振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

洋々医館跡を訪れる

(写真)石碑「洋々医館跡」。

2024年(令和6年)5月、愛知県碧南市鷲林町の史跡「洋々医館跡」を訪れました。

洋々医館は明治初期に近藤坦平によって設立された西洋式診療所であり、東海地方初の西洋式医学校である蜜蜂義塾も併設されていました。近藤坦平は三河地方における西洋医学の開祖とされています。なお、2019年(令和元年)には「近藤坦平 - Wikipedia」を作成し、この2024年(令和6年)5月には「近藤乾郎 - Wikipedia」を作成しています。

 

1. 近藤家と洋々医館

1.1 洋々医館の歴史

碧海郡鷲塚村(現・碧南市)に生まれた近藤坦平は、1872年(明治5年)に診療所の洋々堂(後の洋々医館)と医学校の蜜蜂義塾を設立しました。

当時の医者は主として漢方医であり、西洋医学を学んだ医師は農村部では稀だったようです。また、蜜蜂義塾は東海地方初の西洋式医学校であり、愛知医学校(現・名古屋大学医学部)が設立されたのは1877年(明治10年)のことです。

 

1891年(明治24年)、近藤坦平は東京帝国大学医科大学の鶴見次繁(近藤次繁)を婿養子に迎え、次繁をドイツとオーストリアに留学させますが、結局次繁は洋々医館の院長になることなく東京帝国大学医学部教授となっています。

三男の近藤乾郎は大阪高等医学校卒業後にドイツとオーストリアに留学し、帰国直後の1912年(明治45年)には坦平の跡を継いで洋々医館の院長に就任していますが、1914年(大正3年)には東京市四谷区北伊賀町に近藤病院を開業し、洋々医館の院長を務めたのはわずか2年のことでした。

その後は近藤家以外の医師が洋々医館の院長となっています。1965年(昭和40年)には近藤乾郎が死去したことで病院としての洋々医館が廃止され、1980年(昭和55年)には診療所としても閉鎖されました。建物は取り壊されて戸建て住宅地などとなり、1981年(昭和56年)には石碑「洋々医館跡」が建立されました。

2017年(平成29年)には碧南市藤井達吉現代美術館で『碧南の医人展』が開催され、その中心には近藤家の医師や洋々医館が据えられています。碧南市教育委員会によって図録『碧南の医人展』が刊行されています。

(写真)近藤坦平、近藤次繁、近藤乾郎。いずれも『三河知名人士録』尾三郷土史料調査会、1939年。

(写真)洋々倶楽堂の絵葉書。洋々医館の旧称である洋々堂のことと思われる。

1.2 洋々医館の跡地

洋々医館は川端蓮成寺周辺の3つの敷地からなる病院であり、診察室、手術室、レントゲン室、多数の病室、隔離病棟など、多数の建物があったようです。1943年(昭和18年)には南西の敷地にあった御文庫が鷲塚国民学校に移築されて学校図書館となっています。

(写真)昭和20年代の洋々医館。『碧南の医人展』碧南市教育委員会文化財課、2017年。

 

1962年(昭和37年)の『全商工住宅案内図帳 碧南市』には「洋々医館」「洋々病室」「病室」などの文字が見えます。近藤家の本宅(≒洋々医館の拠点)があったのは川端蓮成寺の西側にある敷地です。

(地図)『全商工住宅案内図帳 碧南市』住宅協会、1962年。愛知県図書館所蔵。

 

洋々医館は1980年(昭和55年)10月に閉鎖されました。地理院地図における1979年~1983年の航空写真では、すでに跡地に10軒分の戸建て住宅が建っているのが見えます。中央の敷地の一部が鷲林町ちびっ子広場となり、1981年(昭和56年)12月には公園の入口脇に石碑「洋々医館跡」が建立されました。

洋々医館の建物や塀などの痕跡はないように思われますが、中央の敷地の北東角にある和風建築の民家は洋々医館があった頃には旅館として使われていたとのことです。

(写真)洋々医館跡地周辺の航空写真。地理院地図

 

1.3 近藤家墓所

近藤家の菩提寺は鷲林町の遍照院であり、近藤家の墓所には10基以上の墓石が並んでいます。最も大きな墓石は近藤坦平が建立した父・近藤安中の墓「西涯近藤安中翁之墓」であり、同等の大きさの「鹿山近藤伯琴翁之墓」もあります。

