振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

生野町の映画館

(写真)生野協和会館。生野鉱山館の展示。

2024年(令和6年)4月、兵庫県朝来市生野町を訪れました。

かつて生野町には三菱金属鉱業が経営する映画館「協和会館」がありました。「朝来市生野町を訪れる」「旧生野鉱山職員宿舎を訪れる」からの続きです。

 

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1. 生野町の劇場

1.1 真明座(1898年-1954年)

1895年(明治28年)には播但鉄道(現・JR播但線生野駅が開業しますが、1898年(明治31年)には生野町に芝居小屋の真明座(眞明座)が建てられました。なお、当時の生野駅は現在より400m北にあり、生野書院の南を東西に延びる通りが旧駅通りと呼ばれているようです。

(写真)真明座が描かれた『御大典紀念生野営業地図』昭和初期。

 

昭和初期の『御大典紀念生野営業地図』を見ると、芝居小屋でありながら真明座の扱いは小さい。日下旅館(→旧日下旅館)、石川醤油店、松一醤油店(→松本家住宅)、佐藤医院(→佐藤家住宅別邸)などの建物が現存しますが、旧海崎医院は描かれていません。移転後の生野警察署は描かれていますが、旧生野警察署にあたる建物も描かれていません。

(写真)真明座が描かれた『御大典紀念生野営業地図』昭和初期。

 

近年に配布されていた『生野駅前周辺時空旅散策絵図』によると、真明座は徳円寺の北側にありました。真明座と徳円寺の間には幅数十センチ程度の小川が流れていますが、両国川というこの小川にはかつて両国橋が架かっており、江戸時代には播磨国但馬国の国境だったとのこと。北側の生野銀山町に一般の旅人が泊まることは禁じられており、南側の森垣村に旅館街が形成されていたようです。

(写真)真明座跡が描かれた『生野駅前周辺時空旅散策絵図』。配布終了。

(写真)真明座の跡地。

(写真)真明座の跡地の南隣にある徳円寺。

 

2. 生野町の映画館

2.1 生野協和会館(1929年-1972年頃)

所在地 : 兵庫県朝来郡生野町口銀谷98501(1972年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1917年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「協和会館」。1958年・1960年の映画館名簿では「生野協和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「生野協和会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。2007年2月20日解体。跡地は「本行寺」東南東310mの更地。

朝来郡生野町には三菱金属鉱業の福利厚生施設である生野協和会館があり、生野町民にも開放された映画館として運営されていました。2024年(令和6年)3月に刊行された『The KeMCo Review 02』に研究ノート「映画館情報の蓄積と可視化:戦後の日本における消えた映画館」を投稿しましたが、生野協和会館のように全国の鉱山にあった映画館の一覧を掲載しています。

生野鉱山周辺の鉱山においては、養父郡大屋町明延(現・養父市)の明延鉱山(1987年閉山)に明延協和会館が、朝来郡朝来町佐嚢(現・朝来市)の神子畑選鉱場(1987年操業停止)に神小畑協和会館があり、やはり三菱金属鉱業が福利厚生施設として運営していました。明延協和会館の建物は現存しています。神小畑協和会館の建物は取り壊されていますが、神小畑交流館に当時の映写機が展示されています。

(写真)生野協和会館が掲載されている『映画便覧 1960』。

(写真)生野協和会館が掲載されている最晩年の『映画館名簿 1972』。

 

1929年(昭和4年)、共栄会館という名称で生野鉱山の福利厚生施設が竣工し、大阪歌舞伎の一座がこけら落とし公演を行いました。木造で2階席のある劇場であり、演劇や映画などの興行のほかには、ダンスパーティや各種集会なども行われています。

(写真)1929年の建設中の共栄会館(協和会館)。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

(写真)1929年11月27日に大阪歌舞伎でこけら落としする際の共栄会館の広告。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

 

1932年(昭和7年)には共栄会館から協和会館に改称します。三菱鉱業を中心とする各地の鉱山の福利厚生施設に協和会館という名称が与えられており、日本の映画館数がピークを迎えた1960年(昭和35年)には全国に10館以上の協和会館がありました。

