振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

山科区の映画館

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(写真)琵琶湖疎水を航行するびわ湖疎水船

 

 2019年4月7日(日)の「お花見!オープンデータソン in 京都 - connpass」では京都市山科区北部の毘沙門堂 - Wikipedia諸羽神社 - Wikipediaを訪れました。かつて山科区域には山科映画劇場(山科映劇、山科館とも)という映画館があったようです。山科映画劇場について調べたことは「京都府の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しています。

 

山科区の映画館

山科映画劇場(1927年-1975年頃)

町村制施行時の1889年(明治22年)に成立した宇治郡山科村は、1926年(大正15年)に町制を施行して宇治郡山科町となりました。1931年(昭和6年)には京都市編入されて東山区の一部となり、1976年(昭和51年)に京都市山科区となっています。

山科映画劇場は1927年(昭和2年)に開館し、1933年(昭和8年)に三条通が開通すると現在地に移転。山科最大の工場である鐘紡山科工場の女工も多く訪れたそうです。山科映画劇場は「外環三条」交差点の西40mの地点にありました。三条通京都外環状線が交差する「外環三条」交差点は、山科でもっとも交通量の多い交差点です。

1956年(昭和31年)には国鉄東海道本線の全線電化が完了。この際に山科映画劇場前で義士行列が撮った記念写真が残されています。日本の映画館客数のピークは昭和30年代前半であり、記念写真の撮影地になるほど町の中心にあったわけですね。この義士行列は後に山科義士まつりに発展したそうです。

山科映画劇場は1975年(昭和50年)頃に閉館。映画館の看板を外したのが1975年ということらしいのですが、営業を終了したのがいつなのかは記録にも残っていないようです。山科区の発足は翌年のことなので、山科映画劇場は閉館まで東山区にあったことになります。山科区発足後に映画館が存在したことはないみたい。なお、1960年(昭和35年)時点の京都府には110館の映画館がありましたが、1980年(昭和55年)時点の京都府には33館にまで減っていました。1975年頃まで営業した山科映画劇場はかなり粘ったほうだといえます。

跡地には2012年(平成24年)竣工の賃貸マンション「EASTGATE京都」が建っています。1975年から2012年までは何があったのかな。

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(写真)1956年に山科映画劇場前で撮影された義士行列の記念写真。1956年以前に発行された写真の著作物であるためパブリック・ドメイン(PD)。

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(地図)山科区中心部における山科映画劇場の位置。地理院地図。

 

京都府の住宅地図

京都府立図書館には古い住宅地図がありません。京都市域はもっとも古い住宅地図が1974年から1979年。京都市に近い山城地域は1979年から1983年がもっとも古く、京都市から遠い丹後地域は1983年から1985年がもっとも古い。山科地域が掲載されている最古の地図は1977年の『京都市精密住宅地図 東山区』のようですが、山科映画劇場はすでに閉館しており掲載されていないでしょう。

下に示したのは1969年の『山科東部住宅案内図』。中央には「山科映劇」が記されています。山科の歴史を知る会が2016年に出した『山科・地図集成 地図で見る山科の歴史』に掲載されていたものですが、京都府立図書館も京都市図書館も『山科東部住宅案内図』は所蔵していないようです。

愛知県図書館は1960年代から1970年代前半の各自治体の住宅地図を揃えているし、紙に印刷された住宅地図一覧も置いてあります。この時期に閉館した京都府内の映画館の所在地を住宅地図から調べられないのには困惑しました。

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(地図)中央に「山科映劇」。1969年の『山科東部住宅案内図』。

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(写真)1960年代の航空写真。地理院地図 空中写真・衛星画像