振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

中津川市立図書館を訪れる

(写真)中津川市立図書館の館内。

2024年(令和6年)2月、岐阜県中津川市新町のひと・まちテラスにある中津川市立図書館を訪れました。「中津川市街地の映画館」からの続きです。

 

2023年(令和5年)7月15日、中津川市立図書館を核とする中津川市ひと・まちテラスが開館しました。中心駅の駅前でも郊外でもなく、栗きんとんの名店「すや」などが並ぶ新町商店街にあり、近年に開館した図書館としてはかなり珍しい立地と思われます。

 

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1. 新図書館の建設

1.1 建設計画時の混乱

1970年(昭和45年)、この場所に5階建てのユニー中津川店が開店しました。1971年(昭和46年)には中津川駅前に6階建てのダイエー中津川店が開店しており、中津川市街地における2つの核として商業を牽引していたと思われます。なお、1979年(昭和54年)には中山道中津川宿からすぐの場所に中津川市立図書館が開館しました。

1997年(平成9年)にはユニー中津川店が移転閉店、1998年(平成10年)にはダイエー中津川店も閉店し、郊外型ロードサイド店舗の優位がはっきりします。2005年(平成17年)には旧・中津川市恵那郡の3町3村、長野県木曽郡山口村の8自治体が合併して新・中津川市が発足しました。合併後の中津川市において、既存の図書館は立地も規模もやや中途半端であり、比較的早い時期に単独施設を建てたことで老朽化も進んでいました。

 

2009年(平成21年)には中津川市によって、ユニー中津川店跡地に新館の建設が提案されました。2011年(平成23年)10月にはいったん着工したものの、12月には市民による解職請求(リコール)運動で大山耕二市長が辞職。2012年(平成24年)1月の出直し市長選では図書館建設中止派の青山節児が当選し、図書館建設計画は凍結されました。

そんな中で、2020年(令和2年)にはあえて青山市長の元で図書館を核とする複合施設の建設が提案され、2021年(令和3年)10月に着工、2023年(令和5年)7月に開館したものです。凍結された計画と同一地点に建設され、外観は凍結された計画とほぼ同じですが、図書館単独施設から複合施設に代わったようです。

更地時代の建設予定地を訪れたことがありますが、2020年代にもなってこんな狭い敷地に複合施設を建てるのかと驚きました。下の写真を見ると建物が面する通り(新町商店街)の狭さも分かります。

(写真)中津川市立図書館が入る中津川市ひと・まちテラス。

 

1. 中津川市立図書館

1.1 書架・館内

1階は市民活動に用いる会議室や観光情報の提供スペース、2階が一般書のフロア、3階が児童書のフロアです。周辺はやや傾斜のある地形であり、新町商店街から建物に入る場合は1階入口を用いますが、駐車場から建物に入る場合は2階入口となります。

(写真)フロアマップ。

(写真)館内中央部のマップ。

 

2階入口付近には自動返却機や自動貸出機が設置されています。メインカウンターに相当する存在の「調べもの相談カウンター」があり、名前からも貸出返却ではなくレファレンスなどに人員を割きたい思惑がうかがえます。

新着図書コーナー、データベースコーナーなどはカウンター周辺に集まっていますが、その周囲には社会科学などの背の高い書架があって窮屈さを感じました。

(写真)自動返却ポスト

(写真)新着図書コーナー。

(写真)一般書の書架。2類。

(写真)文芸書の書架。

 

長野県木曽郡を中心とする周辺地域は木曽桧の産地であり、書架には中津川市産の桧などが用いられているとのこと。特に文庫コーナーの小部屋型書架はこの図書館の”推し”になるはずの書架に思えるのですが、特色ある蔵書ではなく文庫が置かれた凡庸な書架になってしまっています。

(写真)文庫の書架。

(写真)YAコーナー。

 

閲覧席は一人分のスペースが広く取られており、電源(コンセント)も完備されています。同一フロア内には学習室もあるのですが、学習室に入りきらなかった学習者が閲覧席の多くを占めてしまい、座席に座って本を読みたくても読めない状況になっていました。

(写真)閲覧席。

(写真)学習室。

 

1.2 郷土資料

旧館時代と同様に、郷土資料には大きなスペースが割かれていました。合併で中津川市となった各地区ごとに見出しがあるのは良いです。中津川市らしい「地歌舞伎・地芝居」、郷土出身者である「熊谷守一」、郷土出身作家である「伊藤潤二」など、様々な見出しがあります。

