振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

豊根村教育文化センター森遊館情報室を訪れる

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(写真)JR飯田線大嵐駅

2019年(令和元年)12月、愛知県北設楽郡豊根村富山地区(旧・北設楽郡富山村)を訪れました。森遊館は休館日だったので入館していません。なお、約2年前の2018年(平成30年)1月には豊根村の中心部にある豊根村ふれあいセンター内図書コーナーを訪れています

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1. 豊根村富山地区を訪れる

北設楽郡富山村(とみやまむら)は1876年(明治9年)から2005年(平成17年)まで存在した自治体。大正時代のピーク時には1500人の人口を有していましたが、日本のダム史に残る佐久間ダムが1955年(昭和30年)に完成すると、村役場があった河内集落などが佐久間湖に沈んで全人口の1/3が離村。1980年代からは「(※離島を除けば)日本一人口の少ない自治体」として知られ、2005年に豊根村編入合併された際の人口は218人でした。合併後の人口減少率はすさまじく、2018年(平成30年)時点の富山地区の人口は76人となっています。

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(地図)名古屋市から見た北設楽郡豊根村の位置。©OpenStreetMap contributors

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(地図)豊根村富山地区。国土地理院 地理院地図

  

愛知県豊橋市豊橋駅からJR飯田線で2時間強、37駅目が大嵐駅(おおぞれえき)です。大嵐駅の所在地は静岡県浜松市天竜区水窪町であるものの、実質的には愛知県豊根村富山地区のための駅であり、ホームからは豊根村の大きな看板が見えます。大嵐駅は比較的よく知られた秘境駅であり、Google検索では訪問者の個人ブログなどが多数ヒットします。

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(写真)大嵐駅。(左)飯田方面のトンネル。駅舎手前には豊根村の看板。(右)豊橋方面の大原トンネル。

 

1937年(昭和12年)には国鉄飯田線が全線開通。1997年(平成9年)には飯田線全通60周年を記念して、立地する水窪町の許可を得て富山村が駅舎を新築しています。この駅舎はJR東海の施設ではなく富山村の施設であるため、厳密には駅舎ではなく休憩所という扱いだそうです。

駅舎の外観は東京駅をモチーフとしたものだそうで、外壁には赤レンガを模した不燃パネルが使用されています。なお、大嵐駅の床面積は56m2、東京駅の床面積は約2万m2。大嵐駅の乗車人員は20人/日、東京駅の乗車人員は約47万人/日とのことです。

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(写真)大嵐駅の駅舎内。

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(左)大嵐駅のレンタサイクル。(右)天竜川に架かる鷹巣橋。橋の中央が静岡県-愛知県境。

 

 

2. 豊根村富山地区を歩く

2.1 富山支所周辺

富山地区の集落に入ってすぐの場所には、豊根村役場富山支所、富山郵便局、新城警察署富山駐在所など、富山地区の公共施設が集まっているエリアがあります。かつてあったはずの「川井旅館」は存在せず、また川井旅館の向かいにあったという「喫茶栃の木」は、2018年(平成30年)に(?) 2km離れたとみやま来富館に移転したようです。富山地区唯一の商店である「千歳屋商店」は日曜定休で閉まっていました。

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(写真)富山地区中心部にある公共施設群。左前が富山郵便局、右前が富山支所、右奥が富山駐在所。

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(左)豊根村役場富山支所。(中)富山郵便局。(右)新城警察署富山駐在所。

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(左)豊根村林業センター前にある「ミニ村」の看板。(右)富山地区の地図。既に存在しない施設もちらほら。

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(左)公共施設群の遠景。(中)千歳屋商店。(右)千歳屋商店周辺。

 

2.2 豊根村立富山小中学校

富山市街地西部の高台には豊根村立富山小中学校がありましたが、2015年(平成27年)に廃校となっています。学校の敷地まで自動車でアクセスすることはできず、児童生徒や教職員は学校下の広場から石段を上る必要があります。さすがにこれでは荷物を運ぶのが困難なため、石段の脇には荷物運搬用の滑車がありました。

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(左)富山小中学校に向かう階段。(中)校歌碑。(右)荷物を運搬するための滑車。

 