(写真)近藤安中の墓。

(写真)近藤家の墓石群。中央奥右が近藤安中の墓。

(写真)近藤家の菩提寺である遍照院。

 

1.4 對馬家洋々医館薬医門・露竹

洋々医館の本宅の一部と門は安城市百石町1丁目の對馬家(つしまけ)に移築され、「對馬家洋々医館薬医門」「對馬家洋々医館露竹(茶室)」となっています。幕末に建てられたという薬医門は敷地南東門にあり、公道からも見ることができます。

(写真)對馬家洋々医館薬医門。2023年6月。

 

2. 『三河知名人士録』

近藤家の医師や洋々医館について最も詳しく書かれているのは『碧南の医人展』(碧南市教育委員会、2017年)ですが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる『三河知名人士録』(尾三郷土史料調査会、1939年)にも近藤坦平、近藤次繁、近藤乾郎の3人の経歴が掲載されています。

川口干拓を訪れる

(写真)川口干拓の災害復興建築。

2024年(令和6年)5月、愛知県碧南市川口町の川口干拓(碧南干拓)を訪れました。

戦後の1946年(昭和21年)から食糧増産のための干拓事業が行われ、1956年(昭和31年)に入植が開始された地区です。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後に建設されたコンクリートブロック造の災害復興建築(災害復興住宅)が10棟以上現存しています。

 

1. 碧南干拓建設事業

碧南市の南部、矢作川と蜆川に挟まれた三角地帯には大きな干拓地に農地が広がっています。文政11年(1828年)に斎藤倭助によって開発された前浜新田、1956年(昭和31年)に農林省によって開発された川口干拓の2地域からなります。

碧南市は東海地方最大の玉ねぎ産地だそうで、3月から5月にはあちこちの畑で玉ねぎの収穫と出荷作業が行われていました。

(左)川口町の玉ねぎ畑。(右)河方町の玉ねぎ畑。

(地図)碧南市における川口干拓(碧南干拓)の位置。『碧南干拓災害復旧事業記録』農林省名古屋農地事務局、1963年。

(地図)碧南干拓建設事業平面図。『碧南市史 第3巻』碧南市、1974年。

 

1.1 人造石の堤防

川口干拓は四方を堤防に囲まれています。西側・南側・東側の三方は1956年(昭和31年、※1959年の伊勢湾台風後に再建)に築かれた堤防ですが、北側は前浜新田の堤防として築かれた堤防であり、1901年(明治34年)以後の数年間には人造石によって補強工事がなされたとのことです。

人造石は土木技術者の服部長七によって発明された工法であり、コンクリートが普及する前に樋門・堤防・護岸などに用いられました。服部長七の没後100年にあたる2019年(令和元年)には碧南市藤井達吉現代美術館で企画展「没後100年 服部長七と近代産業遺産」が開催され、中部産業遺産研究会によってシンポジウムが開催されています。

(地図)干拓前の1888年~1898年、干拓後の1959年~1960年。今昔マップ

(写真)人造石が用いられた堤防。Googleストリートビュー

 

1.2 石碑「碧南開拓記念碑」

川口神社の南側にある川口ちびっ子広場には、川口干拓の入植40年を記念して1996年に建立された石碑「碧南開拓記念碑」があります。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

 

戦後すぐの時期に、碧海郡大浜町・棚尾町・旭村の各町村によって干拓地造成の運動が行われると、1946年(昭和21年)10月に農林省によって碧南干拓地造成工事が開始され、10年後の1956年(昭和31年)10月に竣工しました。

1955年(昭和30年)4月と1956年(昭和31年)10月に100戸が入植しましたが、うち愛知県から移住したのは50戸に過ぎず、他地域からは長野県26戸、山梨県14戸、岐阜県10戸が移住しています。総面積172ヘクタールのうち、畑が105ヘクタール、田が30ヘクタール、宅地が7ヘクタールとのことで、当初から畑を主体とした干拓地だったようです。

1964年(昭和39年)10月には碧南市川口町(かわぐちちょう)という町名が決定。なお、碧南市に152ある町名のうち151は「○○まち」と読みますが、戦後に造成された川口町のみは「○○ちょう」と読むようです。