(写真)1933年の共栄館で開催された天勝一座の綱渡り。『目で見る 但馬の100年』郷土出版社、1994年。

 

1963年(昭和38年)には木造から鉄筋コンクリート造の建物に建て替えられました。生野協和会館が『映画館名簿』に登場するのは1972年(昭和47年)までであり、1973年(昭和48年)には生野鉱山自体が閉山しています。

(写真)協和会館と銀山橋。『生野銀山 日本とフランスの友好のために』生野町中央公民館、1992年。

(写真)時期不明の協和会館。生野鉱物館の展示。

(写真)生野鉱山の福利厚生施設に関する生野鉱物館の展示。

(写真)1976年の航空写真における生野協和会館跡地。地図・空中写真閲覧サービス

 

生野協和会館の建物は閉館後も長らく残っていましたが、三菱マテリアルの工場拡張のために2007年(平成19年)に取り壊されました。2024年(令和6年)現在の跡地は更地となっており、跡地に向かうための銀山橋も立入禁止となっています。

(写真)銀山橋と生野協和会館跡地。

(写真)生野協和会館跡地に渡る銀山橋。

 

生野町の映画館について調べたことは「兵庫県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(兵庫県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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東海遊里史研究会のトークイベント「"見る"から"知る"東海地方の遊廓」に参加する

(写真)会場のソイロビル。

2024年(令和6年)4月27日、愛知県名古屋市中村区で東海遊里史研究会のトークイベント「"見る"から"知る"東海地方の遊廓」に参加しました。

 

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1. イベント概要

1.1 会場

会場は名古屋市中村区の新大門商店街にあるソイロビル。1階はDIY工房、2階はチャレンジショップ、3階はイベントスペースという面白い建物です。もとは1階は衣料品店であり、2階と3階が住居だったそう。

北西側には妓楼建築が複数あり、会場からは重厚で巨大な瓦屋根が見えます。ソイロビルがある場所もかつての中村遊廓の一角であり、1957年(昭和32年)に施工された売春防止法後に妓楼建築を取り壊して分割された区画です。

(写真)松原八幡社のねこ。

 

1.2 東海遊里史研究会

東海遊里史研究会は遊廓愛好家の3人(ことぶきさん、春は馬車に乗って〈春馬車〉さん、自然誌古典文庫D室さん)による組織であり、それぞれ大学などに属していない在野の研究者です。

2021年(令和3年)10月の第1回研究発表会では、名古屋にあった4の遊里、中村遊廓(名楽園)、城東園、八幡園、港陽園の各地域が紹介されました。第2回と第3回の東海遊里史研究会は名古屋・今池のライブハウス Tokuzoが会場となり、2022年(令和4年)2月の第2回では豊橋市一宮市瀬戸市岡崎市大須の各地域の遊里史が紹介され、2023年(令和5年)4月の第3回では名古屋の遊里史が「絵葉書」や「私娼窟」といった題材で掘り下げられています。

これらの研究発表会に加えて、雑誌『東海遊里史研究』の執筆、風媒社の郷土史本などへの寄稿、大ナゴヤツアーズややっとかめ文化祭などでのまちあるきガイドなど、精力的に幅広く活動されています。

(左)自然誌古典文庫における第1回研究発表会。(右)雑誌『東海遊里史研究 3』。

(写真)Tokuzoにおける第3回東海遊里史研究会。

 

2. イベント内容

前半は雑談も交えながら遊廓の営業形態について解説され、後半の「空から見る東海地方の遊廓」では航空写真を元にして東海地方各地の遊廓が紹介されました。手始めに名古屋の中村遊廓や稲永遊廓や城東園、次いで岐阜県多治見市の西ヶ原遊廓、三重県四日市市の住吉遊楽園、愛知県豊川市の円福荘と碧南市の衣浦荘。

地方都市は名古屋よりも文献情報が少ないし、書籍レベルでの言及はほとんどないと思われますが、身近だからか会場の反応はよかった。名古屋以外の地方都市の遊廓を紹介するという点では第2回研究会と似ていましたが、航空写真や現地の写真を多用してわかりやすく紹介することを心がけていたようです。

