(写真)本町通りと大正座の建物(左)。
2024年(令和6年)12月、和歌山県東牟婁郡串本町を訪れました。かつて串本町には映画館「熊野タイムス」「串本座」がありました。「串本町を訪れる」「串本町立図書館を訪れる」からの続きです。
1. 串本町の映画館
1943年の映画館名簿
大正座は1914年(大正3年)に開館した芝居小屋ですが、戦時中の1943年(昭和18年)版からは映画館名簿にも掲載されるようになります。経営者として記載されている矢倉虎一は串本町で最も大きな旅館海月の経営者であり、戦前には新宮市の帝国館なども経営していました。
(写真)『映画年鑑 昭和18年』日本映画協会、1943年。
1955年の映画館名簿
1947年(昭和22年)8月には熊野タイムスが開館し、串本町の映画館は大正座と熊野タイムスの2館となります。なお、1950年代以降の大正座は築地映画劇場として映画館名簿に掲載されていますが、聞き取り調査で話を聞いた全ての方が大正座としてこの施設を記憶していました。
(写真)『全国映画館名簿 1955年版』時事通信社、1955年。
1968年の映画館名簿
大正座の閉館年は判然としませんが、映画館名簿に掲載されるのは1968年(昭和43年)版が最後です。熊野タイムスの経営者の欄には柏木優とありますが、柏木タイムスという名称で記載されている年もあります。
(写真)『映画便覧 1968年版』時事通信社、1968年。
1.1 大正座(1914年9月3日-1968年頃)
所在地 : 和歌山県西牟婁郡串本町1735(1968年)
開館年 : 1914年9月3日
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1914年9月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「大正座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「築地映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「串本築地映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は跡地は串本町立串本小学校グラウンド南西120mに現存。
和歌山市には日本のアマルフィ」とも呼ばれる傾斜地の景観が特徴の雑賀崎(さいかざき)があり、2023年(令和5年)の映画『あつい胸さわぎ』のロケ地などにもなっています。串本町にもかつて雑賀町(さいかまち)があり、明治時代後期には串本町で最も栄えた通りだったようです。
雑賀町は1912年(明治45年)4月23日の大火で壊滅しましたが、その後道路を拡幅するなどして復興しました。1914年(大正3年)9月3日には雑賀町の西端近くに芝居小屋の大正座が開場しましたが、串本町に電灯が灯ったのは翌日の9月4日のことであり、電気の開通に合わせて大正座が開場したのだと思われます。
1921年(大正10年)、雑賀町は災禍に通じる雑賀という名称を捨て、今日にも続く本町(本町通り)に改称しました。なお、1912年(明治45年)には市街地を東西に貫通する初の通りとして、雑賀町の南に並行する新町(新町通り)が築かれています。
(写真)大正初期の雑賀町。『目で見る 田辺・西牟婁の100年』郷土出版社、1994年。
1924年(大正13年)の「串本町全図」、1933年(昭和8年)の『大日本職業別明細図』などには大正座が描かれています。
(地図)『大日本職業別明細図』東京交通社、1933年。
(写真)大正座の開館に関する言及。『串本のあゆみ 大正・昭和篇』串本町公民館、1977年。
大正座はやがて映画も上映するようになり、1968年(昭和43年)頃には映画館名簿に掲載されなくなりますが、竣工から100年以上建った2024年(令和6年)現在も建物が現存しています。側面の全部と正面の2階部分がトタンに覆われていますが、下見板張の壁面が見えている部分もあります。
(写真)大正座の建物。
(写真)大正座の建物。
映画館としての閉館後には田代商店という資材商店店舗として用いられた後、現在は田代商店の経営者宅になっているようです。
(写真)大正座の建物。
(写真)大正座の建物。
郷土資料には、大正座と同じく矢倉虎一が経営していた旅館海月(海月楼)の写真がありました。1919年(大正8年)8月に北白川宮成久王が熊野地方を視察した際、8月23日には旅館海月に泊まっています。
(写真)串本町最大の旅館だった1903年頃の海月旅館。『目で見る 田辺・西牟婁の100年』郷土出版社、1994年。
2.2 熊野タイムス(1947年8月-1976年頃)
所在地 : 和歌山県西牟婁郡串本町(1976年)
開館年 : 1947年8月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「熊野タイムス」。1958年の映画館名簿では「熊野タイムス館」。1960年・1962年の映画館名簿では「熊野タイムス会館」。1963年の映画館名簿では「柏木タイムス」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「熊野タイムス」。1969年・1973年の映画館名簿では「串本タイムス」。1974年・1975年・1976年の映画館名簿では「串本タイムズ」(※スではなくズ)。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「稲村邸」東南東30mの仕出屋「銀座屋」。
1960年代の映画館名簿には大正座の他に熊野タイムスが掲載されており、経営者の欄に掲載されている神田粛は神田印刷所という印刷会社を経営していたようです。
今日の串本町の東海岸通りには熊野タイムス印刷という印刷会社があるため、映画館の熊野タイムスはこの印刷会社に由来していると考えていたのですが、印刷会社で話を聞いたところ、
「熊野タイムス印刷と映画館の『タイムス』は無関係である。映画館は西に少し歩いたところにある銀座屋の場所にあった。映画館の閉館後に銀座屋というスーパーが建った。なお、もともと熊野タイムス印刷は映画館の北側にあり、その後この通りに移転した」とのことでした。
映画館のタイムスと熊野タイムス印刷は通りを挟んで隣り合っていたわけであり、無関係と言い切れるかはやや疑問なのですが、興味深い話でした。
(写真)熊野タイムス跡地にある銀座屋。
(写真)熊野タイムス跡地にある銀座屋。正面は熊野タイムス印刷の旧社屋。
(写真)熊野タイムス印刷。
串本町の映画館について調べたことは「和歌山県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(和歌山県版)」にマッピングしています。