1973年(昭和48年)3月には碧南開拓農業協同組合が解散して碧南市農業協同組合に加入。1993年(平成5年)4月には行政区が旭地区から大浜地区に移管されています。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

 

1.3 川口神社

川口集落の北東端にある川口神社は、1970年(昭和45年)9月16日に建立された神社です。

(写真)川口神社。

 

祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、迦具土神(かぐつちのかみ)。例祭は毎年4月第3日曜。2002年(平成14年)12月には京都・河原町五条の市比賣神社から合祀していますが、どういう理由からでしょうか。

(写真)看板「川口神社」。

(写真)看板「川口神社由緒」。

 

2. 災害復興建築

2.1 災害復興建築の建設

1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では護岸堤防の71%が決壊し、入植した全100戸が流出するという甚大な被害を受けました。

川口干拓と同様に戦後に造成された名古屋・鍋田干拓では、318人の住民のうち133人が死去するというすさまじい犠牲が出ていますが、川口干拓では死者はいませんでした。

(写真)伊勢湾台風における川口干拓の被害。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 碧南』国書刊行会、1980年。

 

伊勢湾台風後の1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて、川口干拓ではコンクリートブロック造で33棟の災害復興建築が建設されています。

川口干拓は入植者が100戸で災害復興建築は33棟。名古屋・鍋田干拓は入植者が144戸で災害復興建築は136棟。入植戸数と棟数の比率が大きく異なりますが、これが被害の大きさ(死者0人と死者133人)によるものなのか、役割の違い(避難小屋(?)と本宅)によるものなのかはわかりません。

参考:堀田典裕『伊勢湾台風復興住宅』の建築デザインに関する史的研究

(写真)伊勢湾台風後に建設された入植者住宅(災害復興建築)。『碧南干拓災害復旧事業記録』農林省名古屋農地事務局、1963年。

 

2.2 現存する災害復興建築

(写真)災害復興建築9。

(写真)災害復興建築1。

(左)災害復興建築2。(右)災害復興建築3。

(左)災害復興建築4。(右)災害復興建築5。

(左)災害復興建築13。(右)災害復興建築12。

 

太平洋戦争後には川口干拓のほかに、名古屋市の鍋田干拓西尾市の平坂干拓三重県桑名市の城南干拓も国費で開発されました。いずれも伊勢湾台風では大きな被害を受け、台風後にはコンクリートブロック造の災害復興建築が建てられています。

城南干拓のみは建物の形状がやや異なりますが、川口干拓、鍋田干拓、平坂干拓では同じ凸型のデザインの3階建てが建てられています。

(写真)名古屋・鍋田干拓の災害復興建築。『よみがえる鍋田干拓』鍋田開拓農業協同組合、 1969年。

 

2011年(平成23年)度時点で、川口干拓に建設された災害復興建築33棟のうち19棟が現存していたようです。それより数を減らしているものの、2024年(令和6年)現在でも少なくとも13棟が現存しています。

(写真)川口干拓に現存する災害復興建築。地理院地図

 

敷地内における災害復興建築の位置や向きは民家によってばらばらであり、道路に接しているものもあれば、物置1棟分奥に建てられているものもあります。

川口干拓とは異なり、鍋田干拓では全ての災害復興建築が同一の位置に同じ向きに建てられており、航空写真を見るとその違いが顕著です。

(写真)川口干拓の民家の敷地における災害復興建築の位置。Googleマップ

(写真)鍋田干拓における災害復興建築。『よみがえる鍋田干拓』鍋田開拓農業協同組合、 1969年。

生野町の映画館

(写真)生野協和会館。生野鉱山館の展示。

2024年(令和6年)4月、兵庫県朝来市生野町を訪れました。

かつて生野町には三菱金属鉱業が経営する映画館「協和会館」がありました。「朝来市生野町を訪れる」「旧生野鉱山職員宿舎を訪れる」からの続きです。

 

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1. 生野町の劇場

1.1 真明座(1898年-1954年)

1895年(明治28年)には播但鉄道(現・JR播但線生野駅が開業しますが、1898年(明治31年)には生野町に芝居小屋の真明座(眞明座)が建てられました。なお、当時の生野駅は現在より400m北にあり、生野書院の南を東西に延びる通りが旧駅通りと呼ばれているようです。

(写真)真明座が描かれた『御大典紀念生野営業地図』昭和初期。

 