(写真)郷土資料コーナー。

(写真)落合・神坂・阿木・坂下・川上・加子母・付知・福岡・蛭川・山口・明智など各地区のコーナー。

(写真)地歌舞伎・地芝居の見出し。

(写真)熊谷守一の見出し。

(写真)伊藤潤二の見出し。

(写真)災害・防災の見出し。小見出しとして四ツ目川災害。

(写真)多すぎる見出し。

 

2. 中津川市ひと・まちテラス

 

(写真)観光情報パネル。

(写真)ラウンジ。

(写真)ロビーと畳コーナー。

(写真)カフェ「CAFE SHINSUI」。

(写真)熊谷守一の展示。

 

中津川市街地の映画館

(写真)中津川市ひと・まちテラス。

2024年(令和6年)2月、岐阜県中津川市を訪れました。「中津川市立図書館を訪れる」に続きます。

 

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1. 中津川市街地の映画館

1.1 中津川東映劇場(1937年-1963年頃)

所在地 : 岐阜県中津川市東太田町(1963年)
開館年 : 1937年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』によると1937年開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿では「中津松竹館」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中津川東映劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行中津川支店」北30mにある「スマイルパーキング月極駐車場」。

(写真)1957年の中津川東映劇場。『目で見る 中津川・恵那の100年』郷土出版社、1990年。

 

(写真)『中津川市全居住者明細図帳』1958年。

(写真)『中津川市全居住者明細図帳』1958年。

(写真)中津川東映跡地の駐車場。

(写真)東太田町通り。

 

1.2 旭映画劇場(1840年-1966年頃)

所在地 : 岐阜県中津川市新町3-21(1966年)
開館年 : 1840年(劇場)、1951年6月(映画館)
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年6月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「旭座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1966年の映画館名簿では「中津川旭映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない跡地は「ふるさとにぎわい広場」北西にあるマンション「ポレスター中津川新町」。

(写真)旭座で芝居を見物する女工。『中津川の歴史写真展記念誌』中津川市、1982年。

(写真)1950年から1951年の旭映画劇場。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年。

(写真)椅子席に代わったばかりの1951年の旭映画劇場。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年。

(写真)『中津川市全居住者明細図帳』1958年。

 

(写真)旭映画劇場跡地のマンション。

 

1.3 中津劇場(1912年11月-1967年頃)

所在地 : 岐阜県中津川市栄町5-18(1967年)
開館年 : 1912年11月
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「中津劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は駐車場「恵那漁協管理有料月極駐車場」。

(写真)昭和30年代の栄町周辺。『目で見る 中津川・恵那の100年』郷土出版社、1990年。

(写真)『中津川市全居住者明細図帳』1958年。

 

1988年の航空写真には建物が写っているように見え、2000年の航空写真では取り壊されているように見えます。

(写真)中津劇場跡地の駐車場。

(写真)台町通り。

 

1.4 グリーン劇場(1955年頃-1973年頃)

所在地 : 岐阜県中津川市太田町2-6-34(1973年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「グリーン劇場」。1958年の映画館名簿では「グリン映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「グリーン映画劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「中津川グリーン劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中津川グリーンホテル」。

(写真)グリーン劇場の看板が見える1962年の中津川駅前通り。『中津川市勢要覧 1962』中津川市、1962年。

(写真)グリーン劇場跡地の中津川グリーンホテル。

(写真)中津川駅前通り。

(写真)緑町の看板。

 

中津川市街地の映画館について調べたことは「中津川市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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恵那郡福岡町の映画館

(写真)福岡商店街。

2024年(令和6年)2月、岐阜県中津川市福岡(旧・恵那郡福岡町)を訪れました。「付知町を訪れる」「付知町の映画館」からの続きです。

 

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1. 中津川市福岡公民館図書室

(写真)福岡商店街。

 

1.1 図書室の館内

中津川市立図書館は本館と蛭川済美図書館の2図書館、多数の公民館図書室からなる組織ですが、新館開館後も各公民館図書室は維持されました。福岡公民館図書室は11もの公民館図書室のひとつです。広さは小学校の1教室分程度の図書室ですが、テーマ展示があって職員の手が入っている印象がありました。

(写真)福岡公民館図書室の書架。

(写真)テーマ展示。

 

1.2 郷土資料

『写真集 ふるさとの遺跡探訪』『福岡町の野生植物』が販売可能な郷土資料として面展示されていたほか、『広報ふくおか』と『福岡町史』が置かれた棚がありましたが、『福岡町史』は空箱でした。

(写真)福岡公民館図書室。

 

中津川市福岡町には1891年(明治24年)竣工の芝居小屋である常盤座が現存し、毎年春に歌舞伎の定期公演が行われています。1階ロビーには黒板を用いた常盤座コーナーもありました。

(写真)福岡公民館にある常盤座の展示。

(写真)中津川市福岡公民館。

 

2. 恵那郡福岡町の劇場・映画館

2.1 菅原座(1891年頃-昭和30年代?)