遠くからも目につく奇妙な構造物は、1981年(昭和56年)からグラウンド全体を覆っているドームでした。この地域は雪深いわけではなく、なぜグラウンドをドームで覆う必要があったのか気になります。富山小中学校は富山地区の高台にあるとはいえ、その標高はわずか385mであり、奥三河の多くの地区より低いのです。

 

2015年(平成27年)の廃校以前の富山小中学校では山村留学が行われており、留学生寮では2匹のロバが飼育されていました。廃校によってロバたちは用無しとなったものの、現在行われている地元ガイドと歩く観光ツアーにはロバも同伴しているようです。ロバって基本的に愛想が悪いからこういう催しには向いてないと思うけど。今回はこのロバたちに出会いませんでしたが、訪れなかった熊野神社周辺で飼育されてるのでしょうか。

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(左)敷地入口。「山」の字がずれてる。(右)メイン玄関。

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(左)ドームに覆われたグラウンド。(右)グラウンドと校舎。

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(写真)新城消防署富山駐在所付近から見た富山小中学校。

 

富山小中学校近くには富山地区唯一の信号機「大谷下」がありますが、これは教育目的で1981年(昭和56年)に設置されたものだそうです。かつて豊根村には、下黒川の「黒川橋北西」、坂宇場の「坂宇場小前」、富山の「大谷下」の3機の信号機がありましたが、2005年(平成17年)に坂宇場小学校が廃校となると、2017年度には「坂宇場小前」信号機が撤去されたそうです。2015年(平成27年)に富山小中学校が廃校となったことで、「大谷下」信号機も撤去が検討されているそうですが、どうなるでしょうか。

参考文献「全部で?基 豊根の信号機 年度内に1基撤去へ 将来は…」『中日新聞』2017年8月18日

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(写真)富山小中学校近くにある信号。

 

富山市街地を通る愛知県道1号の名称は、正式には「長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線」だそうで、3県にまたがっています。 f:id:AyC:20191225044946j:plain

(写真)愛知県道1号飯田富山佐久間線。

 

2.3 豊根村教育文化センター「森遊館」

富山小中学校から南に約1kmの場所には豊根村教育文化センター「森遊館」があります。25m×5コースの温水プール、150席の文化ホール兼体育館、ウェイトトレーニング器具などがあるトレーニングルーム、56人収容の研修室などがあり、情報室には図書コーナーがあるようです。豊根村編入後に整備された施設かと思いきや、合併前の2000年(平成12年)に完成した施設だそうです。人口200人の自治体には過剰な設備に思われ、他にお金の使い道がなかったのだろうかと考えてしまいました。

なお、豊根村教育文化センター「森遊館」の開館日は火曜・木曜・土曜の週3日であり、私が訪れた日曜は休館日でした。公式サイトには書架が写った写真が1枚も掲載されておらず、またOPACも公開されていないため、蔵書数などは不明です。

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(写真)豊根村社会教育センター「森遊館」。

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 (写真)豊根村社会教育センター「森遊館」。(右)「森遊館」に併設された湯の島温泉。

 

2.4 河内集落跡

豊根村社会教育センター「森遊館」近くには、佐久間ダムの建設時に湖底に沈んだ河内集落跡の説明看板がありました。河内集落は延元2年(1337年)に隠れ里として築かれ、天竜川水運の中継地として繁栄。1876年(明治9年)の富山村発足時には、村役場・学校・駐在所・農業などの主要施設がこの集落に置かれましたが、入植から617年後の1955年(昭和30年)、佐久間ダム - Wikipediaの建設によって水没しました。

河内集落があったのは「森遊館」の正面付近ということで、水位の低下で露出している湖底付近に集落があったのだと思われます。2019年(令和元年)10月下旬から2020年(令和2年)2月末まで、6年に一度の導水路点検のために佐久間湖の水位を下げているそう。通常時の佐久間湖の姿を見てみたい気もしますが、珍しい光景を目撃できて運がよかった気もします。Wikimedia Commonsには通常時の佐久間湖の写真がアップロードされていましたが、Tomio344456さんの写真は私が撮った湖底が露出した写真とほぼ同じ位置を撮影していると思われます。

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 (左)佐久間湖岸の河内集落跡地付近。(右)河内集落跡の説明看板。

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(左)水位が低下した佐久間湖。(右)富山地区の集落と大きな高低差がある佐久間湖。

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(写真)通常時の佐久間湖の水量(2011年9月)。河内集落跡地付近。Tomio344456 (CC BY-SA 4.0) - Wikimedia Commons