昭和初期の『御大典紀念生野営業地図』を見ると、芝居小屋でありながら真明座の扱いは小さい。日下旅館(→旧日下旅館)、石川醤油店、松一醤油店(→松本家住宅)、佐藤医院(→佐藤家住宅別邸)などの建物が現存しますが、旧海崎医院は描かれていません。移転後の生野警察署は描かれていますが、旧生野警察署にあたる建物も描かれていません。

(写真)真明座が描かれた『御大典紀念生野営業地図』昭和初期。

 

近年に配布されていた『生野駅前周辺時空旅散策絵図』によると、真明座は徳円寺の北側にありました。真明座と徳円寺の間には幅数十センチ程度の小川が流れていますが、両国川というこの小川にはかつて両国橋が架かっており、江戸時代には播磨国但馬国の国境だったとのこと。北側の生野銀山町に一般の旅人が泊まることは禁じられており、南側の森垣村に旅館街が形成されていたようです。

(写真)真明座跡が描かれた『生野駅前周辺時空旅散策絵図』。配布終了。

(写真)真明座の跡地。

(写真)真明座の跡地の南隣にある徳円寺。

 

2. 生野町の映画館

2.1 生野協和会館(1929年-1972年頃)

所在地 : 兵庫県朝来郡生野町口銀谷98501(1972年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1917年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「協和会館」。1958年・1960年の映画館名簿では「生野協和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「生野協和会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。2007年2月20日解体。跡地は「本行寺」東南東310mの更地。

朝来郡生野町には三菱金属鉱業の福利厚生施設である生野協和会館があり、生野町民にも開放された映画館として運営されていました。2024年(令和6年)3月に刊行された『The KeMCo Review 02』に研究ノート「映画館情報の蓄積と可視化:戦後の日本における消えた映画館」を投稿しましたが、生野協和会館のように全国の鉱山にあった映画館の一覧を掲載しています。

生野鉱山周辺の鉱山においては、養父郡大屋町明延(現・養父市)の明延鉱山(1987年閉山)に明延協和会館が、朝来郡朝来町佐嚢(現・朝来市)の神子畑選鉱場(1987年操業停止)に神小畑協和会館があり、やはり三菱金属鉱業が福利厚生施設として運営していました。明延協和会館の建物は現存しています。神小畑協和会館の建物は取り壊されていますが、神小畑交流館に当時の映写機が展示されています。

(写真)生野協和会館が掲載されている『映画便覧 1960』。

(写真)生野協和会館が掲載されている最晩年の『映画館名簿 1972』。

 

1929年(昭和4年)、共栄会館という名称で生野鉱山の福利厚生施設が竣工し、大阪歌舞伎の一座がこけら落とし公演を行いました。木造で2階席のある劇場であり、演劇や映画などの興行のほかには、ダンスパーティや各種集会なども行われています。

(写真)1929年の建設中の共栄会館(協和会館)。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

(写真)1929年11月27日に大阪歌舞伎でこけら落としする際の共栄会館の広告。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

 

1932年(昭和7年)には共栄会館から協和会館に改称します。三菱鉱業を中心とする各地の鉱山の福利厚生施設に協和会館という名称が与えられており、日本の映画館数がピークを迎えた1960年(昭和35年)には全国に10館以上の協和会館がありました。

(写真)1933年の共栄館で開催された天勝一座の綱渡り。『目で見る 但馬の100年』郷土出版社、1994年。

 

1963年(昭和38年)には木造から鉄筋コンクリート造の建物に建て替えられました。生野協和会館が『映画館名簿』に登場するのは1972年(昭和47年)までであり、1973年(昭和48年)には生野鉱山自体が閉山しています。

(写真)協和会館と銀山橋。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

(写真)時期不明の協和会館。生野鉱物館の展示。

(写真)生野鉱山の福利厚生施設に関する生野鉱物館の展示。

(写真)1976年の航空写真における生野協和会館跡地。地図・空中写真閲覧サービス

 

生野協和会館の建物は閉館後も長らく残っていましたが、三菱マテリアルの工場拡張のために2007年(平成19年)に取り壊されました。2024年(令和6年)現在の跡地は更地となっており、跡地に向かうための銀山橋も立入禁止となっています。

(写真)銀山橋と生野協和会館跡地。

(写真)生野協和会館跡地に渡る銀山橋。

 

