2024年(令和6年)12月、和歌山県東牟婁郡串本町を訪れました。「串本町図書館を訪れる」「串本町の映画館」に続きます。
1. 串本町を訪れる
串本町は紀伊半島の南端部にある自治体であり、潮岬は本州最南端の地として知られています。本州本土と陸繋島の潮岬をつなぐ砂洲上に串本市街地が形成されています。
串本町の沖合には黒潮の影響で好漁場が形成されており、また冬季の水温が高いことで養殖漁業も発達しています。歴史的にはカツオの一本釣漁法であるケンケン漁で知られ、近年には近畿大学系列の企業が紀伊大島沿岸でクロマグロの養殖(「近大マグロ」)を行っています。
1.1 無量寺
串本市街地で最も大きな寺院は無量寺です。宝永4年(1707年)の宝永地震に伴う大津波で流失したあと、天明6年(1786年)には現在地に伽藍が再建されました。本瓦葺で桁行七間の立派な本堂はこの際に再建されたもの。
再建時には円山応挙と長沢芦雪が多数の襖絵を残しており、1961年(昭和36年)にはこれらの寺宝を収蔵するための串本応挙芦雪館が開館すると、1979年(昭和54年)には応挙と芦雪の襖絵55面が重要文化財に指定されています。
(写真)無量寺。
1.2 網元の邸宅
矢倉家住宅
明治時代には串本の戸数が急激に増加し、大正時代から昭和初期には町の繁栄がピークを迎えたと思われます。カツオ漁は鰹漁船団を形成して行うことから、串本町には大きな敷地を持つ網元の邸宅が数軒ありました。
最も敷地が広いのが矢倉家住宅(矢倉甚兵衛家住宅)です。江戸時代には鰹漁船の網元に加えて鰹節の製造も行っていましたが、1873年(明治6年)に生まれた矢倉甚兵衛(名跡)は串本銀行を設立し、明治時代以後の矢倉家は「紀南屈指の山林地主」となっていきました。
敷地の東側に主要な門があり、敷地の南側にも門があります。慶応2年(1866年)竣工の主屋は『和歌山県の近代和風建築』にも掲載されていますが、敷地外からは主屋が見える場所がありません。
(写真)矢倉家住宅。東門。
稲村亭(旧神田家別邸)
串本市街地には登録有形文化財として稲村亭(とうそんてい、旧神田家別邸)があります。1874年(明治7年)に12代神田清右衛門(神田直堯)によって建てられました。東側が土間、西側が下屋のある六間取の邸宅であり、海岸に流れ着いたスギ材の巨木を主要な柱に加工して建てられたという逸話が知られています。
神田家も矢倉家同様に山林地主や銀行頭取を務めた家です。2016年(平成28年)に土地と建物が串本町に寄贈され、2019年(令和元年)7月にまちづくり会社によってレストラン「みなも」が開店し、NIPPONIAによってゲストハウス「NIPPONIA HOTEL 串本 熊野海道」となると、同年12月には建物が登録有形文化財に登録されています。
(写真)稲村亭(旧神田家別邸)。
(写真)稲村亭(旧神田家別邸)。
神田家住宅
稲村亭の東50mにある邸宅が神田家の本宅だと思われます。本瓦葺の屋根が壮観な主屋、桟瓦葺の屋根を持つ表門、なまこ壁に2か所の戸がある長屋(?)、庇は桟瓦葺で屋根が本瓦葺の蔵などがあり、表門の西隣にはアーチ型の開口部を持つ低い勝手口があります。
なお、元治元年(1864年)に14代将軍徳川家茂が上洛する際、串本に上陸して無量寺に泊まりました。この際には神田家が面する通りを通ったとのことで、この通りは公方通りと呼ばれています。
(写真)神田家と公方通り。
(写真)神田家の主屋。
公方通りの南60メートルには本町通りが並行していますが、本町通りの東端にはやはり神田という表札のある立派な邸宅があります。焼杉板と漆喰の塀が美しく、塀の奥にはよく手入れされたカイヅカイブキが見えています。南側には塀や庭の雰囲気のあった棟門があります。
(写真)本町通り東端部の神田家。
本町通りは神田家の東側で鉤形に折れ曲がっており、この部分から東側は裏通りという印象の強い路地となっています。鉤形に曲がった部分には赤煉瓦蔵があります。
(写真)本町通り東端部の煉瓦蔵。
(写真)本町通り東端部の煉瓦蔵。