(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2020年8月。
2022年(令和4年)4月、愛知県瀬戸市を訪れました。
かつて瀬戸市には「瀬戸中央劇場・ロマン中央」など多数の映画館がありましたが、1993年(平成5年)から映画館が存在しない自治体となっています。「瀬戸市の映画館(1)」からの続きです。
1. 瀬戸市の映画館
戦後の瀬戸市には以下の航空写真に記した映画館がありました。
1.1 深川館(1927年-1963年2月12日頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市深川町14(1962年)
開館年 : 1892年(陶元座)、1927年(深川館)、1959年頃(2館化)
閉館年 : 1963年2月12日頃
1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「深川館」。1950年の映画館名簿では「瀬戸深川館」。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「深川館」。1962年の映画館名簿では「深川館・深川ニュー東映」(2館)。1963年の映画館名簿では「深川館・深川ニュース(休館中)・深川名画座」(3館)。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「レインボー深川」建物東側。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
深川館の前身は1892年(明治25年)に開館した芝居小屋の陶元座。陶元座は1902年(明治35年)の焼失後に再建され、1927年(昭和2年)には畳を椅子に取り換えて活動写真常設館化、この際に深川館に改称しています。
(写真)大正中期の陶元座と茶屋町。『瀬戸市いまむかし』郷土出版社、1988年。
近くにある朝日町(せと銀座通り商店街)は当時からあった町ですが、朝日町ではなく深川神社参道を向いている点が興味深い。深川館と宮前地下街の間は茶屋町(茶屋街)という町ですが、写真を見ると華やかな通りだったことがわかります。映画人気がピークを迎えた昭和30年代、深川館は瀬戸市最多の定員650を有する映画館でした。
(写真)1932年頃の深川館と茶屋町。『瀬戸市いまむかし』郷土出版社、1988年。
(写真)1931年の深川館、茶屋町、深川神社参道。『瀬戸と商店街』小澤武夫、1999年。
(写真)1957年の深川館。『全住宅案内図帳 瀬戸市』住宅協会、1957年。愛知県図書館所蔵。
昭和30年代の一時期、深川館には深川ニュース劇場などの小規模館が付随しており、例えば1962年(昭和37年)1月上旬には深川館で黒澤明監督の東宝作品『椿三十郎』と同じく東宝作品『サラリーマン清水港』を、深川名画劇場でアメリカ映画『トロイのヘレン』と『コルドラへの道』を、深川ニュース劇場で1960年(昭和35年)の封切作『若桜千両槍』を上映しています。
(写真)瀬戸名画劇場の開館を伝えるチラシ。道の駅瀬戸しなので2021年1月。
(写真)1960年の深川館周辺。ほぼ中央にある白色のビルは東海銀行瀬戸支店と思われる。『市勢要覧 1960』瀬戸市、1960年。
なお、深川館の経営者である山田稔は尾張旭市唯一の映画館であるMY劇場も経営していました。MY劇場については「尾張旭市の映画館 - 振り返ればロバがいる」で取り上げています。
深川館は1963年(昭和38年)頃に閉館。1960年代後半から1970年代前半にはスーパーのほていや→ユニーの店舗があり、1980年代末までは銀座パークという施設として存続していたようです。
(写真)ほていや瀬戸店となっていた1969年の深川館跡地と茶屋町。『瀬戸市いまむかし』郷土出版社、1988年。
1991年(平成3年)には跡地に10階建てのマンション レインボー深川が建ちました。茶屋町は比較的道幅が広いにも関わらず、このマンションで行き止まりになってしまいます。かつてこの場所に何があったのか知らない人にとっては奇妙な通りかもしれません。
(写真)現在の深川館跡地と茶屋町。2022年4月。
(写真)深川館跡地付近から見た茶屋町と宮前地下街方面。2020年8月。
1.2 瀬戸シネマ(1951年-1968年10月29日頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市追分町45(1969年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1968年10月29日頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「瀬戸シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「瀬戸市役所」北東110mにあるガレージと駐車場。最寄駅は名鉄瀬戸線瀬戸市役所駅。
1960年代の瀬戸市にあった映画館のうち、中心市街地から離れた場所にあった唯一の館が瀬戸シネマです。瀬戸市役所の東にあり、中心市街地から約1.5km離れていました。
(写真)1960年の瀬戸橋南詰にあった瀬戸シネマの看板。正面奥は尾張瀬戸駅。『瀬戸・尾張旭の昭和』樹林舎、2019年。
(写真)1963年の住宅地図における瀬戸シネマ。右上。※ただし1957年の住宅地図や1961年の航空写真と見比べると場所が誤っている可能性が高い。この地図におけるマルヤマ洋品店付近と考えるのが妥当。『瀬戸市付旭町住宅地図』中部善隣出版、1963年。瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)1970年の瀬戸シネマ跡地周辺。『全住宅案内地図帖』公共施設地図航空、1970年。瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)現在の瀬戸シネマ跡地。2022年4月。
1.3 中央館(1921年-1971年11月30日頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市末広町2-4(1970年)
開館年 : 1921年
閉館年 : 1971年11月30日頃
