑 1960年 別冊 全国映画館総覧』では「吉田座」。『映画年鑑 1963年 別冊 全国映画館総覧』には掲載されていない。なお、『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』には掲載されていない。映画館名簿以外の文献では言及を確認できず。

 

吉田中央劇場(-1960年代前半)

所在地 : 静岡県榛原郡吉田町片岡
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『映画年鑑 1960年 別冊 全国映画館総覧』では「吉田中央」。『映画年鑑 1963年 別冊 全国映画館総覧』では「吉田中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。なお、『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』には掲載されていない。映画館名簿以外の文献では言及を確認できず。

 

神戸劇場 (1957年頃-1967年頃)

所在地 : 静岡県榛原郡吉田町神戸
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
『映画年鑑 1960年 別冊 全国映画館総覧』や『映画年鑑 1963年 別冊 全国映画館総覧』では「神戸映画劇場」。『映画年鑑 1966年 別冊 全国映画館総覧』には掲載されていない。

『島田・牧之原・榛原今昔写真帖』(郷土出版社、2006年)には、1959年の神戸劇場(かんどげきじょう)の写真が掲載されている。1957年頃に建設され、1967年頃まで営業していた。静岡県道79号吉田大東線と静岡県道34号島田吉田線が交わる「神戸」の交差点近くにあった。跡地には民家が建っており、近くにはJAハイナン神戸支店や吉田町立自彊小学校がある。映画館前の静岡県道79号吉田大東線は交通量の増加により拡幅整備された。

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(写真)異なる角度から撮った神戸劇場跡地。現在は民家。2019年5月。

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(左)1960年代の神戸劇場周辺の航空写真。(右)2000年代の神戸劇場跡地周辺の航空写真。いずれも地理院地図 空中写真



住吉劇場(-1970年代前半)

所在地 : 静岡県榛原郡吉田町住吉2469
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『映画年鑑 1960年 別冊 全国映画館総覧』や『映画年鑑 1963年 別冊 全国映画館総覧』や『映画年鑑 1966年 別冊 全国映画館総覧』や『映画年鑑 1969年 別冊 全国映画館総覧』では「住吉劇場」。『映画年鑑 1973年 別冊 全国映画館総覧』には掲載されていない。映画館名簿以外の文献では言及を確認できず。

 

住吉劇場はどこにあったのか

住吉はもっとも遠州灘に近い大字であり、吉田町役場がある大字です。吉田町に最後まで残っていた映画館が住吉劇場であることはわかりましたが、この映画館は住吉のどこにあったのでしょうか。

 

考察1:住所

1969年の『映画館名簿』によると住吉劇場の所在地は「吉田町住吉2469」。現在のこの住所の場所には民家があり、この民家のすぐ北側には大きな建物があります。映画館時代の建物がそのまま残っている可能性があると考えましたが、Googleストリートビューでは建物の一部分しか見えません。この建物の場所を【住吉劇場跡地候補地】としました。

なお、吉田町立図書館が所蔵しているもっとも古い住宅地図は2005年のものであり、静岡県立中央図書館が所蔵しているもっとも古い住宅地図は1977年のものであるため、住宅地図に住吉劇場は掲載されていません。

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(地図)ブロック中央の巨大な建物が【住吉劇場跡地候補地】。周辺の建物の番地。地理院地図

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(写真)Google ストリートビューで南側の道路から見た【住吉劇場跡地候補地】。©Google

考察2:立地

1960年代の吉田町大字住吉には、はっきりとした市街地/商店街が形成されていました。住吉神社や吉田町立住吉小学校前の交差点を市街地/商店街の中心とすると、【住吉劇場跡地候補地】は中心から250mと近く、映画館の立地としては絶好の場所に思えます。また、【住吉劇場跡地候補地】は商店街通りから2軒分奥まった場所にありますが、これは商店街型映画館にありがちな立地です。

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(写真)1960年代の航空写真における住吉市街地。地理院地図 空中写真 1961-1969

 

考察3:航空写真

1960年代の航空写真を見ると、【住吉劇場跡地候補地】は周囲の民家と比べて明らかに大きく、高い(≒影が大きい)ように見えます。また、シンプルな切妻屋根であることや、建物の辺長比(長辺と短辺の比率)が大きすぎないことも、映画館らしく見えます。これはこの時代の映画館全般に言えることでもあります。さらに、1960年代、1970年代、1980年代、2000年代の航空写真を見比べると、この建物は建て替えられていないようにも見えます。

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(左)1960年代の航空写真。地理院地図 空中写真 1961-1969(右)1970年代の航空写真。地理院地図 空中写真 1974-1978

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(左)1980年代の航空写真。地理院地図 空中写真 1988-1990(右)2000年代の航空写真。 地理院地図 空中写真 2007-

 