福岡公民館の事務室の男性(70代?)に「福岡町にあった映画館について知りたい」と尋ねると、まずは菅原座という名前を口にされました。菅原座は福岡町にあった芝居小屋であり、『ふくおか町報』の記事によると1891年(明治24年)頃に建てられたようです。

福岡公民館や中津川市福岡総合事務所の東200mには氏神榊山神社がありますが、そのすぐ南の福岡保育園旧敷地の場所にあったようです。

(写真)1963年の菅原座。『写真でみる福岡町の歴史』福岡町文化協会、1993年。

(写真)「地区の紹介 中組一 教育発祥の地 まぼろしの菅原座」『ふくおか町報』福岡町、1984年6月、第145号。

 

2.2 ロビン映画劇場(1957年4月-1961年9月)

所在地 : 岐阜県恵那郡福岡村(1962年)
開館年 : 1957年4月
閉館年 : 1961年9月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「ロビン映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福岡区民会館」建物東側。

各年版の映画館名簿には、恵那郡福岡町の映画館としてロビン映画劇場が掲載されています。『写真でみる福岡町の歴史』(福岡町文化協会、1993年)や『保存版 ふるさと中津川・恵那』(郷土出版社、2010年)に言及されていますが、営業期間は1957年(昭和32年)から1961年(昭和36年)と短命であり、160席の小規模な映画館だったようです。

(写真)福岡村のロビン映画劇場が掲載されている1960年の映画館名簿。

(写真)1957年4月の開館当初のロビン映画劇場。『写真でみる福岡町の歴史』福岡町文化協会、1993年。

 

映画館名簿や郷土資料では正確な跡地がわかりません。福岡公民館の男性に場所を聞くと、現在の住宅地図を見ながら

通りを南まで行くと福岡区民会館があるが、福岡区民会館の南東の民家の場所にあった。小学校5年か6年の時に入ったことがある。すぐ西側には北恵那鉄道が通っており、払い下げられた線路の跡地に福岡区民会館が建っている」とのことでした。

ロビン映画劇場の閉館は1961年(昭和36年)ですが、北恵那鉄道は1978年(昭和53年)まで中津川市街地と付知町を結んでいました。美濃福岡駅の跡地には石碑が建っています。

(写真)石碑「美濃福岡駅跡」。

 

 

跡地を確認するために現地を訪れました。男性が示した跡地には民家が建っていますが、様々な映画館跡地をめぐった経験からどうも腑に落ちません。美濃福岡駅の正面という場所は立地が良すぎであるし、敷地は不整形です。

(写真)ロビン映画劇場の跡地周辺。男性が示した跡地は右の民家。左奥は福岡区民会館。

 

中津川市立図書館を訪れて住宅地図を閲覧すると、現在の福岡区民会館の位置に「深谷恵治」と書かれているのが目に入りました。深谷はロビン映画劇場の経営者だった人物です。1961年(昭和36年)の映画館閉館後、跡地に自宅を建てた、もしくは映画館を自宅に転用していた可能性があります。

(写真)1979年の住宅地図における美濃福岡駅周辺。

 

恵那郡福岡町の映画館について調べたことは「中津川市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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付知町の映画館

(写真)地図「昭和55年の上見屋周辺」。

2024年(令和6年)2月、岐阜県中津川市付知町を訪れました。かつて付知町には映画館「付知劇場」「大山劇場」がありました。「付知町を訪れる」からの続きです。「恵那郡福岡町の映画館」に続きます。

 

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1. 付知町の映画館

各年版の映画館名簿を見ると、恵那郡付知町には付知劇場と大山劇場という2館の映画館がありました。

 

1.1 大山劇場(1908年1月-1964年頃)

所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1964年)
開館年 : 1908年1月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大山劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ベル・ケイホク電器」北東30mの駐車場。

安政2年(1855年)、護山神社の境内に田口慶郷が籠所を建立し、祭礼の際には舞台として使用されていました。1879年(明治12年)頃には倉屋神社の裏に移築されて森本座と称するようになり、1908年(明治41年)には大門町に移築されて大山座となります。戦後に大山劇場として映画館名簿に掲載されていたのはこの建物だそうです。

大山劇場の跡地と推定した場所の東側はやや低くなっており、広嶋野稲荷神社という小規模な社がありました。この社の近くにいた女性(80代?)に話を聞くと、

通り沿いの駐車場の場所に大山劇場があった。もう劇場の名残は何もない。駐車場を持っているのは隣の地主である。付知町には大山劇場のほかに、広野に付知劇場もあった」とのことでした。もうひとつの劇場である付知劇場があった広野林とは3kmの距離があります。

