振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

清須市の映画館

(写真)平和ビル。

2023年(令和5年)4月、愛知県清須市を訪れました。

 

1. 西枇杷島町を訪れる

1.1 平和ビル

JR東海道本線名鉄名古屋本線を立体交差で越える際、すぐ手前に古びたビルが見えます。この平和ビルは名鉄西枇杷島駅美濃路を結ぶ場所にあり、古びた庇が残る1階部分は商店街になっていました。現在の西枇杷島駅の乗降客数は500人/日程度ですが、Wikipediaによると1970年代末には6倍の3000人/日もいたようです。

(写真)平和ビル。

(写真)平和ビル。

 

西枇杷島駅前の平和ビルですが、1961年(昭和36年)5月の航空写真には既に写っています。1959年(昭和34年)11月の航空写真には写っておらず、1960年(昭和35年)頃に建てられたようです。当時の航空写真を見ると、周辺では圧倒的に巨大なビルだったことが分かります。

(写真)1963年の西枇杷島駅周辺の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス

 

1965年(昭和40年)の住宅地図によると、平和ビルの向かいには銭湯のやよい湯があります。周辺の商店を観てみると、平和ビルの南側には菓子店、小間物店、洋品店、鍵屋、豆腐屋、八百屋などがあり、西枇杷島駅前には煙草店、履物店、薬局、洋裁店、理髪店、靴屋、食料品店などがあります。

(地図)1965年の平和ビル周辺の住宅地図。

 

各階とも中央部に廊下があり、その両側がアパートの部屋になっています。2階は火災の痕跡が生々しいのですが、少なくとも数年間はこの状態で放置されているようです。3階西端部には手洗い場があり、様々な色が用いられたマーブルモザイクタイルが存在感を放っていました。

(写真)平和ビル。(左)2階。(右)4階。

(写真)平和ビル。(左)3階。(右)手洗い場のモザイクタイル。

(写真)平和ビル。モザイクタイルが貼られた手洗い場。

 

1.2 西枇杷島町赤煉瓦トンネル

平和ビルの西側にはJR東海道本線東海道新幹線の高架があり、その下には赤煉瓦が用いられた歩行者用のトンネルがあります。Google検索ではトンネルの名称が判明しないので、ご存じの方は教えてください。今昔マップを見ると、トンネルの完成時期は昭和初期でしょうか。

(写真)歩行者用赤煉瓦トンネル。

(写真)歩行者用赤煉瓦トンネル。

 

2. 清須市の映画館

2.1 新川映画劇場(1930年12月-1957年頃)

所在地 : 愛知県西春日井郡新川町須口(1955年)
開館年 : 1930年12月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月設立。1941年の映画館名簿では「新川映画劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1946年・1947年の映画館名簿では「新川映画劇場」。1949年の映画館名簿では「尾張新川映画劇場」。1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「新川映画劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

新川町の映画館について最も詳しく書かれているのは1955年(昭和30年)の『新川町誌』です。文献によっていくらか食い違いがあるのですが、1930年(昭和5年)12月には劇場の富士丸座が開館し、1937年(昭和12年)2月には新川キネマが開館。1940年(昭和15年)には富士丸座が新川映画劇場に改称して常設映画館となりますが、新川映画劇場は映画観客数がピークを迎える前の1957年(昭和32年)頃に閉館しています。

(写真)昭和20年代の新川劇場。『写真アルバム 稲沢・清須の昭和』樹林舎、2014年。

 

2.2 新川キネマ(1937年2月-1969年頃)

所在地 : 愛知県西春日井郡新川町土器野新田(1969年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月設立。1941年の映画館名簿では「新川キネマ」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1946年の映画館名簿では「新川キネマ」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「尾張新川キネマ」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新川キネマ」。1966年・1969年の映画館名簿では「尾張新川キネマ」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の全商工住宅案内図帳には掲載されていない。跡地は「土器野神明社」の北側。最寄駅は名鉄名古屋本線新川橋駅

1937年(昭和12年)12月には浦山長一(南知多興行)によって新川キネマが開館しました。今昔マップで1932年(昭和7年)と1937年-38年(昭和12-13年)の地形図を比較すると、土器野新田ではこの数年間の間に土地区画整理事業が行われたことが分かります。この場所に映画館を建てた理由を図りかねているのですが、区画整理に合わせて開館したのは確かなようです。

(写真)1937年の開館当時の新川キネマ。『写真アルバム 稲沢・清須の昭和』樹林舎、2014年。

(地図)1937年-1938年の地形図と1932年の地形図。今昔マップ

 

1941年(昭和16年)の映画館名簿で周辺地域の映画館数を見てみると、一宮市が5館、津島町・犬山町・起町・勝川町が各1館であり、新川キネマと新川映画劇場の2館あった新川町は一宮市に次ぐ多さでした。

経営者の浦山長一は知多半島の有力な興行主であり、戦後の映画黄金期には新川キネマに加えて、半田東映・知多キネマ・住吉会館(半田市)、野間劇場(美浜町)などを経営していました。

(写真)新川キネマ跡地の駐車場。

 

新川キネマの南側すぐの場所には土器野神明社があります。境内は東西に長く、参道入口には尾張地方に特有の蕃塀(ばんぺい)もあります。

(写真)土器野神明社。(左)拝殿。(右)蕃塀。

 

2.3 西枇劇場(1957年頃-1969年頃)

所在地 : 愛知県西春日井郡西枇杷島町字住吉町45(1969年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1969年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「西枇劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はアパート「メゾン・ド・グレージュ」。最寄駅は名鉄名古屋本線西枇杷島駅

西枇杷島町には西枇劇場がありました。こちらは映画黄金期の1957年(昭和32年)頃に開館した映画館であり、1969年(昭和34年)頃に閉館しています。1965年の住宅地図を見てみると、西枇劇場の東側にある通り沿いには憩温泉という銭湯があります。

(地図)1965年の西枇東映周辺の住宅地図。

(写真)西枇劇場跡地のマンション。

 

西枇劇場の跡地には1993年(平成5年)竣工のマンションが建っています。マンションの正面には4軒の飲み屋が入った建物があり、周辺ではこの建物のみが西枇劇場があった時代の面影を残しているかもしれません。

なお、250m北には1959年(昭和34年)架橋の西枇杷島町横断歩道橋(日本初の横断歩道橋)がありましたが、2010年(平成22年)に撤去されて名古屋大学に移築されています。

(写真)西枇劇場跡地の前にある飲み屋。

(写真)西枇劇場跡地の前にある飲み屋。

 

清須市の映画館について調べたことは「尾張地方の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

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