現地訪問結果

今回は以上の考察をふまえて現地を訪れたのですが、この建物の場所が住吉劇場跡地であるかどうか、またこの建物が映画館時代の建物そのままであるかどうかは、よくわかりませんでした。この建物は2000年代竣工ではないかと思えるほど新しいし、映画館特有のチケット売り場や扉も残されていませんでした。ただ、考察1から、この場所に住吉劇場があった可能性が高いと考えており、今後の調査で確定させられることを期待します。吉田町の田村典彦町長は1944年生まれ、吉田町出身で現在は吉田町住吉在住とのことなので、町長なら住吉劇場のことを知っているかもしれません。

 

津島市立図書館を訪れる

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(写真)津島市立図書館。2019年5月。

2019年(令和元年)5月、愛知県津島市を訪れました。

 

1. 津島市を訪れる

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(地図)愛知県における津島市の位置。©OpenStreetMap contributors

 

津島市は歴史ある町。全国に約3,000社ある津島神社/天王社の総本社があり、近世には津島神社門前町として栄えました。尾張津島天王祭は日本三大川祭りのひとつであり、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」の構成遺産です。近代には日本最大の毛織物産地として栄え、天王川公園には "毛織物の父" 片岡春吉の銅像が建っています。愛知県立津島高校の前身は1900年(明治33年)開校の愛知県第三中学校であり、愛知県立旭丘高校(愛知一中)、愛知県立岡崎高校(愛知二中)に次ぐ歴史を有しています。

かつては尾張地方でもっとも活気があった町のはずですが、近代には主要な鉄道路線の経路から外れ、戦後には毛織物業などの紡績業は衰退しました。現在は市街地のさびれ具合が目立ちますが、街道沿いには古い町並みが残っているし、河床の痕跡など地形に着目して歩くのも楽しい町です。

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 (左)津島神社。作者 : full moon69。(右)尾張津島天王祭。歌川広重『六十余州名所図会』。

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(左)天王川公園にある片岡春吉の銅像。(右)愛知県立津島高校の正門。登録有形文化財。いずれも2019年5月。

 

名鉄津島駅の構内には津島市立図書館と愛西市中央図書館の返却ポストがあります。愛西市は北・西・南の三方から津島市を取り囲んでいる自治体であり、津島市への通勤通学者は多そう。両自治体はいずれもNPO法人まちづくり津島が指定管理者を務めていることから、このように自治体の境界を越えた連携ができるようです。

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(左)名鉄津島駅。2016年7月。(右)名鉄津島駅構内にある津島市立図書館と愛西市中央図書館の返却ポスト。2019年1月。

 

名鉄津島駅からは西に向かって天王通りが伸びており、その突き当りに津島神社があります。境内南側の鳥居のわきには「わざ・語り・伝承の館」がありますが、この建物は1967年から2000年まで津島市市立図書館(「市」の字が並ぶ)として使用されていた建物です。

津島市市立図書館から南に向かうと、尾張津島天王祭が開催される天王川公園があります。天王川公園の南、かつて河床だったと思われる場所には津島市立天王中学校や愛知県立津島高校があり、それらの脇に現在の津島市立図書館の現行館があります。

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(写真) 「わざ・語り・伝承の館」。1967年から2000年まで津島市市立図書館。2019年5月。

 

2. 津島市立図書館を訪れる

2.1 図書館の館内

津島市立図書館の建物は尾張津島天王祭の巻藁船(まきわら舟)を模しているそうです。丸みを帯びた建物右側や、オーダーが2階のテラスを突き抜けているように見えるところなどでしょうか。

図書館の玄関ホールには展示コーナーが設置されており、「古銭からみる元号」という展示を行っていました。津島市は歴史ある町ですが博物館や資料館は存在しません。この展示コーナーではいつも、一般的な図書館とは違う質の高い展示が行われています。

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(写真)津島市立図書館。2019年5月。

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(左)図書館情報掲示板。(右)展示「古銭から見る元号」。いずれも2019年5月。

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(左)一般書。(右)児童書。いずれも2016年6月。

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(左)雑誌コーナー。(右)郷土資料コーナー。いずれも2016年6月。

 

2.2 郷土資料の収集と製作

津島市立図書館は、1895年に日清戦争の戦勝を記念して創設された書籍館を起源とし、1897年には愛知県で初めて/全国で31番目に公共図書館として認可されました。2015年12月に創立120周年を迎えた際の新聞記事では "県内最古の公立図書館" と紹介されています。この歴史の古さに興味を持って図書館について調べ、2016年7月には津島市立図書館 - Wikipediaを作成しました。

此の図書館は明治28年、我国の清国に勝ちし記念に創立されたるに、日清戦争記念の図書館としては、日本に此の図書館あるばかり。小さしと雖も誇るに足るなり。(中略)儒教、哲学、教育、文学、兵事、美術……お伽噺の所に至るまで四千五百冊、燦然として光輝あり。想ひの外なる立派さに喜悦感歓の涙を禁ずるに能はず。   『読売新聞』1913年7月1日