 

2.5 夏焼第二隧道

JR大嵐駅のすぐ南側には、1955年(昭和30年)の新線切り替えまで飯田線のトンネルとして使用されていた夏焼第一隧道と夏焼第二隧道 - Wikipediaがあります。現在は道路トンネルとして使用されており、水窪町夏焼集落(※無住)への唯一のアクセス路となっています。約100mの夏焼第一隧道には照明がありませんが、約1,200mの夏焼第二隧道には照明がともっていました。夏焼集落は比較的簡単に訪れることができる秘境として人気があるようで、Google検索すると個人ブログなどがいくつもヒットします。

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(写真)夏焼第一隧道と夏焼第二隧道。手前が第一、奥に見えているのが第二。

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(左)夏焼第二隧道の内部。(右)夏焼第二隧道の南側出口。

水窪町の映画館

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(写真)水窪小学校北側から見た水窪市街地。

2019年(令和元年)12月、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)を訪れました。「浜松市立水窪図書館を訪れる」からの続きです。

 

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1. 浜松市水窪民俗資料館

1.1 特色

水窪市街地から北東に1kmほど歩くと、水窪発電所を越えた先に浜松市水窪民俗資料館がありました。隣接地に収蔵庫や移築民家もある立派な資料館ですが、その立地のせいで入館者数が少ないのではないかと思います。

"撮影した画像をホームページ等で情報発信する場合は、浜松市博物館本館または教育委員会水窪分室に連絡をお願いいたします" という注意書きがありました。写真撮影に対する態度が明快なのはいいですね。

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(写真)浜松市水窪民俗資料館。

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(左)館内の写真撮影についての注意書き。(右)水窪石。

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(写真)浜松市水窪民俗資料館の館内。(左)1階。(右)2階。

 

1.2 展示

2階には民俗資料が詳しい説明などもなく並べられています。静岡県指定有形民俗文化財の藤布織機がありました。1968年(昭和43年)3月19日というかなり古い時期に文化財指定されていますが、どういう経緯でこの資料館に置かれているのかよくわかりませんでした。Google検索で見る藤布は麻布よりごつごつした印象ですが、織る前の藤糸はさらさらしていました。

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(写真)藤布織機。静岡県指定有形民俗文化財

 

1.3 映画館の広告

1階には水窪町民が収集した商店広告が展示されていました。この中には「水窪劇場と小畑劇場」の広告があり、両劇場がおそらく同一経営者であることがわかります。映画館名簿や文献に小畑劇場という名称の劇場は登場しませんが、小畑区にあった三嶋座が小畑劇場に改称したのだと思われます。

「矢作映劇」の広告もありました。矢作とは岐阜県恵那郡上矢作町のことかと思いましたが、同じ額縁内には愛知県豊田市岡崎市の商店の広告がいくつかあることから、1969年(昭和44年)まで岡崎市矢作橋にあった矢作映画劇場の広告のようです。この商店広告を収集した女性は水窪町から豊田市岡崎市に嫁いだのかもしれません。

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(写真)商店の広告類。

(左)水窪劇場と小畑劇場の広告。(右)矢作映劇の広告。

 

2. 水窪町の映画館

『映画年鑑 1963年版 別冊 映画便覧』(時事通信社)などの各年版映画館名簿によると、戦後の水窪町には「水窪劇場」と「八幡劇場」という2館の映画館がありました。

水窪の民俗』(遠州常民文化談話会、2012年)によると、戦前の水窪町には「水窪座」と「八幡座」と「三嶋座」という3館の劇場がありました。三嶋座は昭和20年代初頭に閉館したようですが、水窪座は水窪劇場となり、八幡座は八幡劇場となったようです。

(写真)水窪町に2館が掲載された『映画便覧 1963』(時事通信社、1963年)。

 

浜松市水窪図書館にいた男性職員(50代?)に話を聞くと、この職員は水窪劇場と八幡劇場について覚えており、「水窪劇場の跡地は空き地になり、駐車場として使用されている」「八幡劇場の建物が取り壊された跡地には工場が建っている」と話してくれました。

