2021年(令和3年)2月、三重県志摩市大王町船越を訪れました。かつて船越には映画館「船越劇場」がありました。「大王町波切の映画館」に続きます。
1. 船越を訪れる
船越は志摩半島先端の先志摩半島(先島半島)にある集落です。志摩市の中心駅である近鉄鵜方駅までは近鉄電車で、鵜方駅から船越までは1日20往復程度運行されている三重交通バスで訪れることができます。
先志摩半島がもっとも狭まった地点に集落が形成されており、英虞湾(あごわん)から太平洋の熊野灘までの距離は約500mしかありません。角川日本地名大辞典によると、地名の由来は「南の海(熊野灘)から北側の海(英虞湾)に船を運んだこと」。
英虞湾側は深谷漁港になっており、熊野灘側は砂浜海岸になっています。熊野灘の海岸は単に「浜」と呼ばれているようであり、熊野灘に近い場所には船越浜という名称のバス停があります。
(地図)愛知県から見た志摩市大王町船越の位置 ©OpenStreetMap contributors
1.1 先志摩半島の地形
先志摩半島には総じて海食台地と呼ばれる地形が見られ、熊野灘沿岸には低地が乏しい。大王町の中心集落である波切(なきり)ではこの地形が顕著であり、標高20-40mある海食崖の上に比較的平坦な土地が広がっています。
一方で船越の集落は低地の上にあり、その標高は1-4m程度。先志摩半島では最も平均標高の低い集落かもしれません。
(左)低地上にある大王町船越の集落。地理院地図(右)台地上にある大王町波切の集落。地理院地図
1960年代と2010年代の先志摩半島の航空写真を見比べると、かつてあった畑地の大半は耕作放棄されて荒地となっているようです。三重交通バスは先志摩半島の尾根に近い場所を走るため、森林とも草むらとも言えず不安感を抱かせる荒地をはっきり確認することができました。
(写真)1960年代と2015年の船越の航空写真の比較。集落北側の台地上に広がっていた水田が荒地(写真上では森林に見える)に変化している。地理院地図
2. 船越を歩く
(写真)志摩市立船越小学校跡地付近から見た集落。左奥は熊野灘。
2.1 漁港と石垣
船越が面する深谷漁港は英虞湾の奥部にあり、英虞湾でも特に波が穏やかな海域だと思われます。英虞湾は日本有数の真珠産地であり、漁港内には船越真珠養殖漁協の建物がありますが、(養殖作業船ではないと思われる)一般的な漁船も多く停泊していました。この日はとても風が強かったのに水面にはほとんど波が立っていませんでした。
(左)深谷漁港。水門の内側。(右)英虞湾。水門の外側。
志摩町和具や志摩町御座には規模の大きな民家が多く、その多くは壁面の下見板が色鮮やかなペンキで塗られています。船越には規模の大きな民家や色鮮やかな民家はほとんどないのですが、特に船越郵便局の東側のエリアには、石垣や瓦板で築かれた塀がいくつかありました。かつて船越は大津波村(おおつばむら)と称していたとのことで、標高の低い集落にあって少しでも浸水を防ぐためでしょうか。
(写真)船越にある石垣。
(写真)船越にある石垣。
2.2 集落の建物
船越集落のほぼ中央にある船越郵便局を境にして、西側は長方形の区画やゆとりのある道路が整備されていますが、東側は曲がりくねった路地が複雑に入り組んでいます。船越バス停近くにはヤマザキショップ系列の商店が1軒ありますが、そのほかは個人商店ばかりです。船越郵便局周辺、船越浜バス停南東の2か所には複数の個人商店が集まっており、昔はこれらのエリアが栄えていたと思われます。
(左)船越浜バス停南東にある商店の集積地点。(右)船越郵便局南西の米源商店。
(左)伊藤商店。廃業? (中)ハシヅメメガネ店。廃業? (右)カラオケ喫茶ボン。廃業?
宿泊施設としては3階建ての大きなOYOぢがみや旅館伊勢志摩がありました。その他には民宿北村屋という看板を掲げた民家もありますが、現在も営業しているのかはわかりません。
(左)OYOぢがみや旅館伊勢志摩。(右)民宿北村屋。
2.3 主要な施設
2013年(平成25年)3月には志摩市立船越中学校が閉校となり、志摩市立波切中学校に統合されて志摩市立大王中学校となっています。2017年(平成29年)3月には志摩市立船越小学校が閉校となり、志摩市立波切小学校に統合されて志摩市立大王小学校となっています。船越中学校の校舎は現存していますが、船越小学校の校舎は取り壊され、小学校の敷地には体育館のみが残っていました。
(左)志摩市立船越中学校跡地。(右)志摩市立船越小学校跡地。左は体育館。右奥は中学校。
(左)船越地区公民館。(右)船越郵便局。
船越には神社(船越神社)と寺院(曹洞宗の祥雲寺)が1軒ずつありますが、集落の規模の割には寺院が少ないように思われます。
(左)船越神社。(右)祥雲寺。
3. 船越の映画館
3.1 船越劇場(1959年頃-1965年頃)
所在地 : 三重県志摩郡大王町船越(1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「船越劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「船越神社」社殿の東130mにある空き地。
1960年の『映画年鑑 1960 別冊 映画便覧』などには、船越の映画館として船越劇場が掲載されています。経営者は中山楠之丞、支配人は三橋宗利。木造平屋建、定員110、邦画を上映していたようです。同時代の他の劇場と比べると定員はかなり少ないのですが、集落の規模に見合っているともいえます。映画館名簿以外の文献では船越劇場に関する言及を見つけることができず、所在地についても単に「大王町船越」としかわからない状態で現地を訪れました。
船越地区公民館で職員の男性(70代?)と女性(60代?)に聞いてみました。「船越にあった映画館の場所を探している」と言うと「映画館はなかった」とのことでしたが、「船越劇場という名称だった」というと、「船越神社から "浜" に向かって200mくらい東に向かうと、右手の空き地に船越劇場があった。映画も上映する劇場であり、ダンスホールとして使われていたこともあった」とのことでした。公民館が所有する住宅地図を見て跡地を確認してくださいました。跡地は草が生い茂る空き地となっていますが、敷地と路地の間には立派な石垣があります。すぐ南側は山であり、日が落ちると寂しい雰囲気を感じてしまうような立地です。
(写真)船越劇場跡地にある空き地。石垣の左側。
公民館では「船越劇場とは別に、船越神社の境内には『船越の舞台』があり、歌舞伎役者などが訪れた。現在は老人憩の家が建っている」という話も聞きました。
(写真)船越神社境内にある老人憩の家。「船越の舞台」跡地。
(写真)1963年の船越の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス
大王町船越にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。