(写真)福江市街地を流れる免々田川。photo : Kumiko Korezumi - Wikimedia Commons
2022年(令和4年)2月・3月、愛知県田原市福江町(旧・渥美郡渥美町)を訪れました。かつて福江町には映画館「衆楽館」と「福江劇場」がありました。「田原市の映画館」からの続きです。
1. 福江町を訪れる
福江は福江港を有する港町として明治20年代以降に発展したようです。1887年(明治20年)には上村杢左衛門によって丸上汽船が設立され、福江港~名古屋港間に定期汽船が就航。1896(明治29)年には同じく上村によって衣ケ浦汽船が設立され、福江港〜亀崎港間、福江港〜鳥羽港間にも定期線が就航しています。
上村は1912年(明治45年)に福江電灯の設立に参画し、1913年(大正2年)から発電事業を開始。1921年(大正9年)には豊橋〜田原〜福江間の路線バス運行を行う豊橋自動車が設立され、1934年(昭和9年)には上村が社長に就任。後に紹介する日の出自動車商会のライバル会社となっています。
1.1 福江市街地中心部
福江バス停の前には田原市福江市民館という近代建築があります。昭和天皇御大典を記念して1930年(昭和5年)に福江町役場として建てられた建物であり、1955年(昭和30年)に渥美町が発足すると渥美町役場としても使用されました。
田原市福江市民館の竣工と同年には『愛知県福江町勢要覧』(福江町、1930年)が刊行されており、当時の福江市街地の規模が分かる地図も掲載されていました。現在の国道259号が見当たらないのは当然ですが、福江市民館が面している現在のバス通りも開通前のようです。
(地図)昭和初期の福江市街地とその周辺。『愛知県福江町勢要覧』福江町、1930年。愛知県図書館所蔵。
ショッピングセンターレイ
豊橋信用金庫や蒲郡信用金庫の福江支店の東側、国道259号沿いには1971年(昭和46年)8月開店のショッピングセンターレイがあります。平屋建てのメイン棟と飲食店中心のテナント棟があり、両者はアーケードで結ばれています。メイン棟は食料品スーパーが核であり、複数の衣料品店、化粧品店、書店、ゲームセンター、喫茶店が営業を続けていました。
私が訪れてから1か月ほどたった3月12日には、この3月いっぱいでの閉店が東愛知新聞で報じられています。
「田原『ショッピングセンターレイ』が30日で閉店」『東愛知新聞』2022年3月12日
(写真)ショッピングセンターレイ。
(写真)ショッピングセンターレイの店内。(左)東側入口に近い総合衣料オーバヤシ。(右)南西側入口に近いゲームコーナー。
(左)メイン棟とテナント棟をつなぐアーケード。(右)テナント棟の定食屋 みよしや。
(写真)ショッピングセンターレイのフロアマップ。
1.2 下地地区
井筒楼
下地地区には旅館の井筒楼(いづつろう、角上楼別館)と角上楼(かくじょうろう)があります。2021年(令和3年)には井筒楼と角上楼が揃って登録有形文化財となりました。井筒楼は1868年(明治元年)の建築(※ただし複数回の増築あり)、角上楼は1936年(昭和11年)の建築と、両者の建築年代には約半世紀の開きがあります。これらの旅館付近には五楽園という赤線があったそうです。
(写真)井筒楼。
(左)井筒楼の館内。(右)井筒萬の広告。『渥美郡商工案内』渥美郡商工連合会、1932年。田原市中央図書館所蔵。
角上楼
(写真)角上楼。
(写真)角上楼。
(左)角上楼。(右)角上楼の広告。芸妓置屋いろはが付随。『渥美郡商工案内』渥美郡商工連合会、1932年。田原市中央図書館所蔵。
与加楼
和風建築の井筒楼と角上楼に挟まれるようにして与加楼(よかろう)があります。南側にある水色の板張りの建物には「与加楼」という扁額がかかっていますが、北側にあるスクラッチタイル貼りの建物にも、かつては与加楼という看板がかかっていたようです。
(写真)与加楼。
(写真)与加楼。
(写真)与加楼。
与加楼別館
与加楼から路地を挟んですぐ北には与加楼別館があります。
(写真)与加楼別館。
(左)与加楼別館。(右)与加楼と与加楼別館。
『渥美町史 現代編』(渥美町、2005年)には昭和30年代の下地地区の街並みの地図が掲載されています。井筒楼(地図では井筒萬)、角上楼(地図では角上)、与加楼などが描かれているのはもちろんですが、その他にも様々な商店があって福江町の中心地だったことを示しています。
(地図)昭和30年代の下地地区。『渥美町史 現代編』渥美町、2005年。
1980年のゼンリン住宅地図です。井筒楼(地図では井筒萬旅館)、角上楼(地図では角上旅館)、与加楼(地図ではヨカロー旅館)はまだありますが、昭和30年代にはあった東海銀行が移転し、跡地には渥美町商工会が建っています。
(地図)昭和末期の福江市街地中心部。『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1980年。
下地地区の西端には江川という入り江のような小川が流れており、福江橋または観音橋を渡ると原ノ島地区に入ります。観音橋の南東には1958年(昭和33年)に建てられた火の見櫓がありましたが、2018年(平成30年)に撤去されてしまいました。
(写真)江川の河岸東側にあるビル。
(写真)観音橋と福江橋の説明看板。
(写真)福江まちなかWALKの看板。
1.3 原ノ島地区
日の出自動車商会
原ノ島地区では昭和初期のバス会社である日の出自動車商会(日ノ出自動車商会)の建物が目を引きます。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている『渥美郡勢総覧』(産業経済社、1935年)にも現存するものと同じ建物の写真がありました。福江町に本社を、田原町と豊橋市に営業所を設けて、これらの街を結ぶ路線バスを運行していたようです。
(写真)日の出自動車商会。
(写真)岡本顕『渥美郡勢総覧』産業経済社、1935年。国立国会デジタルコレクションでインターネット公開。