松屋製菓のおかみ(60代?)に話を聞くと、「神原区にあった八幡劇場は知っている」「本町の水窪劇場のことはよく知らない」「松屋製菓から少し北、附属寺の下にあるみしま会館の場所にも劇場があったと聞いている」と話してくれました。小松屋製菓から水窪劇場は1km以上離れているため、同じ水窪町でも訪れる機会がなかったのかもしれません。

 

2.1 水窪座/水窪劇場(1916年1月-1966年頃)

所在地 : 静岡県磐田郡水窪町1032(1966年)
開館年 : 1916年1月
閉館年 : 1966年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「水窪劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「水窪自主防災倉庫」とその駐車場。

水窪町でもっとも遅くまで、1960年代後半まで営業していた映画館が水窪座/水窪劇場です。本町の通りから水窪川に向かって路地を下っていくと、国道152号にぶつかる前に映画館がありました。

1983年(昭和58年)の住宅地図では水窪劇場跡地に「倉庫」があり、水窪劇場の建物が倉庫として使用されていたと思われます。現在は水窪自主防災倉庫の駐車場になっています。

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(写真)『水窪の民俗』に掲載された昭和初期の水窪市街地図。本町地区。右下に水窪座。

 

2.2 八幡座/八幡劇場(戦前-1962年頃)

所在地 : 静岡県磐田郡水窪町(1960年)、静岡県磐田郡水窪町大里(1963年)
開館年 : 戦前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「八幡劇場」。1963年の映画館名簿では「八幡劇場(休館中)」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天竜警察署水窪分庁舎」西北西190mの「川越電子工業水窪工場」廃墟。

大里区にあったのが八幡座/八幡劇場です。1983年(昭和58年)の住宅地図では八幡劇場跡地に「川越電子工業水窪工場」があり、現在もこの建物が建っていると思われますが、現地で所有者の名称などは確認できませんでした。

大里区の通りから山に向かって路地を上る場所にあり、正面にはふくもと旅館の廃墟がありますが、映画館が営業していた頃から旅館もあったかどうかはわかりません。

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(写真)八幡座跡地にある工場。

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(写真)ふくもと旅館の廃墟。

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(写真)『水窪の民俗』に掲載された昭和初期の水窪市街地図。大里地区。左下に八幡座。

 

2.3 三嶋座/小畑劇場(-昭和20年代初頭)

所在地 : 静岡県磐田郡水窪町
開館年 : 戦前
閉館年 : 昭和20年代初頭
映画館名簿には掲載されていない。跡地は「附属寺」南20mの「みしま会館」。

小畑区の附属寺のすぐ下にあったのが三嶋座/小畑劇場です。1983年(昭和58年)の住宅地図では三嶋座跡地に「生活改善センター」が建っています。現在はみしま会館が建っていますが、生活改善センターの建物が転用されたのだと思われます。

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(写真)三嶋座跡地にあるみしま会館。

 

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 (地図)水窪盆地の色別標高図。国土地理院 地理院地図

 

水窪町の映画館について調べたことは「静岡県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(静岡県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

浜松市立水窪図書館を訪れる

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(写真)浜松市水窪小学校北側から見た水窪市街地。

2019年(令和元年)12月、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)を訪れました。「水窪町の映画館」に続きます。

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1. 水窪町を訪れる

1925年(大正14年)から約80年に渡って磐田郡水窪町という単独自治体だった町。 2005年(平成17年)に浜松市編入され、2007年(平成19年)に浜松市政令指定都市に移行したことで天竜区の一部となりました。自治体として消滅した2005年時点の人口は約3,200人でしたが、2019年(令和元年)10月時点では1,973人にまで減少しています。

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(地図)愛知県名古屋市から見た静岡県浜松市天竜区水窪町の位置。©OpenStreetMap contributors

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(地図)水窪盆地の色別標高図。国土地理院 地理院地図

 

往路は愛知県豊橋市方面からJR飯田線で訪れ、復路は静岡県浜松市中心部方面にバス&遠州鉄道で帰りました。豊橋駅=水窪駅の列車は1日12往復であり、6時ちょうどに豊橋駅を出る始発を逃すと、2時間後まで水窪駅にたどり着く列車はありません。水窪市街地=天竜市街地のバスは1日4往復であり、16時前に水窪バス停を出る便が最終便です。ここは政令指定都市浜松市の一部ですが、公共交通機関で区役所を訪れるには1日4便のバスに頼らざるを得ません。
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(写真)JR飯田線水窪駅

 