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(写真)津島市立図書館 - Wikipedia


雑誌コーナーの手前には津島市に関係する人物の著書を集めた「ふじいろ文庫」が設置されており、その脇には「津島・古地図さんぽ」というコーナーが設けられていました。「第0回」は "図書館が所蔵する古地図の中には偽図もある" という内容で、今後も連載が続いていくようです。おもしろい。
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(左)ふじいろ文庫。(右)ふじいろ文庫にある「津島・古地図さんぽ」コーナー。いずれも2019年5月。

 

津島市立図書館はLibrary of the Year 2016で第一次選考を通過しました。郷土資料の収集はもちろん、郷土資料の製作も積極的に行っており、刊行物は質の高いものばかりです。『地方新聞集成 海部・津島』(津島市周辺で刊行されていた新聞の再版)、『歴史写真集 津島』(古写真集)、『津島市立図書館編年資料集成 1895-2015』(図書館史)、「戦時下の津島と片岡毛織」(映像資料)などがあります。

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 (写真)津島市立図書館が刊行している『地方新聞集成 海部・津島』(第1輯-第3輯)。2019年5月。

 

図書館公式サイトには「津島の新聞記事」というページがあり、中日新聞朝日新聞・読売新聞・毎日新聞中部経済新聞などに掲載された津島市関連の新聞記事の情報が掲載されています。見出しだけではなく内容の要約まで入力されています。これはたぶん珍しい。キーワード検索も可能であり、ためしに "津島市立図書館" と検索すると143件もの記事が出てきました。

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(写真)「津島の新聞記事」の例。

 

3. 津島市立図書館の分室を訪れる

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(地図)津島市立図書館の分室の位置。©OpenStreetMap contributors

 

3.1 神守分室

神守(かもり)地区の津島市生涯学習センターには神守分室があります。佐屋街道の神守宿が設置されていた地区であり、式内社の憶感神社、神守の一里塚、尾張津島天王祭で用いられる山車の蔵などがありました。神守分室は床面積42m2、蔵書数4,871冊(2014年)という図書室ですが、蔵書は総じて新しく、スタッフが室内に常駐していました。このような図書室が身近にあれば入り浸ることは間違いないと感じるような図書室です。

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 (左)神守分室がある津島市生涯学習センター。(右)津島市立図書館神守分室。いずれも2019年5月。

 

 

3.2 神島田分室

神島田地区の神島田公民館には神島田分室があります。こちらは床面積45m2、蔵書数5,120冊(2014年)。事務室の正面が図書室ということで、室内にスタッフはいません。こちらも蔵書は新しいのですが、神守分室と比べるとスタッフの手が入っていない印象が強く、単なる学習スペースとして使用されていそうな気がします。

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(写真)神島田公民館。2019年5月。

 

4. 津島市の映画館

かつて津島市には映画館が2館ありました。繁栄の歴史を考えると少ない気がしますが、高度経済成長期にはすでに尾張地方の拠点としての地位をなくしていたのかもしれません。津島市に限らず海部・津島地方には映画館が少なく、1960年以降には計4館(津島市2館、弥富市1館、蟹江町1館)があったのみです。

津島映画劇場と巴座はいずれも天王通り沿いにありました。跡地はそれぞれ14階建て・11階建てのマンションになっており、低層の建物が多い天王通り沿いではよく目立ちます。津島市の映画館について調べた結果は尾張西部の映画館 - 消えた映画館の記憶に掲載しています。

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(地図)津島市街地における映画館の位置。地理院地図

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(地図)明治時代の津島町。

 

4.1 巴座(1951年-1960年代後半)

書籍での言及は確認できていない。1970年代の住宅地図を見ると跡地に「パチンコ津島一番」がある。現在の跡地は1992年3月竣工の14階建てマンション「天王通パーク・ホームズ」。

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(写真)巴座跡地にある天王通パーク・ホームズ。

 

4.2 津島映画劇場(1940年-1980年代後半)

『西尾張今昔写真集』(樹林舎、2007年)には昭和30年代の津島映画劇場の写真が掲載されている。跡地は1990年3月竣工の11階建てマンション「サンハウス津島」。

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(写真)津島映画劇場跡地にあるサンハウス津島。左奥が津島神社

 

4.3 TOHOシネマズ津島(2005年-)

2005年12月8日開館。ヨシヅヤ津島本店南側のシネマ棟にある。西尾張地方では1999年開館のユナイテッド・シネマ稲沢、2004年開館のTOHOシネマズ木曽川に次いで開館したシネコン。開館時の新聞記事には「名古屋市三重県北部からの来場者も見込み」とある。

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(写真)ヨシヅヤ津島本店シネマ棟。2019年5月。