(写真)大山劇場。『付知町史 通史編資料編』付知町、1974年。

 

中津川市立図書館が所蔵する1979年(昭和54年)の住宅地図には大山劇場という文字があり、同年時点ではまだ劇場の建物が残っていたと思われます。現在の跡地はガレージ(月極駐車場)となっています。

(写真)1979年の住宅地図における大山劇場跡地周辺。

(写真)大山劇場跡地にあるガレージ。

(写真)大山劇場跡地にあるガレージ。

 

大門町は付知盆地北部における中心地区ですが、付知地域デザインミュージアムが活動している広野林と比べると活気がないように思われます。

(写真)1940年の大門地区から出征するトラック。『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年。

(写真)大山劇場があった大門町の中心部。

 

1.2 付知劇場(1923年-1969年)

所在地 : 岐阜県恵那郡付知町広野林(1968年)
開館年 : 1923年、1945年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧1955』によると1945年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「付知劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「付知映画劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「付知劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「割烹旅館上見屋」北北東90mの「加地工務店社員寮」。

明治初期の付知盆地は御嶽山への参拝路となり、1875年(明治8年)には広野林(廣野林、こうやばやし)に旅館の上見屋が創業しています。明治20年代には街道筋が本格的に整備され、広野林には多くの商店や旅人宿が開業、付知盆地南部の商業の中心となりました。

もともとこの地には芝居小屋の大新座があり、1898年(明治31年)頃には付知村初の活動写真の上映が行われたようです。1919年(大正8年)に大新座が焼失した後、1923年(大正12年)3月に付知劇場として再建されました。

(写真)閉館間際の1968年の付知劇場。『ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年。

 

2021年(令和3年)から、東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻交通・都市・国土学研究室は上見屋をリノベして付知地域デザインミュージアムとし、付知町地域活性化を図っています。

付知地域デザインミュージアムが発行する『つけちレター』第2号には「柳屋の北側の"よこまち"に付知劇場があった」という記述があります。付知地域デザインミュージアムの正面の広場には1980年(昭和55年)の上見屋周辺の地図が看板化されており、「医院(以前付知劇場)」という建物も描かれていました。

(写真)「医院(以前付知劇場)」が描かれた「昭和55年の上見屋周辺」。

(写真)上見屋周辺の説明看板。

(写真)上見屋周辺の説明看板がある広場。

(写真)1979年の住宅地図における付知劇場跡地周辺。

 

付知劇場の閉館は大山劇場より数年遅く、1969年(昭和44年)12月1日の浪曲大会が最後の興行となりました。付知劇場の跡地には豊演堂医院が建ちますが、豊演堂医院は付知町長なども務めた伊藤公道が創業した病院です。

 

伊藤 公道(いとう ひろみち、1879年10月7日-1967年7月5日)は、岐阜県恵那郡福岡村出身の医師・政治家。

田瀬尋常小学校と付知尋常小学校高等科を卒業後、1907年(明治40年)に日本医学校(現・日本医科大学)を卒業し、同年には医師国家試験に合格した。故郷の付知町に豊演堂医院を開業し、町民に推されて地方自治の世界にも進出している。1916年(大正5年)には付知町会議員に(3期)、1935年(昭和10年)には岐阜県会議員に(1期)、1936年(昭和11年)には付知町長に(3期)就任した。89歳で死去した。

(写真)付知劇場跡地の社員寮。

 

よこまちを歩いてみます。看板がなければ見過ごしてしまう路地ですが、街道に近いいくつかの敷地を囲う塀、付知劇場の西側にある若松屋旅館を囲う漆喰塗りの土塀、1軒のみ残るスナック キャッツアイの看板、今となっては場違いにも見える商店街の街路灯などが往時の名残だと思われます。

(写真)付知劇場があったよこみち。

(写真)付知劇場跡地とよこみち。

 

上見屋のはす向かい、よこまちの入口には旧柳屋酒店の立派な和風建築があります。1885年(明治18年)から1886年明治19年)頃に創業した酒屋であり、この2020年(令和2年)に廃業したようです。上見屋と並んで広野林ではシンボリックな建物ですが、今後建物が活用されるのか気になります。

(写真)大正時代の広屋林地区の上見屋周辺。右が上見屋。『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年。

(写真)現在の上見屋周辺。左が上見屋、右が旧柳屋酒店。

 

付知町の映画館について調べたことは「中津川市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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