1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「中央館」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「瀬戸中央館」。1970年の全住宅案内地図帳では「瀬戸日活中央館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
1913年(大正2年)に開館した演芸場の大正館は1918年(大正7年)に焼失しますが、1923年(大正12年)に中央館として再建されます。せと末広町商店街のアーケード入口という目立つ場所にあり、1945年(昭和20年)に建物疎開でバカ道路を建設する際にも取り壊しを免れたようです。
(左)『忘れえぬ慕情』と『月形半平太』の広告。『風土』1956年10月20日、2巻10号。(右)『伴淳・森繁の糞尿譚』の広告。『風土』1957年5月20日、3巻3号。いずれも瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)1954年頃の中央館。右はせと末広町商店街のアーチ。 『東尾張今昔写真集』 樹林舎、2007年。瀬戸市立図書館所蔵。
戦後にも映画館として存続し、1971年(昭和46年)頃に閉館しました。跡地にはパチンコ店を核とするビルが建ち、1982年(昭和57年)にはこのビルの2階に瀬戸中央劇場・瀬戸ロマン中央が開館していますが、中央館との経営面の連続性はないと思われます。
(写真)1963年の住宅地図における中央館。『瀬戸市付旭町住宅地図』中部善隣出版、1963年。瀬戸市立図書館所蔵。
1.4 千代田東映(1956年頃-1975年10月15日頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市深川町46-1(1976年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1975年10月15日頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千代田東映」。1966年の映画館名簿では「瀬戸千代田東映劇場」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「瀬戸東映劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は塚本不動産管理月極駐車場「深川町No1」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
映画人気が高まりを見せていた1956年(昭和31年)頃には、瀬戸市5番目の映画館、瀬戸市初の東映専門館として千代田東映が開館します。千代田センターという娯楽ビルに入っていた映画館であり、1階にはパチンコ店、2階には喫茶店やビリヤード場、3階には囲碁クラブや麻雀荘、4階に映画館が入っていたようです。
(写真)1963年の住宅地図における千代田東映。中央上。『瀬戸市付旭町住宅地図』中部善隣出版、1963年。瀬戸市立図書館所蔵。
1975年(昭和50年)頃に千代田東映が閉館すると、1970年代後半の跡地はスーパーのほていや(ユニーの前身)を核としたビルとして存続します。住宅地図を見ると1970年代末から1980年代前半の跡地には瀬戸ハワイ観光があり、1980年代後半から1990年代の跡地には "ミスターダンディ" とありますが、これは紳士服店でしょうか。現在の跡地は月極駐車場です。
(写真)1980年の住宅地図における千代田東映。中央上。『航空住宅地図帳』公共施設地図航空、1980年。瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)現在の千代田東映跡地。2022年4月。
(写真)千代田東映跡地の敷地奥にある窯垣。2022年4月。
1.5 朝日映画劇場(1947年-1976年1月28日)
所在地 : 愛知県瀬戸市深川町48(1976年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1976年1月28日
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「朝日映画劇場」。1963年の映画館名簿では「朝日映劇」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「瀬戸朝日映画劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「せと銀座通り商店街」北側の「ケアハウス聚楽」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
せと銀座通り商店街の北側にあったのが朝日映画劇場です。開館時から瀬戸市唯一の洋画館であり、閉館を報じる記事には "戦後映画史にのこる名画をほとんど上映してきている" とあります。
(左)『エデンの東』の広告。『風土』。(右)『翼よ! あれが巴里の灯だ』の広告。『風土』1957年11月30日、3巻10号。いずれも瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)1957年頃の朝日映画劇場の看板。設置場所不明。臼井薫『昭和30年代の瀬戸』瀬戸市、2000年。愛知県図書館所蔵。
(写真)朝日映画劇場の閉館を報じる記事。『しんあいち』1976年1月27日。瀬戸市立図書館がCD-ROMを所蔵。
(写真)朝日映画劇場の最終上映の作品案内。『しんあいち』1976年1月27日。瀬戸市立図書館がCD-ROMを所蔵。
跡地は瀬戸中央会による高齢者向け施設のケアハウス聚楽となっています。せと銀座商店街から朝日映画劇場に向かう幅2間ほどの路地は、奇妙な空間としてそのまま残っています。
(写真)現在の朝日映画劇場跡地。2022年4月。
(写真)せと銀座通り商店街から朝日映画劇場に向かっていた路地。(右)朝日映画劇場跡地から見たせと銀座通り商店街。いずれも2022年4月。
1.6 瀬戸大劇(1959年頃-1981年頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市薬師町60(1980年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1981年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「瀬戸大映」。1966年の映画館名簿では「瀬戸大映劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「瀬戸大劇」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「シティパレス瀬戸」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