JR水窪駅天竜川の支流である水窪川の東岸にあり、名称不明の歩行者用吊り橋を渡って左岸にある水窪市街地に向かいます。水窪川の流れは穏やかであり、また歩行面と川面の標高差も少ないため、まったく怖さは感じません。

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(写真)水窪川に架かる吊り橋。水窪駅前。

 

2. 浜松市水窪図書館

2.1 浜松市水窪文化会館

水窪町の公共施設は国道152号沿いに集まっており、天体観測ドームが目につく浜松市水窪文化会館の1階に水窪図書館が入っています。この日のホールではアマチュアミュージシャンによる「Live Fes in Misakubo」というイベントを開催しており、JA職員によるバンドなどが演奏していました。

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 (左)浜松市水窪文化会館。(右)浜松市水窪文化会館の入口。

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(写真)浜松市水窪文化会館のホール。

 

水窪文化会館の建物に入ってすぐの場所にあるロビーは水窪図書館の一部のようになっていました。書架には多数の漫画本が並べられ、机・椅子・ソファー・こたつが置かれています。

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(写真)浜松市水窪文化会館のロビー。

 

2.2 水窪図書館

24館で構成される浜松市立図書館の中でもっとも北に位置するのが水窪図書館です。浜松市編入合併した地域の図書館を公民館図書室に格下げすることなく、すべて公共図書館として扱っているため、蔵書数/貸出数/利用者数などの差が激しいのが特徴です。

「第二の中央館」と位置付けられている浜松市城北図書館は蔵書数約50万冊・年間貸出数約55万冊であるのに対して、旧龍山村にある浜松市立龍山図書館は蔵書数約9000冊・年間貸出数約400冊でしかありません。水窪図書館の蔵書数は約1万6000冊で24館中23位、年間貸出数は約3000冊でやはり24館中23位です。

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(左)水窪図書館の入口。(右)利用者用検索機と新聞コーナー。中日新聞静岡新聞を購読。

 

水窪図書館の床面積は200m2に満たないと思われます。西面に窓があり、東面と南面には文芸書などの壁面書架となっています。館内中央部の低い書架には行政資料・水窪町の郷土資料・写真アルバムなどが並べられ、高い書架には一般書や児童書などが並べられています。閲覧席の間の床にストーブが置かれているのが山間部の図書館らしく感じます。

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(写真)水窪図書館の館内。

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(左)一般書の書架。(右)書架と閲覧席。ストーブがある。

 

利用者用蔵書検索機の隣には新着図書コーナーがありますが、新着図書と同じくらいの量の寄贈本がありました。その一部は耳塚英一氏による寄贈と表示されています。Google検索すると愛知県内の企業で代表取締役をされている方がヒットしますが、同一人物でしょうか。耳塚という姓は水窪町に多いようで、土産物店や酒屋でもこの姓を見かけました。

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(左)新着図書・寄贈本コーナー。(右)耳塚英一氏の寄贈本。

 

浜松市立図書館公式サイトの図書館紹介に「スナップ」と書かれているのは、水窪町民から図書館に寄託(?)されている約30冊の写真アルバムのことです。戦後の水窪町各地で撮影された写真が分野ごとにアルバム化されており、貴重な郷土資料と言えます。残念ながら水窪町にあった劇場/映画館を撮影した写真はありませんでした。

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(写真)写真アルバムコーナー。

 

3. 水窪町を歩く

3.1 国道152号沿い

静岡県浜松市街地から長野県の上田市街地まで北北東に一直線に伸びているのが国道152号です。国道152号は北遠や南信の山間部で中央構造線に沿っており、さらに北上すると長野飯田市遠山郷大鹿村伊那市の高遠などの盆地があります。

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国道152号沿いには道の駅のような施設として土産物店兼レストランの「国盗り」があります。2018年(平成30年)5月には国盗りの250m南に、神奈川県からの移住者が「ライオンカフェ」を開店させています。国道152号沿いの何か所かには水窪商店街(みさくぼ商店街)への来訪を促す看板がありました。

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(写真)土産物店・レストラン「国盗り」。

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(写真)国盗りの店内。

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(左)ライオンカフェ。(右)水窪商店街の看板。右は浜松いわた信用金庫水窪支店。

 