(写真)日の出自動車商会付近。
原ノ島地区では渡辺歯科医院も近代建築といえる建物のようです。
(写真)渡辺歯科医院。
原ノ島地区の街並み
(写真)原ノ島地区の街並み。丸型郵便ポスト。
(写真)原ノ島地区の街並み。山本嘉一郎商店付近。
(写真)原ノ島区の街並み。
(写真)原ノ島地区の街並み。渡辺理容店。軒先につるし飾りを飾る「福江つるし飾りロード」の取り組み。
(写真)原ノ島地区の街並み。桑名商店や西田洋品店付近。
(写真)原ノ島地区の街並み。白崎屋家具店付近。
『渥美町史 現代編』(渥美町、2005年)には1964年(昭和39年)頃の原ノ島地区の街並みの地図が掲載されています。原ノ島地区にあった福江劇場の最晩年にあたり、福江劇場があった場所は巨大な空白となっています。
(地図)1964年頃の原ノ島地区。『渥美町史 現代編』渥美町、2005年。
2. 福江町の映画館
かつて福江町には映画館「衆楽館」と「福江劇場」がありました。いずれも戦前に芝居小屋として建てられた建物だったようです。
1936年の映画館名簿
(写真)『全国映画館録 昭和11年度』キネマ旬報社、1935年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。
1955年の映画館名簿
(写真)『全国映画館総覧 1955』時事通信社、1955年。愛知県図書館所蔵。
1964年の映画館名簿
(写真)『映画便覧 1964』時事通信社、1964年。京都府立図書館所蔵。愛知県内公共図書館所蔵なし。
(写真)1963年の福江町にある映画館。地図・空中写真閲覧サービス
2.1 衆楽館(大正時代-1966年頃)
所在地 : 愛知県渥美郡渥美町福江畠下地(1966年)
開館年 : 大正時代
閉館年 : 1966年頃
1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「衆楽館」。1950年の映画館名簿では「福江衆楽館」。1953年・1955年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「衆楽館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「福江衆楽館」。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金広商店」。
戦後の映画館名簿には福江劇場の他に衆楽館も掲載されていますが、『渥美町史 歴史編 下巻』(渥美町、1991年)によると衆楽館は大正時代に開館した芝居小屋のようです。『全国映画館総覧 1955』では東宝作品の上映館ですが、『映画便覧 1964』では東映作品の上映館になっています。定員は500。
(地図)中央下の総合金物 金広が衆楽館跡地。『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1980年。
金広商店の店主(50代?)に衆楽館の話を聞くと、「金広商店の北側半分の場所に映画館があった」とのこと。店内にいるとわかりにくいものの、外に出ると金広商店は2棟からなっているのがよくわかります。「映画館は戦前の建物だったと思う。映画館時代の所有者は近くに住んでいる」とのことでした。
(写真)衆楽館跡地にある金広商店。"プロショップ金広" とある南側の棟と、"機工具・エクステリア・ロックサービス 金広" とある北側の棟からなる。
2.2 福江劇場(1909年-1966年頃)
所在地 : 愛知県渥美郡渥美町福江10(1966年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1966年頃
1930年・1936年の映画館名簿では「福江座」。1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「福江劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「福江劇場」。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福江第一公民館」。
明治時代には芝居小屋の福江座が開館し、戦後には福江劇場に改称しました。『写真集 愛知百年』(中日新聞本社、1986年)には福江座の開館年が1909年(明治42年)となっていますが、『全国映画館名簿 1955』(時事通信社、1955年)による開館年(おそらく竣工年の意味)は1914年(大正3年)1月となっており、この5年の差が何に起因するものなのかはわかりません。
映画館名簿によると福江劇場の経営者は鬼頭貫治であり、東映・松竹・東宝などの作品を上映していたようです。『全国映画館名簿 1955』による定員は856、『映画便覧 1964』による定員は680とあり、衆楽館はもちろん田原町の東英館と比べても規模の大きな劇場だったようです。
やや気になるのが立地。角上楼・井筒楼・与加楼などがある福江町中心部の繁華街から500mも離れています。下地地区と原ノ島地区は当時から市街地が連続していたとはいえ、明治・大正時代には今よりもっと "町はずれ" という感覚だったのでは。
(写真)1965年頃の福江劇場。『愛知百年』中日新聞本社、1986年。愛知県図書館所蔵。
(地図)中央上の東興建設付近が福江劇場跡地。『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1980年。
(写真)福江劇場跡地にある福江第一公民館。
(写真)福江劇場跡地にある福江第一公民館。窓に貼られた福江劇場の写真と説明。
(写真)福江劇場跡地付近。
福江町の映画館について調べたことは「東三河地方の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。