生野町の映画館について調べたことは「兵庫県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(兵庫県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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東海遊里史研究会のトークイベント「"見る"から"知る"東海地方の遊廓」に参加する

(写真)会場のソイロビル。

2024年(令和6年)4月27日、愛知県名古屋市中村区で東海遊里史研究会のトークイベント「"見る"から"知る"東海地方の遊廓」に参加しました。

 

note.com

1. イベント概要

1.1 会場

会場は名古屋市中村区の新大門商店街にあるソイロビル。1階はDIY工房、2階はチャレンジショップ、3階はイベントスペースという面白い建物です。もとは1階は衣料品店であり、2階と3階が住居だったそう。

北西側には妓楼建築が複数あり、会場からは重厚で巨大な瓦屋根が見えます。ソイロビルがある場所もかつての中村遊廓の一角であり、1957年(昭和32年)に施工された売春防止法後に妓楼建築を取り壊して分割された区画です。

(写真)松原八幡社のねこ。

 

1.2 東海遊里史研究会

東海遊里史研究会は遊廓愛好家の3人(ことぶきさん、春は馬車に乗って〈春馬車〉さん、自然誌古典文庫D室さん)による組織であり、それぞれ大学などに属していない在野の研究者です。

2021年(令和3年)10月の第1回研究発表会では、名古屋にあった4の遊里、中村遊廓(名楽園)、城東園、八幡園、港陽園の各地域が紹介されました。第2回と第3回の東海遊里史研究会は名古屋・今池のライブハウス Tokuzoが会場となり、2022年(令和4年)2月の第2回では豊橋市一宮市瀬戸市岡崎市大須の各地域の遊里史が紹介され、2023年(令和5年)4月の第3回では名古屋の遊里史が「絵葉書」や「私娼窟」といった題材で掘り下げられています。

これらの研究発表会に加えて、雑誌『東海遊里史研究』の執筆、風媒社の郷土史本などへの寄稿、大ナゴヤツアーズややっとかめ文化祭などでのまちあるきガイドなど、精力的に幅広く活動されています。

(左)自然誌古典文庫における第1回研究発表会。(右)雑誌『東海遊里史研究 3』。

(写真)Tokuzoにおける第3回東海遊里史研究会。

 

2. イベント内容

前半は雑談も交えながら遊廓の営業形態について解説され、後半の「空から見る東海地方の遊廓」では航空写真を元にして東海地方各地の遊廓が紹介されました。手始めに名古屋の中村遊廓や稲永遊廓や城東園、次いで岐阜県多治見市の西ヶ原遊廓、三重県四日市市の住吉遊楽園、愛知県豊川市の円福荘と碧南市の衣浦荘。

地方都市は名古屋よりも文献情報が少ないし、書籍レベルでの言及はほとんどないと思われますが、身近だからか会場の反応はよかった。名古屋以外の地方都市の遊廓を紹介するという点では第2回研究会と似ていましたが、航空写真や現地の写真を多用してわかりやすく紹介することを心がけていたようです。

いずれにしても、遊廓というナイーブな分野について穿った見方や憶測に頼らずに、一次資料による調査をひたすら積み重ねて提示する、というスタイルは第1回研究会から一貫しています。

(写真)衣浦荘にあった旅館 吉文。売春防止法施行前の赤線の建物だったとされることが多いが、温泉街転換後の建築の可能性が示唆された。2021年解体。

 

SNS等では誤った地点が遊廓跡地として紹介されることもあるとのことで、「玉突」という映える看板が残る西ヶ原遊廓が例に挙げられました。「玉突」の建物周辺は遊廓の隣接地にある歓楽街に過ぎないとのことです。

現地を訪れる際に「こそこそと写真を撮らずに堂々と挨拶する」「きちんとした服を着て歩く」というのも印象的でした。地方都市における調査方法は私の映画館調査にも通じるので学びたい。

行政などが関与して保存や活用の取り組みがなされている近代建築とは異なり、かつて遊廓だった建物は10年~20年後に消滅している可能性も高い。映える建物がなくなった時に遊廓に興味を持つ方がどれだけいるか、という視点は研究会で繰り返し語られています。

(写真)西ヶ原遊廓跡地とされることが多い通り。実際の遊廓跡地は北西の広小路通り。photo:Sengoku40