いずれにしても、遊廓というナイーブな分野について穿った見方や憶測に頼らずに、一次資料による調査をひたすら積み重ねて提示する、というスタイルは第1回研究会から一貫しています。

(写真)衣浦荘にあった旅館 吉文。売春防止法施行前の赤線の建物だったとされることが多いが、温泉街転換後の建築の可能性が示唆された。2021年解体。

 

SNS等では誤った地点が遊廓跡地として紹介されることもあるとのことで、「玉突」という映える看板が残る西ヶ原遊廓が例に挙げられました。「玉突」の建物周辺は遊廓の隣接地にある歓楽街に過ぎないとのことです。

現地を訪れる際に「こそこそと写真を撮らずに堂々と挨拶する」「きちんとした服を着て歩く」というのも印象的でした。地方都市における調査方法は私の映画館調査にも通じるので学びたい。

行政などが関与して保存や活用の取り組みがなされている近代建築とは異なり、かつて遊廓だった建物は10年~20年後に消滅している可能性も高い。映える建物がなくなった時に遊廓に興味を持つ方がどれだけいるか、という視点は研究会で繰り返し語られています。

(写真)西ヶ原遊廓跡地とされることが多い通り。実際の遊廓跡地は北西の広小路通り。photo:Sengoku40

覚王山日泰寺墓地を訪れる(2)

(写真)納屋橋の親柱を用いた栗田家累代之墓入口。

2024年(令和6年)4月、愛知県名古屋市千種区にある覚王山日泰寺墓地を訪れました。「覚王山日泰寺墓地を訪れる(1)」からの続きです。

 

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1. 覚王山日泰寺墓地(西墓地)

(写真)覚王山日泰寺西墓地。

 

1.1 栗田末松(栗田組棟梁)

1913年(大正2年)には堀川に架かる納屋橋木橋から鋼製アーチ橋に架け替えられました。施工を担当したのが栗田組であり、その棟梁が栗田末松です。栗田組は大正時代に伝馬橋、枇杷島橋、景雲橋、矢作橋などの架設を担当しており、近代のゼネコンと言える請負業者だったようです。

(写真)栗田家累代之墓入口。

 

栗田家の墓所入口には、栗田組が施工した際に除去された納屋橋と伝馬橋の親柱が用いられています。納屋橋の架け替えは1913年(大正2年)、伝馬橋の架け替えは1920年大正9年)であり、明治から大正にかけて存在した木橋だった時代の親柱です。それぞれの親柱には「納屋𣘺」「てんまはし」と刻まれているものの、単純な四角柱で周囲の玉垣に溶け込んでいます。

(写真)納屋橋の親柱を用いた栗田家累代之墓入口。

(写真)伝馬橋の親柱を用いた栗田家累代之墓入口。左奥は東山給水塔。

 

1.2 平野亥子吉(平野製作所社長)

西墓地の東端付近には胸像の銅像がある墓があります。平野亥子吉はトヨタグループ創始者である豊田佐吉の下で働き(※豊田紡織か)、1919年(大正8年)に独立して織機製造の平野製作所を創業、1931年(昭和6年)に合名会社平野製作所を設立、1940年(昭和15年)には株式会社平野製作所に改組しています。

平野製作所は名古屋市中川区玉船町1-1に本社・工場を置き、戦後の1951年(昭和26年)には多角化を模索してスクーターのヒラノポップを製造しています。

(写真)平野亥子吉の銅像と平野亥子吉家之墓。

(写真)平野亥子吉。『事業と人』経済評論社、1934年。

(写真)平野製作所のヒラノポップ。『自動車ガイド 国産二輪車編』ナツメ社、1961年。

 

1.3 市邨芳樹(市邨学園創立者

名古屋市瑞穂区に本部を置く学校法人市邨学園は、名古屋経済大学名古屋経済大学市邨高校(名経大市邨)、名古屋経済大学高蔵高校(名経大高蔵)などを有しています。市邨学園の創立者市邨芳樹 - Wikipediaであり、1907年(明治40年)に設立した名古屋女子商業学校は日本初の本格的な女子商業教育機関とされることがあります。

