振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

豊橋市二川地区の映画館

(写真)豊橋市二川宿本陣資料館。

2023年(令和5年)1月、愛知県豊橋市二川地区を訪れました。かつて二川地区には映画館「二川銀映」があり、建物の一部が現存しています。

 

1. 豊橋市二川地区を訪れる

二川は東海道の宿場町として発展した町。二川宿は遠江国から三河国に入って最初の宿場であり、規模の大きな吉田宿(現在の豊橋)の手前にありました。1955年(昭和30年)には渥美郡二川町が豊橋市編入され、現在は豊橋市の一部となっています。

二川地区には本陣の建物と旅籠の建物が現存しています。東海道に残る本陣または脇本陣の建物は3軒だけ(舞阪宿脇本陣、二川宿本陣、草津宿本陣)、東海道に残る旅籠の建物は6軒だけ(岡部宿柏屋、日坂宿川坂屋、二川宿清明屋、赤坂宿大橋屋、関宿玉屋、枚方宿鍵屋)であり、本陣も旅籠も残っているのは二川宿だけだそうです。

 

1.1 二川宿に関する施設

かつて二川宿の中央にあった本陣の建物と、背後にある現代的な展示施設からなるのが豊橋市二川宿本陣資料館。二川宿や東海道の歴史について学ぶことができます。

(写真)豊橋市二川宿本陣資料館。

(写真)豊橋市二川宿本陣資料館。

 

豊橋市二川宿本陣資料館から東に250m歩くと、展示施設の商家「駒屋」があり、建物は豊橋市指定有形文化財に指定されています。

駒屋のすぐ東側にあるのが、幕末に駒屋から分家した東駒屋であり、明治期にはさらに東駒屋から西駒屋が分家します。東駒屋と西駒屋はいずれも醸造業を営んでいましたが、明治末期には東駒屋が味噌、西駒屋が醤油に特化しています。東駒屋の建物は文化財指定/登録されていないため、今後の動向が気になります。

(写真)商家「駒屋」。右奥が東駒屋。

 

西駒屋は豊橋市二川宿本陣資料館の向かいにあり、主屋と土蔵が西駒屋田村家住宅として登録有形文化財に登録されています。東海道からは主屋しか見えませんが、脇道を入ると麹室、第1仕込蔵、第2仕込蔵、第3仕込蔵と続く細長い敷地を見ることができます。1980年(昭和55年)頃に廃業した東駒屋とは異なり、西駒屋は現在でも細々と醸造を続けているようです。

(写真)西駒屋。(左)主屋。(右)麹室と第1仕込蔵。

 

1.2 近代の製糸業

近代の二川町では養蚕が盛んとなり、糸徳製糸を創業した小渕志ちなどのおかげで製糸業も発展します。二川を訪れた後には小渕志ち - Wikipediaを加筆しました。糸徳製糸は二川最大の製糸場でしたが、戦後の1957年(昭和32年)に廃業しています。跡地は完全に宅地化されており、工場の痕跡を見つけることはできません。二川地区には私立の二川幼稚園や財団立の二川病院がありますが、これらはいずれも糸徳製糸が関与して設立された施設です。

映画館の二川銀映が開館したのは糸徳製糸の廃業後ですが、芝居小屋兼映画館の二川座が開館したのはまだ製糸業に力があった時代であり、製糸場の女工も訪れていたと思われます。

(写真)糸徳製糸の操糸場。『玉糸製糸の先覚者 小渕志ち』糸徳感謝会、1999年。

(写真)製糸工場が多かった二川。『ふたがわ』豊橋市立二川小学校、1964年。

 

1.3 二川トーチカ

二川駅の北200mには戦時中に建設された二川トーチカがあり、正面の駐車場から異様な戦争遺跡の外観を見ることができます。もともとは山の斜面に穴を掘って築かれたとのことですが、周囲の斜面は完全に切り崩されて宅地化しています。

(写真)二川トーチカ。

 

2. 豊橋市二川地区市民館図書室

豊橋市図書館は4館の図書館と多数の図書室からなる組織です。

豊橋市中央図書館、豊橋市まちなか図書館、豊橋市大清水図書館、豊橋市向山図書館の4館に加えて、豊橋市図書館の貸出カードを使えるネットワーク館が8館あり、二川地区市民館図書室はネットワーク館に位置付けられています。その他にも66室の地区市民館・校区市民館があり、カーリル対応の図書施設は計51施設となっています。

(写真)豊橋市二川地区市民館図書室。

 

二川地区市民館図書室は1974年(昭和49年)5月開館であり、豊橋市で最も早くに開設された分室です。2020年度末時点の配架冊数は7,217冊であり、こども未来館に次いで8室中2番目に配架冊数の多い分室となっています。2020年度の貸出冊数は33,696冊であり、青陵地区市民館に次いで8室中2番目に貸出冊数の多い分室となっています。

(写真)学習室にある郷土資料などの書架。

(左)小渕志ちコーナー。(右)二川・豊橋を知る図書の書架。

(写真)学習室。

 

3. 豊橋市二川地区の映画館

3.1 二川座(1932年頃-1944年頃)

