(写真)幸田町郷土資料館。
2019年10月13日(日)、愛知県額田郡幸田町で開催された「ウィキペディアタウン in 幸田」に参加しました。西三河地方では2017年9月に高浜市で「ざっくばらんなカフェvol.52 ウィキペディアタウン in 高浜市」が開催されていますが、まちあるきを行う標準的なウィキペディアタウンとしては幸田町が西三河地方初開催です。前日の10月12日(土)には台風19号が上陸しており、無事に開催できるかどうか心配でしたが、イベント当日は見事な青空が広がりました。
会場は幸田町郷土資料館であり、主催は幸田町立図書館。幸田町の歴史などに関する講師は幸田町教育委員会の学芸員である神取龍生(かんどりりゅうせい)さん、Wikipediaなどに関する講師はAsturio Cantabrio(かんた=私)です。
1. 幸田町を訪れる
幸田町は岡崎市の南側にある人口約4万人の自治体。岡崎平野(西三河平野)の南東端にあり、南側は東三河の蒲郡市と接しています。平成の大合併時には単独での町制を維持しましたが、岡崎市・蒲郡市・幸田町・額田町の4自治体での合併も構想されました。デンソー幸田製作所など多数の工場を有しているため、1989年から30年連続で地方交付税不交付団体となっており、 2017年-2018年の人口増加率1.87%は愛知県トップです。
(地図)愛知県における幸田町の位置。©OpenStreetMap contributors
JR東海道線三ヶ根駅で降りて幸田町郷土資料館に向かう途中には、幸田町の特産品である筆柿 - Wikipediaの樹がある畑もありました。幸田町では主に上六栗(かみむつぐり)地区で筆柿が栽培されているようで、帰りに上六栗地区を通った際には国道23号の両側に柿畑が広がっていました。幸田町は日本一の筆柿産地だそうで、国道23号には「筆柿の里・幸田」という名前の道の駅もあります。
2. 幸田町郷土資料館
幸田町郷土資料館は深溝(ふこうず)地区にあります。館内は民具の展示が主ですが、今回の編集対象である深溝城跡の模型が目を引きます。模型の写真をWikipediaの文章に添えると効果的ではありますが、模型作成者の著作権が切れていないと思われるため、今回のイベントでは記事中に使用していません。模型の背後にある絵図はパブリックドメインだと思われます。
(写真)幸田町郷土資料館の展示。(左)民具。(右)深溝城の模型。
幸田町郷土資料館は民具の展示を中心とする地味な資料館ではありますが、敷地内の屋外には個性的な展示物が多数ありました。陸上自衛隊のヘリコプター「ひばり」、航空自衛隊のジェット戦闘機「旭光」、菱池干拓地の排水に使用していた排水ポンプなど。
(写真)幸田町郷土資料館の敷地内マップ。
(写真)陸上自衛隊のヘリコプター「ひばり」。
(写真)航空自衛隊のジェット戦闘機「旭光」。
3. まちあるきする
3.1 スケジュール・編集記事
今回のスケジュールは以下の通り。午前中にはWikipediaの説明と深溝松平氏の説明を聞き、まちあるきをしてから昼食。午後にウィキペディア編集という流れです。実際にはこのスケジュールよりもまちあるきが長くなったため、ウィキペディア編集の時間を短くしています。
スケジュール
10:00-10:10 オリエンテーション
10:10-10:40 Wikipediaの説明(かんた)
10:40-11:00 深溝松平氏の説明(神取龍生さん)
11:00-12:30 深溝地区まちあるき(神取龍生さん)
12:30-13:20 昼食
13:20-15:20 ウィキペディア編集(かんた)
15:20-16:00 成果発表・講評(かんた・神取龍生さん)
今回の編集対象は「本光寺」と「深溝城」の2記事の加筆。いずれも幸田町郷土資料館から300m程度の距離にあり、近世初頭までこの地域の支配者だった深溝松平氏が関係しています。
編集対象記事
(写真)まちあるきコース。国土地理院 地理院地図に加筆。
3.2 瑞雲山本光寺