(写真)市邨芳樹先生墓。

 

市邨は愛知県名古屋商業学校の校長も務めており、「CA」と略される名古屋商業学校は数々の経済人を輩出しています。市邨芳樹先生墓の隣接地には、名古屋商業学校出身で三井物産筆頭常務を務めた太田静男などの太田家の墓があります。

(写真)太田家之墓と市邨芳樹先生墓。

 

1.4 滝兵右衛門(タキヒヨー創業家

名古屋ルーセントタワーに本社を構える繊維商社のタキヒヨーは、宝暦元年(1751年)に初代瀧兵右衛門が創業した企業です。4代目瀧兵右衛門 - Wikipediaによって滝兵焦点となり、5代目当主の滝信四郎 - Wikipediaによって株式会社化されています。西墓地内には広い敷地の瀧家祖先累世之墓があり、1950年(昭和25年)11月に6代目瀧兵右衛門によって再建されたと刻まれています。

(写真)瀧家祖先累世之墓。

 

2. 大龍寺墓地

2.1 山田才吉(実業家)

近代の名古屋近辺において複数の娯楽施設を経営していた実業家として山田才吉 - Wikipediaがいます。矢場町にあった料理旅館の東陽館、東築地町にあった名古屋教育水族館や料理旅館の南陽館、岐阜県可児市にあった料理旅館の北陽館は現存しませんが、東海市には1927年(昭和2年)開眼の聚楽園大仏が現存しています。

(写真)山田家之碑。

(写真)東海市にある聚楽園大仏。

(写真)聚楽園公園にある山田才吉翁寿像と山田才吉翁頌徳碑。

覚王山日泰寺墓地を訪れる(1)

(写真)覚王山日泰寺

2024年(令和6年)4月、愛知県名古屋市千種区にある覚王山日泰寺墓地を訪れました。名古屋近辺の多くの著名人の墓があります。「覚王山日泰寺墓地を訪れる(2)」に続きます。

 

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1. 覚王山日泰寺墓地(東墓地)

覚王山日泰寺墓地は西墓地と東墓地に分かれており、それぞれ4万~5万平方メートルある広大な墓地です。近くにはナゴヤドームを見下ろせる場所もありますが、ナゴヤドーム1個分は48,169m2(建築面積)であり、愛知県内各地のイオンモールの店舗面積も同程度です。

(写真)覚王山日泰寺東墓地。

 

1.1 佐藤定蔵(愛知金明講取締)

覚王山日泰寺墓地はあくまでも墓地なので墓石がメインですが、全身像がある珍しい人物として佐藤定蔵がいます。愛知金明講の取締(代表)を務めていた人物だそうで、「大先達 佐藤定蔵翁銅碑」とあるのですが、かつては石像ではなく銅像だったのでしょうか。

(写真)大先達 佐藤定蔵翁銅碑。

 

香川県仲多度郡琴平町には金刀比羅宮があります。金毘羅参りは江戸時代から近代を代表する旅行の形態ですが、愛知金明講は日本最大級の金毘羅講だそうで、1992年(平成4年)時点でも多くの参拝者がいたようです。

琴平市街地の中心部、琴電琴平駅前には通りをまたぐ巨大な鳥居が建っていますが、この鳥居は1925年(大正14年)1月に愛知金明講が寄進した鳥居であり、北側の柱には「愛知金明講 佐藤定蔵」と刻まれています。

(写真)琴電琴平駅前の鳥居。Googleストリートビュー

1.2 竹内常次郎(鞄職人)

覚王山日泰寺墓地には石板型の石碑も一定数見られ、墓地東側の中央部には竹内常次郎翁之碑があります。

碑文を読解すると、竹内常次郎は文久3年(1863年)に江戸に生まれ、1877年(明治10年)に名古屋に転居すると、他者に先駆けて西洋風鞄の製造を始めたようです。1927年(昭和2年)1月9日に死去し、同年5月にこの石碑が建立されました。篆額は名古屋市長の田阪千助です。

