振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

築地口の映画館

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(写真)築地口交差点。南極観測船ふじから移設された「いかりのモニュメント」。

2020年(令和2年)、愛知県名古屋市港区の築地口を訪れました。「稲永の映画館」からの続き。

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1. 築地口を訪れる

名古屋市港区の南東部、4車線道路の江川線と金城ふ頭線が交差する場所が築地口(つきじぐち)であり、名古屋市営地下鉄築地口駅の南東が繁華街となっています。単に「名古屋港」と言う場合は「港湾としての名古屋港」ではなく「築地口の繁華街」を指す場合もあり、(築地口は)"栄よりもにぎわっていた" という方もいるようです。

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(地図)愛知県における名古屋市港区。©OpenStreetMap contributors

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(写真)地下鉄築地口駅がある築地口交差点。

1.1 港まちポットラックビル

江川線から商店街に入ると、青色の庇が目立つ港まちポットラックビルがあります。文具店ビルをリノベして2015年(平成27年)にオープンしたこのビルは、ポットラック新聞を発行する港まちづくり協議会の拠点にもなっています。

2017年(平成29年)9月に発行されたポットラック新聞の第1号では港まちポットラックビルのオーナーが映画館について語るミニコラムが掲載されています。築地口にあった映画館について言及した文献を探すのには苦戦しており、第3号に掲載されている「名古屋港管理組合資料室の本棚」は気になりました。第6号に掲載されている水上生活経験者へのインタビューなども興味深く、史料的価値の高いフリーペーパーです。

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(写真)青色の庇が港まちポットラックビル。

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(左)ポットラック新聞第1号。(右)2020年1月から3月に2階のプロジェクト・スペースで開催された「いろんな人といろんな街のフリーペーパー展」。フリーペーパー専門店のOnly Free Paper Nagoyaが協力。

 

1.2 築地公設市場

築地公設市場があります。1918年(大正7年)の米騒動後には名古屋市によって複数の公設市場が設置されており、築地公設市場は中区の中公設市場(1918年設置、2017年廃止)の翌年の1919年(大正8年)に設置されています。現在の名古屋市に6つある公設市場の中では、東区の徳川公設市場(1925年3月)と千種区の元古井公設市場(1926年11月)を凌いでもっとも古いようです。

築地公設市場が現在の建物となったのは1963年(昭和38年)12月)であり、上層階にある名古屋市営真砂荘の外観は味があります。2019年(令和元年)6月には築地公設市場内の食料品店が閉店しており、2020年(令和2年)9月まで築地公設市場は休業中とのことでした。

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(写真)築地公設市場と名古屋市営真砂荘。

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(地図)築地口駅南東の商店街。

 

2. 港陽園跡

2.1 港陽園の歴史

金城ふ頭線の北東側には、かつて赤線の港陽園がありました。戦前にあった稲永遊郭が移転してできた赤線であり時代としては新しい。

(左)1949年の港陽園の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス(右)2007年の港陽園跡の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス

 

2.2 港陽園跡の建物

周辺には高層マンションが数多く建設されており、妓楼の名残が残る建物はかもめ荘だけだそうです。現在はアパートとして使われているこの建物、赤系の複数の色が使用されたモザイクタイルの壁面がきれいでした。

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(写真)港陽園跡地にあるかもめ荘。

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(写真)港陽園跡地にあるかもめ荘。

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(写真)港陽園跡地にあるかもめ荘。

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(地図)1970年の住宅地図における港陽園跡地。『名古屋市全商工住宅案内図帳』住宅地図協会、1970年。

 

3. 築地口の映画館

3.1 港会館(1947年-1970年代初頭)

所在地 : 愛知県名古屋市港区宝来町4-1(1969年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「港会館」。1960年の住宅地図では「ミナト映画会館」。1960年の映画館名簿では「港東映」。1963年・1965年の住宅地図では「ミナト映画館」。1963年の映画館名簿では「港東映会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「名古屋港会館」。1971年の住宅地図では「映画館港会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1977年・1982年の住宅地図では跡地に「パチンコ港会館」。1987年の住宅地図では跡地に「パチンコいばはし駐車場」。現在の跡地はパチンコ店「以波橋」がある「橋元ビル」。最寄駅は名古屋市営地下鉄名港線築地口駅。