3.2 小畑区

水窪町の旧市街地は南北に延びる1本の通りに面して形成されており、北から小畑、大里、神沢、本町の各区からなります。浜松市水窪民俗資料館を訪れた後、北から南に向かって歩きました。

水窪市街地にコンビニはなく、食料を調達できそうな唯一の店がスーパーやまみちでした。各家庭にしめ縄を飾る風習がまだ残っているようで、歴史的には玄関前に建てた杉の木にしめ縄を架けていたようです。

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(左)スーパーやまみち。(右)販売されているしめ縄。

 

スーパーやまみちから西に延びる道路を歩いて商店街に向かいます。店舗は多いもののシャッター通りとなっています。日曜日のお昼だったからか、すでに廃業しているのかはよくわかりませんでした。水窪町で唯一と思われる丸山書店もシャッターが下ろされていました。小畑区の北部には、正月明けに「田遊び」という神事が行われる附属寺があります。

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(左)小畑地区北部の街並み。(右)丸山書店。

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(写真)附属寺。(左)本堂。(右)庫裏と蔵。

 

松屋製菓

小畑区の中央部には1926年(昭和元年)創業の「小松屋製菓」があります。大正15年ではなく昭和元年とは珍しい。1997年(平成9年)には洋菓子店で学んだ3代目に世代交代し、2015年(平成27年)に建て替えた店舗は洋菓子店のような雰囲気です。建て替えの際にイートインスペースが設置され、国号152号沿いの「ライオンカフェ」とともに若い世代が集まる場になる可能性を秘めています。

もともと小松屋製菓では栃もちが看板商品でしたが、2018年(平成30年)には栃や粟を練り込んだパンを商品化。2019年(平成31年)には第28回優良食料品小売店等表彰で最高賞の農林水産大臣賞を受賞し、「栃の実を独自の技術で現代に通用する商品に仕立てることに成功」という短評が付されています。小松屋製菓では水窪町にあった映画館に関する話も聞くことができました。栃もちを買って帰りましたが、何個食べても栃がどういう味なのかよくわかりません。

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(写真)小松屋製菓。

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(左)商品。(中)店内に掲示された沿革。(右)栃もち。

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(写真)小畑地区南部の街並み。薄利屋、小松屋製菓、うるしや呉服店など。

 

3.3 大里区

小畑区の南側は大里区。水窪町の公共施設群からもっとも近い区であり、現在の水窪商店街の中でもっとも店舗が多い印象を受けました。大里区の北部には押出沢(おんだしさわ)という小河川が流れていますが、山地から一気に下って水窪川に注いでいます。"押出" という怖い字面の通り、1991年(平成3年)9月の台風18号による集中豪雨では、土石流によって死傷者2人・全半壊8戸・床上/床下浸水計79戸を出したそうで、砂防工事が完成して現在の姿になったのは1998年(平成10年)とのことです。

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(写真)大里地区の街並み。押出沢以北。(左)さかいや食堂など。(右)丸正鈴木呉服店など。

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(左)押出沢。(右)押出沢以南の大里地区の街並み。中村屋食堂など。

 

3.4 神沢区

標高約260mの通りに沿っている小畑区・大里区・水窪区とは異なり、標高約300-320mの高台にあるのが神沢区です。浜松市水窪小学校や八幡宮があり、また水窪茶の茶畑の多くが神沢区にあります。八幡宮は小畑区を除く大里区・神原区・水窪区の産土神であり、社殿は1938年(昭和13年)改築。このブログ冒頭の写真は神沢区から北側の小畑区や大里区を撮った写真です。

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(左)八幡宮の鳥居。(右)八幡宮の社殿。

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(左)神沢区の茶畑。左下の家並みは水窪区。(右)神沢区の茶畑。

 

3.5 水窪区(本町)

4区の中でもっとも南側にあるのが水窪区(本町)です。水窪区/本町という名称の通り、かつてはこの地区が水窪町の中心地だったと思われ、1本の通りに沿って商店が並んでいます。八幡屋製菓の創業は1911年(明治44年)で小松屋製菓よりも古い。水窪郵便局近くにはみさくぼ交流所という無人の施設があり、水窪町を写した写真が展示されていました。

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(左)水窪区北部にある「塩の道」の階段。(右)水窪区の通り。右は八幡屋製菓。

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(写真)水窪区にあるみさくぼ交流所。 

 