石碑の手前には「鞄業祖竹内翁碑」と刻まれた四角柱があり、背面には1956年(昭和31年)5月吉日の日付と「愛知鞄創業八十年大祭記念改修」と刻まれています。

(写真)竹内常次郎翁之碑。

 

1.3 下出民義(電気事業家)

古川為三郎の墓の南隣には、古川と同等の広い敷地に「下出家累代墓」があります。側面には「昭和六年五月建立 当主民義」とあり、1931年(昭和6年)5月に実業家・政治家の下出民義 - Wikipediaが建立しています。下出民義は名古屋市会議員、衆議院議員貴族院議員などを歴任し、東邦高等学校の創設者でもある人物です。

(写真)下出家累代墓。

 

1.4 加藤重三郎(名古屋市長)

墓石には「〇〇家之墓」や「〇〇家累代之墓」と刻まれているのが一般的ですが、個人名が刻まれている数少ない人物として加藤重三郎 - Wikipediaがいます。背面には昭和八年没と刻まれているため、同姓同名の別人ではないと判断できるのですが、墓石はかなり新しいように見えます。加藤は弁護士、名古屋市会議員、名古屋市長(1906年~1911年)を務めた人物です。

(写真)加藤重三郎之墓。

 

1.5 久留島通彦(電気事業家)

覚王山日泰寺墓地の東端近くには久留島家之墓があります。広い敷地にぽつんと1基の墓石が置かれており、この墓石自体は1933年(昭和8年)9月建立ですが、2023年(令和5年)1月に墓地の改修を行ったため殺風景なようです。

墓石の建立者は東邦電力常務や揖斐川電気(現・イビデン)社長を務めた久留島政治であり、久留島政治の弟は矢作水力副社長や東亞合成化学工業(現・東亞合成)会長を務めた久留島通彦 - Wikipediaです。

(写真)久留島家之墓。

 

1.6 岡野好太郎(柔道師範)

墓石に加えて歌碑のある人物として岡野好太郎がいます。

岡野は講道館十段の柔道師範。1885年(明治18年)4月24日に香川県に生まれ、1911年(明治44年)以降に第六高等学校、1920年大正9年)以降に第八高等学校、その後名古屋高等商業学校や名古屋大学などの柔道師範を務めました。著書に『学生柔道の伝統』があります。

岡野は1967年(昭和42年)6月2日に死去し、1969年(昭和44年)6月2日に歌碑が建立されています。刻まれているのは岡野自身が詠んだ歌ではなく、弟子の出月三郎陸軍軍医大佐が追慕した歌です。

隣には岡野永敏之墓がありますが、岡野永敏は岡野好太郎の次男であり、海軍技術中尉として航空技術廠光学部に勤務していた人物。1943年(昭和18年)11月14日、飛行機に搭乗して夜間雷撃の実験中に佐田岬沖で事故死したとのことです。

(写真)歌碑と岡野家の墓。

 

1.7 古川為三郎(実業家)

現代の名古屋を代表する実業家として、ヘラルドグループ創業者の古川為三郎 - Wikipediaがいます。

1908年(明治41年)には大須観音境内に、名古屋初の活動常設館である文明館が開館しました。1912年(明治45年)には2番目の活動常設館として太陽館が開館し、他にも多数の映画館が生まれたことで大須は日本屈指の興行街となりました。

1921年(大正10年)、古川為三郎は太陽館を買収して映画館経営者としての道を歩み始めました。戦後には多数の映画館の経営を手掛けたほか、1956年(昭和31年)には配給会社の日本ヘラルド映画を設立しています。

古川為三郎やヘラルドグループの経営館は多数ありますが、2003年(平成15年)の経営破綻前まで経営していた映画館には、矢場町のヘラルドシネプラザ(1964年~2004年)、名古屋駅前の毎日ホール劇場(1960年~2002年)があります。

(写真)古川家之墓と古川為三郎之墓。

(写真)古川為三郎之墓。