近代の二川町では製糸業が発展し、1932年(昭和7年)頃には劇場兼映画館の二川座が開館しました。2階席や花道もあり、収容人数は300人。戦局が悪化した1944年(昭和19年)頃に廃館となったようです。商家「駒屋」の北、山本医院の東には、二川座の映写機室とされるコンクリ製の構造物が残っています。

(写真)二川座の映写機室。

 

映写機室とされるコンクリ製の構造物はいささか不自然な場所にあります。

豊橋百科事典』には「(二川座は)駒屋瀬古に面して東向きに建っていた」とありますが、映写機室西側の穴から西に向けて投影していたとすると、この映写機室は西向きです。また、駒屋西側の路地(駒屋瀬古)までの距離は10m弱しかなく、300人収容の劇場としては短すぎます。さらに、一般的に映写機はホール後方の中央部に置かれるものですが、この映写機室は道路ぎりぎりの場所にあります。

(写真)二川座の映写機室。(左)西側に投影用の穴が見える。(右)煉瓦やブロックで埋められた出入口。

 

戦後の住宅地図には映写機室がある場所に山本邸が描かれており、映写機室は山本医院の経営者の所有物であると考えられます。現在の山本医院の建物を建てる際などに、何らかの理由で映写機室を移設してまで残したのでしょうか。

(写真)二川座が面していた通り。奥は商家「駒屋」。

(写真)二川市街地における二川銀映と二川座の跡地。地理院地図

 

3.2 二川銀映(1959年10月-1970年頃)

所在地 : 愛知県豊橋市大岩町東郷内41(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年10月
閉館年 : 1970年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「二川銀映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。「豊橋市二川地区市民館」南西20mに映画館の建物の一部が現存。最寄駅はJR東海道本線二川駅

戦後の映画館名簿には豊橋市大岩町の映画館として二川銀映が掲載されています。日本の映画館客数が減少に転じた年である1959年(昭和34年)10月に開館し、1970年(昭和45年)頃まで営業しています。

(写真)二川銀映が最後に掲載されている『映画便覧 1970年版』。

(写真)二川銀映が描かれている1963年の全商工住宅案内図帳。豊橋市中央図書館所蔵。

 

当初は定員450でしたが、やがて北側を詰めて200に減らし、詰めた部分にはパチンコ店、フードセンター、薬局が入ったとのこと。1970年(昭和45年)の映画館名簿によると、経営者は植村光治郎、支配人は植村肇。木造平屋の建物であり、定員は202人でした。

(写真)『ふたがわ発掘クラブ通信』二川・大岩地区まちづくり協議会、2003年10月、第7号。豊橋市二川地区市民館図書室所蔵。

 

豊橋市二川地区市民館で二川銀映について聞いてみましたが、職員の方も館長も知らないとのこと。そこで東海道沿いにある福井荒吉商店で店主(70代?)に話を聞いてみました。

点滅信号の北にある辻の北東側には『銀映』があった。映画館の建物の一部が残っており、ビニールシートなどで覆われている。跡地のすぐ南側には所有者だった方の自宅がある

(写真)二川銀映跡地に二川フードセンターと王水堂が描かれている1984年のゼンリン住宅地図。愛知県図書館所蔵。

 

その後、二川銀映の跡地付近で写真を撮っていると、たまたま元経営者の方(60~70代)が帰宅されたので話を聞けました。

私の家は、戦後に豊橋市内の東田から二川にやってきて映画館を建てた。収入の半分を映画会社に持っていかれてしまうので儲からない商売だ。三河湾に浮かぶ篠島には母の在所があり、海水浴場側に映画館があった。現在は畑になっている

銀映を閉館させた後、建物の北側をスーパーとしていたが、やがて取り壊した。南側も取り壊して家を建て、中央部だけを倉庫として残してある

(写真)二川銀映の建物の一部。

 

二川銀映の建物の変遷はややこしいので図にしました。もとは建物のほぼ全体がホールであり、1961年(昭和36年)の航空写真に見えている附属建物部分には便所と通路があったと思われます。定員450から定員200に縮小した段階で、ホール前方を区切ってフードセンターなどのテナントに。映画館の閉館後もテナントは営業していましたが、その後テナント部分と建物南側を取り壊して、中央部分だけを倉庫として残しているようです。

(写真)1961年の二川銀映。地図・空中写真閲覧サービス (図)二川銀映の建物の変遷。



豊橋市街地のスカラ座の話、西尾市の西尾劇場の話なども聞けました。昨今のシネコン事情もご存じであり、「昔から営業を続けている映画館はほとんどない。シネコンのコ〇ナグループでさえも、発祥地の江南コ〇ナは閉館してしまった。豊川コ〇ナは客が少ないが大丈夫だろうか」と心配そうでした。

(写真)二川銀映の建物の一部。

(写真)二川銀映の建物の一部。

(写真)二川銀映が面していた通り。

(写真)二川銀映の話を聞いた福井荒吉商店。

 

豊橋市二川地区にあった映画館について調べたことは「豊橋市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com