映画人気が頂点にあった1959年(昭和34年)頃には大映の上映館として瀬戸大映が開館。1971年(昭和46年)には大映が経営不振で倒産しますが、この頃にはすでに大映ではなく松竹などの上映館であり、1970年代以降には瀬戸大劇と改称して東映や日活の作品を上映していました。
(写真)1963年の住宅地図における瀬戸大劇。中央上。『瀬戸市付旭町住宅地図』中部善隣出版、1963年。瀬戸市立図書館所蔵。
(写真)1980年の住宅地図における瀬戸大劇。『航空住宅地図帳』公共施設地図航空、1980年。瀬戸市立図書館所蔵。
瀬戸大劇は1981年(昭和56年)に閉館し、1983年(昭和58年)には跡地に11階建ての高層マンションが経ちました。映画館時代から西側には陶磁器メーカーの中外陶園があり、中外陶園は招き猫ミュージアムも運営しています。
(写真)現在の瀬戸大劇跡地。中央奥の茶色のマンション。右は招き猫ミュージアム。2022年4月。
(写真)瀬戸大劇跡地の喫茶店Uターンの廃墟。2021年12月。
1.7 日活有楽座(1981年頃-1988年頃)
所在地 : 愛知県瀬戸市山脇町23(1988年)
開館年 : 1981年頃
閉館年 : 1988年頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「瀬戸有楽座」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行瀬戸支店」北北西80mにあるトランクルーム。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
日活有楽座は瀬戸橋西詰からすぐの場所に1980年代の短期間だけあった映画館です。63席という小規模館であり、経営は加藤利男→加藤年春社長の加藤興業。加藤興業は名古屋市瑞穂区の堀田東映劇場・堀田日活劇場、東区の大曽根タカラ劇場、北区の有楽座・彩紅映画劇場などを経営していた興行会社です。
日活ロマンポルノなどを上映しており、各地の日活ロマンポルノ上映館の名称がロッポニカに切り替わる1988年(昭和63年)頃に閉館したようです。
(写真)1986年の日活有楽座。『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1986年。愛知県図書館所蔵。
(写真)日活有楽座跡地のトランクルーム。2020年8月。
1.8 瀬戸中央劇場・ロマン中央(1982年3月13日-1993年1月30日)
所在地 : 愛知県瀬戸市末広町2-7(1992年)
開館年 : 1982年3月13日
閉館年 : 1993年1月30日
1982年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1985年・1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「瀬戸中央劇場・瀬戸ロマン中央」(2館)。1994年の映画館名簿には掲載されていない。せと末広町商店街の西端に映画館の建物が現存。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。
1982年(昭和57年)にはせと末広町商店街の中央館跡地に瀬戸中央劇場・ロマン中央が開館。まずパチンコ店のビルが建ち、その後2階に映画館が入ったようです。経営は中野喜七郎社長の中央大平観光であり、瀬戸中央劇場が120席の洋画館、ロマン中央が86席の邦画館でした。
(写真)瀬戸中央ビルにまだ映画館がない『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1980年。
(写真)瀬戸日活中央館とある『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央が閉館したはずの『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1995年。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央。『瀬戸なんでも事典』瀬戸青年会議所、1989年。
日活有楽座の閉館後は瀬戸市唯一の映画館となりましたが、1993年(平成5年)には瀬戸中央劇場・ロマン中央も閉館して瀬戸市から映画館が消えました。閉館を報じる新聞記事には瀬戸市の井上博道市長もコメントしていますが、はっきりと他人事に聞こえるコメントなのが当時の映画館の立ち位置を示しているようです。
(写真)「瀬戸から映画館が消える 30日から 2館が事実上の閉館」『中日新聞』1993年1月19日。
アーケード入口脇という好立地でありながら、閉館から約30年が経った現在も建物が残っています。近年のせと末広町商店街は新規出店に沸いており、旅館松千代館などの空き家の活用も進んでいますが、瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟では動きが見られません。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2020年8月。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2020年8月。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央とせと末広町商店街。2020年8月。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2021年12月。
(左・右)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2021年1月。
(左・右)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2021年1月。
(写真)瀬戸中央劇場・ロマン中央の廃墟。2021年1月。
瀬戸市にあった映画館について調べたことは「尾張地方の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。