(写真)栗山町図書館。
2024年(令和6年)10月、北海道夕張郡栗山町を訪れました。「ウィキペディアタウンin栗山」に参加するに続きます。
1. 映画館名簿と住宅地図
1.1 『全国映画館録 昭和11年度』
1936年(昭和11年)の映画館名簿には夕張郡の映画館として9館が掲載されています。内訳は夕張町が4館、栗山町が3館、長沼村と由仁村が1館ずつです。
なお、当時の正式な自治体名は角田村であり、角田村が町制を施行して栗山町に改称するのは戦後の1949年(昭和24年)のことであるため、映画館名簿に記載された自治体名は誤りということになります。とはいえ、当時から角田村の中心部は栗山市街地であり、国鉄室蘭本線の駅名も栗山駅でした。戦前の映画館名簿にはこのような自治体名の誤りが散見されます。
1.2 『映画便覧 1958年』
日本の映画観客数がピークを迎えたのは1958年(昭和33年)であり、映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)です。2023年(令和5年)の全国の映画館数は592施設3682スクリーンですが、1958年(昭和33年)には北海道だけで582館の映画館があり、当時の映画館人気の高さが分かります。
この年の栗山町には栗山市街地に2館、継立市街地に1館、角田炭鉱に1館の計4館がありました。炭鉱業は当時の北海道における主要産業であり、角田会館のように民間事業者が炭鉱近くで映画館を経営する場合もあれば、住友金属鉱山、三井金属鉱業、三菱金属などの鉱業会社が福利厚生施設として経営する場合もありました。
1.3 地図「昭和20年前後の栗山」
栗山駅に直結するくりやまカルチャープラザEkiには「昭和20年前後の栗山」という地図が貼られており、この地図は栗山町図書館にも所蔵されています。栗山町には古い時代の住宅地図が存在しないため、戦後すぐの時期の栗山市街地の様子が分かる貴重な資料です。
(地図)「昭和20年前後の栗山」における栗山座と大福座。くりやまカルチャープラザEkiで閲覧。栗山町図書館も所蔵。
(地図)「昭和20年前後の栗山」における小林酒造付近。
「昭和20年前後の栗山」には栗山座と大福座も描かれており、両館の正確な場所をはっきり言及している唯一の文献かもしれません。1948年(昭和23年)の航空写真には巨大な建物の両館がはっきりと映っています。
(写真)1948年の栗山市街地における栗山座と大福座。地図・空中写真閲覧サービス
上記の航空写真には栗山駅に停車する機関車の煙も見えます。『目で見る 岩見沢・南空知の100年』には同様に機関車が停車する栗山駅の写真が掲載されており、手前には短めの製材が多数積まれています。
この製材は長さ9尺(2.7m)のクリ材であり、栗山駅から貨車で室蘭港に運ばれた後、中国に輸出されて鉄道の枕木となったようです。室蘭本線には栗山駅、栗丘駅、栗沢駅と3連続で「栗」の付く駅がありますが、昔は栗林があったようです。
(写真)クリ材が積まれた1907年の栗山駅。『目で見る 岩見沢・南空知の100年』郷土出版社、2004年。
2. 栗山町の映画館
2.1 角田会館(1952年頃-1962年頃)
所在地 : 北海道夕張郡栗山町角田(1962年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「角田会館」。1963年の映画館名簿では「角田会館(休館中)」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
2.2 継立劇場(1939年6月-1963年8月)
所在地 : 北海道夕張郡栗山町継立(1963年)
開館年 : 1939年6月
閉館年 : 1963年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「継立劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
継立劇場と角田会館の経営者だった伊良原喜好は、栗山町継立で伊良原薬店を経営していた人物のようです。
2.3 大福座/栗山文化劇場(1909年-1965年頃)
所在地 : 北海道夕張郡栗山町栗山(1965年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「大橋座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「大福座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大福座」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「栗山文化劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「栗山町営中央団地」南40mの民家。
1909年(明治42年)に角田村の栗山市街地に開場したのが大福座です。1892年(明治25年)には北炭によって夕張炭鉱での採炭が開始され、1900年(明治33年)には小林酒造が札幌市から角田村に移転するなど、炭鉱業によって角田村が大きく発展する時期でした。
『栗山町史 第一巻』によると経営者は長澤君治、1965年(昭和40年)の映画館名簿によると経営者は栗山映劇で支配人は長沢正三です。長澤君治と長沢正三の親子が2代に渡って経営し、1958年(昭和33年)には栗山映画劇場に買収されて両館とも松原武吉の経営となりました。1914年(大正3年)生まれの長沢正三は『北海道川柳人名鑑』などにも名前が見られます。
(写真)1953年の大福座における栗山町労働文化芸能大会。『写真アルバム 空知の昭和』いき出版、2014年。
(写真)現在の栗山市街地における栗山映画劇場と栗山文化劇場の跡地。Googleマップ
2.4 栗山座/栗山映画劇場(大正時代-1969年3月)
所在地 : 北海道夕張郡栗山町(1969年)
開館年 : 大正時代
閉館年 : 1969年3月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「栗山座」。1941年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「栗山座」。1955年・1958年の映画館名簿では「栗山映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「栗山映劇」。1964年・1965年・1966年・1969年の映画館名簿では「栗山映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「松原産業」社屋。
大福座に続いて大正時代に建てられたのが栗山館であり、広い舞台や花道を有する芝居小屋でした。昭和初期頃には中越懇話会が経営者となって栗山座に改称し、戦後の1951年(昭和26年)には松原武吉と2代目小林米三郎が経営者となって栗山映画劇場に改称しました。映画館名簿には松原武吉が経営者の欄に掲載されています。
(写真)栗山町役場敷地内にある銅像「松原武吉之像」。
松原武吉は松原組(現・松原産業)の初代社長であり、栗山町の名誉町民にも推挙されています。栗山町役場の敷地内には1972年(昭和47年)に建立された「松原武吉之像」があり、題字は内閣総理大臣の佐藤栄作です。
小林米三郎 - Wikipediaは小林酒造社長/小林家当主であり、戦後には参議院議員を務めるとともに、やはり栗山町の名誉町民にも推挙されています。
(写真)小林米三郎が社長を務めた小林酒造の北の錦記念館。
(写真)1910年の栗山座の外観。『目で見る 岩見沢・南空知の100年』郷土出版社、2004年。
(写真)1930年の栗山座の館内。『写真アルバム 空知の昭和』いき出版、2014年。
(写真)1955年頃の栗山映画劇場の外観。『目で見る 岩見沢・南空知の100年』郷土出版社、2004年。
(写真)1968年の栗山映画劇場の映写室。『写真アルバム 空知の昭和』いき出版、2014年。
栗山映画劇場は1969年(昭和44年)3月に閉館し、1970年(昭和45年)には松原武吉も死去しました。1995年(平成7年)には栗山映画劇場の跡地に松原産業の新社屋が完成しています。
(写真)栗山映画劇場跡地の松原産業社屋。Googleストリートビュー
栗山町の映画館について調べたことは「道央の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(北海道版)」にマッピングしています。