今回は幸田町で初開催となるウィキペディアタウンであり、また大人数を収容できない会場の都合もあって、定員は8人に設定されていました。実際には定員よりも多い約10人が参加しましたが、交通量が少ない地域だったこともあって全員でのまちあるきに支障はありませんでした。本光寺の境内入口と深溝城跡の石碑前では神取さんの解説を聞き、さらに本光寺の境内や深溝城跡周辺の各所でも解説がありました。
瑞雲山本光寺はアジサイの名所として知られる寺です。この地域を支配した深溝松平家の菩提寺でもあり、境内にある深溝松平家墓所は国指定史跡となっています。深溝松平氏は近世初期に各地に転封され、寛文9年(1669年)には島原藩主となりますが、遠く九州に転封された後も歴代藩主の遺体が三河まで運ばれて本光寺に埋葬されたことが珍しいようです。
(左)本光寺について解説する学芸員の神取龍生さん。(右)本光寺の参道。両脇にはアジサイ。
(左)本光寺について解説する学芸員の神取龍生さん。(右)本光寺の本堂。
本光寺の境内には東廟所と西廟所があり、特に東廟所にある歴代当主の廟が目を引きます。東廟所は島原に転封された後、第6代から第19代までの歴代当主の廟であるため、屋根や扉まで石造という立派な廟ばかりでした。吉田神道の思想に基づいた神仏習合の「神殿型墓石」だそうです。2008年8月の豪雨では一部の墓が崩れ、小判などの副葬品が発見されています。
東廟所よりも古い当主が埋葬されているのが西廟所です。初代から第4代までの墓はシンプルな墓石であり、東廟所の「神殿型墓石」との差異が際立ちます。第5代の墓である「肖影堂」という堂、第6代が造らせた「願掛け亀」など、統一感のある東廟所と比べると自由さが目立ちます。
(写真)「願掛け亀」を見学する参加者。
(写真)6代松平忠房が造らせた「願掛け亀」。
(写真)5代松平忠利の廟「肖影堂」。
3.3 深溝城跡
深溝地区は三河高原と三ヶ根山に挟まれた場所にありますが、色別標高図を見るとこの場所の重要性が一目でわかります。深溝地区の中でも深溝城は小高い丘の上にあり、宅地化が進んだ現在はその立地がわかりにくくなっているものの、戦後の航空写真を見るとやはりその場所の重要性が一目でわかります。現在は大部分が工場用地になっているものの、その脇に立派な石碑が建てられていました。
(地図)深溝城と周辺の地形。国土地理院 地理院地図に加筆。
(写真)戦後の深溝地区の航空写真。中央の凸部分が深溝城跡。
(写真)深溝城跡の石碑。
(写真)深溝城跡の石碑と深溝城跡に建つ三協幸田工場。
(写真)神取さんの解説を聞く参加者。
(左)かつては堀の役割を果たした小河川。(中)周囲より高い深溝城跡にある白光社リネン工場。(右)深溝城と長満寺の位置関係についての説明看板。
今回の編集対象ではありませんが、この地区では目立つ長満寺も訪れました。日蓮宗の寺院としては三河最古の歴史を有するそうで、幸田町には日蓮宗の寺院が多数あります。深溝城の北東、鬼門の方角には深溝神社があります。
(写真)長満寺。
(写真)深溝神社。
4. Wikipediaを編集する
今回は会場が図書館ではないため、主催者は幸田町立図書館から文献を運んでくださいました。ノートパソコンも図書館が準備したものであり、ネット環境はレンタルWi-Fiを使用しています。参加者の居住地は幸田町から県外までさまざまであり、世代は大学生から年配者までバランスが良かった。
一般参加者の中に深溝地区在住者はいなかったものの、運営側に深溝地区在住者や深溝地区出身者がおり、話を聞きながら編集を進めることができました。編集対象の「本光寺」と「深溝城」はいずれも深溝松平家に深く関連した題材であり、神取さんに聞いた話や文献で得た情報を活かしやすい題材でした。
これまで幸田町は中部しか訪れたことがなく、深溝地区が歴史的な重要性の高い地区であることを初めて知りました。ぜひ幸田町では第2回、第3回とウィキペディアタウンを続けてほしいな。個人的には近代以前の幸田町にあった菱池をウィキペディアに新規作成しようと思っています。
(写真)幸田町立図書館が準備した文献。
(写真)Wikipedia編集中の参加者。