振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

瀬戸市の映画館(1)

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(写真)1932年頃の深川館。『瀬戸市いまむかし』郷土出版社、1988年。

2022年(令和4年)4月、愛知県瀬戸市を訪れました。

かつて瀬戸市には「瀬戸中央劇場・ロマン中央」など多数の映画館がありましたが、1993年(平成5年)から映画館が存在しない自治体となっています。「瀬戸市の映画館(2)」に続きます。

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1. 映画館調査

1.1 映画館名簿

『日本映画事業総覧 昭和5年版』 国際映画通信社、1930年

1930年(昭和5年)の映画館名簿には、東春日井郡瀬戸町の映画館として末広館、中央館、深川館の3館が掲載されています。瀬戸町が市制施行して瀬戸市になったのは1929年(昭和4年)のことですが、当時の映画館名簿にはしばしば誤りや情報遅れがあります。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。

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『映画年鑑 昭和18年』日本映画協会、1943年

1943年(昭和18年)の映画館名簿にもやはり、瀬戸市の映画館として末広館、中央館、深川館の3館が掲載されています。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。

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『全国映画館総覧 1955年版』時事通信社、1955年

1955年(昭和30年)の映画館名簿は開館年が掲載されている点で貴重です。中央館の「21.1」は1921年1月開館、深川館の「27」は1927年開館を表します。瀬戸市は本格的な空襲を受けていない町であり、戦前に開館した中央館と深川館は同じ建物で戦後も営業していると思われます。戦後にはせと銀座通り商店街に朝日映画劇場が、瀬戸市役所近くに瀬戸シネマが開館しました。

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『映画便覧 1960』時事通信社、1960年

全国の映画館客数がピークを迎えたのは1958年(昭和33年)であり、全国の映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)です。1960年(昭和35年)の瀬戸市には7館の映画館があり、名古屋市(131館)、一宮市(14館)、岡崎市(13館)、豊橋市(10館)、半田市(9館)に次ぐ館数です。深川ニュース劇場は深川館に付随する映画館だったため、実質的には6施設となります。

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『瀬戸地方商工名鑑 1962』瀬戸商工会議所、1962年

瀬戸市の商工名鑑には会社単位で掲載されているのでややわかりづらいですが、映画館名簿の所在地や経営者と並べてみると理解しやすい。ひときわ大きな資本金のパチンコ店として赤玉会館がありますが、現在のせと銀座通り商店街の八百屋 あいさん付近にあったようです。

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『映画館名簿』時事映画通信社、1972年

1960年(昭和35年)の愛知県には321館がありましたが、1965年(昭和40年)には5年前比25%減の244館、1970年(昭和45年)には10年前比40%減の192館となっています。1960年代前半の減少理由は "テレビの普及" が大きかったようですが、その後は "娯楽の多様化" という理由で語られることが多い。

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『映画館名簿』時事映画通信社、1984

1981年(昭和56年)頃には最後の1館となっていた瀬戸大劇が閉館。一方で1981年(昭和56年頃)頃には名古屋市の興行会社によって日活有楽座が開館しています。両者の営業期間が被っていたのかどうかは定かでないですが、映画館の消滅が日活有楽座の開館の引き金となった可能性があります。1982年(昭和57年)には中央館跡地に瀬戸中央劇場・ロマン中央も開館しますが、それぞれ125席~65席という小規模館でした。

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『映画館名簿』時事映画通信社、1994年

瀬戸市の映画館が最後に登場する映画館名簿は1994年版。瀬戸中央劇場・ロマン中央は1993年(平成5年)1月30日に閉館したとされます。1993年(平成5年)は日本の映画館数が底にあった年でもあり、愛知県の映画館数は1960年(昭和35年)と比べて60%減の133館となっています。

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1.2 瀬戸市の地図・絵図

瀬戸市の劇場や映画館が描かれている地図・絵図を集めてみました。

 

『瀬戸町全図』瀬戸町、1915年

神社、寺院、学校などに加えて劇場(「入」)の地図記号があります。陶元座(後の深川館)、栄座、大正館(後の中央館)が描かれています。

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『瀬戸町現勢地図』1916年

瀬戸市史 通史編 下』に収録。陶元座と栄座は描かれていますが、大正館は描かれていません。

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『大日本職業別明細図』1927年

瀬戸川の北側には深川館が描かれています。朝日町(せと銀座通り商店街)はこの頃から栄えていますが、朝日町の中央を南北に分断する池田通りは1939年(昭和14年)開通なのでまだ描かれていません。

目につく施設としては名古屋銀行、明治銀行など。朝日町では糸見屋呉服店(現・呉服のイトミヤ)、魚住薬房(現・ウオズミ銀座薬局)、茶屋町の平田写真館などが2022年(令和4年)現在も現役です。

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瀬戸川の南側には中央館と末広館が描かれています。宮前橋の南には馬鹿みたいに広いバカ通りがありますが、開通は1945年(昭和20年)のことなのでまだ他の道路と同じ幅です。

松千代館(建物が現存)、米屋別館、三好旅館などの旅館が目につきます。2022年(令和4年)現在も現役の商店としてはバカ通り西側の原歯科医院、竹内自転車商会(現・タケウチサイクル)、バカ通り東側の宮田屋呉服店などがあります。

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『瀬戸都市計画街路網一般図』瀬戸市、1945年頃

1945年(昭和20年)の地図では温泉マークに似た地図記号で劇場が表されており、瀬戸シネマ、歌舞伎座、深川館、中央館、末広館、栄座の6施設を見つけることができます。

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瀬戸市鳥観図」1953年

『市勢要覧 1953』瀬戸市、1953年に収録。公共施設は多数描かれているものの、劇場・映画館の類は1館も描かれていません。1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで存続した赤線である陶華園(新開地)が描かれているのは時代を感じます。

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2. 瀬戸市の劇場・映画館

戦前

瀬戸市史 通史編 下』瀬戸市、2010年には戦前の演劇場・映画館に関するコラムが掲載されています。

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(写真)瀬戸市の演劇場に関するコラム。『瀬戸市史 通史編 下』瀬戸市、2010年。

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(写真)滝之湯町にあった演劇場の歌舞伎座。『瀬戸・尾張旭の昭和』樹林舎、2019年。

 

戦後

戦後の映画館については「瀬戸市の映画館(2)」でまとめます。戦後の瀬戸市には以下の航空写真に記した映画館がありました。

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(写真)瀬戸市にあった映画館の跡地。地理院地図

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(写真)瀬戸市にあった映画館の跡地。地理院地図