3.6 水窪町の旅館

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(左)小畑区にある「中村館」。現役。(右)小畑区にある「のぼりや」。たぶん現役。

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 (左)大里区にある「ふくもと旅館」。廃業。水窪劇場跡地の正面。(右)水窪区にある「和泉屋」旅館。2013年廃業

 

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浜松市立佐久間図書館を訪れる

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笠原町の映画館

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(写真)映画館「笠原劇場」から転用された倉庫。

2019年(令和元年)12月、岐阜県多治見市笠原町を訪れました。かつて土岐郡笠原町には映画館「笠原劇場」があり、笠原神明宮の脇に映画館の建物が現存しています。

 

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1. 笠原町の映画館

1.1 笠原劇場(1934年-1966年)

所在地 : 岐阜県土岐郡笠原町2898(1969年)
開館年 : 1934年
閉館年 : 1966年
1950年の映画館名簿では「金昇館」。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「笠原映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「笠原劇場」。1969年の住宅地図では「笠原劇場」。「笠原神明宮」の参道入口脇に建物が現存。

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(写真)現在の笠原市街地の航空写真。国土地理院地理院地図

 

かつて土岐郡笠原町には映画館「笠原劇場」がありました。モザイクタイル生産で栄えた歴史を考えると、映画館が "1館しかなかった" ことが意外にも思えます。笠原劇場があったのは笠原神明宮の西側。すぐ近くにはかつて笠原町役場があり、映画館は町の中心部にあったようです。笠原神明宮の社殿には陶器が多用されており、タイルの町の神社であることを実感します。

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(写真)笠原神明宮。笠原劇場の西側。

 

笠原劇場の歴史

1926年(大正15年)に笠原町公会堂として竣工した建物が、1934年(昭和9年)に笠原町営の映画館「金昇館」として開館。戦後の1952年(昭和27年)に民営となって「笠原劇場」に改称しましたが、1963年(昭和38年)1月21日に火災で焼失。すぐに再建されたようですが、1966年(昭和41年)に映画館としては閉館したとされています。その後の建物はスーパー「玉野屋」となり、後に玉野屋の倉庫となっています。

上記の情報は『笠原町史 その三 かさはらの写真集』(笠原町、1988年)と『笠原町史 その五 かさはらの歴史』(笠原町、1993年)によります。1969年の住宅地図や映画館名簿にはまだ笠原劇場が掲載されていますが、その理由は判然としません。

 

1963年頃に再建された建物は現存しており、トタン部分にはうっすらと "タマノヤフード" の文字も見えます。近くの定食屋「久野屋」の店主が外に出てきたので話を聞いてみると、「映画館の建物は焼けちゃった。(この建物は映画館の建物ではないよ)」とのことでした。文献によるとこの建物も3年間ばかり映画館として使用されていたはずですが、久野屋の店主には映画館の建物といえば火災で焼失した建物の印象が強いのだと思われます。

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(写真)「笠原劇場」から転用された倉庫。映画館閉館後はスーパー「玉野屋」だった。

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(左)建物の入口部分。(右)建物の側面。

 

笠原劇場の文献

笠原分館で文献調査したところ、『広報かさはら』1963年2月1日号に「近火見舞御礼」という短報で笠原劇場の火災について触れられていました。また、『広報かさはら』1963年3月20日号には「町公民館で火災防ぎょ 検討会開かる」という記事が掲載され、消防団の活躍について約1ページを割いています。

『広報かさはら』1963年9月1日号や10月1日号によると、9月25日には笠原町敬老会が笠原劇場で開催されているため、1963年3月から9月までの間に現在の建物が再建されたようです。

『笠原のまち』(土岐郡笠原小学校、1966年)には笠原町の年表が掲載されており、「1929年(昭和4年)4月には小屋がけだった金昇館が常設館になった」と書かれています。『笠原町史』の記述とはやや異なっています。

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(写真)「近火見舞御礼」『広報かさはら』笠原町、1963年2月1日号。

(写真)笠原劇場が焼失した際の短報。『キネマ旬報』1963年3月1日、334号。

 (写真)笠原劇場が掲載された『映画便覧 1966』(時事通信社、1966年)。

 

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(地図)1964年の住宅地図における笠原劇場(地図中では笠原映画)。『陶都明細図帳 1964』住宅地図協会、1964年。名古屋市鶴舞中央図書館所蔵。