ボートピア名古屋の西側の通りを少し南に下り、パチンコ店 以波橋がある橋元ビルの場所には、1970年代初頭まで港会館という映画館がありました。橋本ビルは1970年代初頭の映画館閉館後に建設された建物だと思われます。

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(写真)港会館跡地にあるパチンコ以波橋。

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(左)南から見た港会館跡地前の通り。右にパチンコ以波橋。(右)北から見た港会館跡地前の通り。左奥にパチンコ以波橋。左は築地公設市場。

 

3.2 名港文化劇場(1958年頃-1982年頃)

所在地 : 愛知県名古屋市港区名港1-13-18 サンポートビル5階
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1982年頃(映画館)、1993年3月30日(ストリップ劇場)
1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「名港日活」。1963年の映画館名簿では「名港文化」。1965年の住宅地図では「名港文化」。1966年・1969年・1976年・1980年の映画館名簿では「名港文化劇場」。1971年・1977年の住宅地図には掲載されていない。1982年の住宅地図では「名港文化」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は場外舟券発売場「ポートピア名古屋」建物南西部。最寄駅は名古屋市営地下鉄名港線築地口駅。

ボートピア名古屋の建物の一角には、かつて京屋デパートが入るサンポートビルがあり、サンポートビルの5階には名港文化劇場と築地劇場がありました。名港文化劇場は1982年(昭和57年)頃にストリップ劇場に転業し、1993年(平成5年)にはストリップ劇場としての営業を終えています。

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(写真)名港文化劇場と築地劇場跡地にあるボートピア名古屋。

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(写真)築地口商店街の北側入口。左はボートピア名古屋。

 

3.3 築地劇場(1930年-1980年代末)

所在地 : 愛知県名古屋市港区名港1-13-18(1985年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1981年(築地劇場)、1989年頃(ポートシネマ)
1936年の映画館名簿では「築地劇場」。1946年の映画館名簿では「築地松竹」。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「築地劇場」。1960年・1965年・1971年・1977年・1982年の住宅地図では「築地劇場」。1966年の映画館名簿では「名古屋築地劇場」。1969年の映画館名簿では「築地劇場」。1973年の映画館名簿では「名古屋築地劇場」。1976年・1980年の映画館名簿では「築地劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1986年・1988年の映画館名簿では「ポートシネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は場外舟券発売場「ポートピア名古屋」建物南西部。最寄駅は名古屋市営地下鉄名港線築地口駅。

『映画館名簿』によると築地劇場の開館年は1930年(昭和5年)であり、名古屋港で初めて開館した劇場だと思われます。1940年代後半の航空写真には築地劇場と思われるビルが写っており、戦前から鉄筋コンクリート造だったのかもしれません。1960年の『映画館名簿』では稲永劇場と経営者が異なるものの、1969年の映画館名簿では築地劇場の経営者である加藤主計が稲永劇場の経営者も兼任しています。

『映画館名簿』に築地劇場という名称が登場するのは1981年版が最後。1983年版からは同一地点にポートシネマという名称で掲載されており、経営会社は中川区の八熊文化劇場も経営していた有限会社ポートシネマとなります。1984年や1987年や1989年の住宅地図では、サンポートビルの5階に映画館のポートシネマとストリップ劇場の名港ニュー別世界ミュージックが描かれますが、1992年の住宅地図ではポートシネマが姿を消し、ミュージックホール名港文化のみになっています。

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(写真)1930年の築地劇場。『写真アルバム 名古屋の昭和』樹林舎、2015年。パブリック・ドメイン(PD)。

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(地図)1970年の住宅地図における築地劇場(中央上)と港会館(中央下)。『名古屋市全商工住宅案内図帳』住宅地図協会、1970年。

 

築地口の映画館について調べたことは「名古屋市西部の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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