振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

洞戸の映画館

(写真)洞戸市場の街並み。

2022年(令和4年)6月、岐阜県関市洞戸地区(ほらど、旧・武儀郡洞戸村)を訪れました。かつて洞戸地区には劇場「千歳座」がありました。

 

1. 洞戸を訪れる

1.1 洞戸市場の街並み

2005年(平成17年)、武儀郡洞戸村を含む2町3村が関市に編入されました。関市は「V」字型の自治体域を持つ市となりましたが、「V」字の左側中央部に位置するのが洞戸地区です。

岐阜市街地からは国道256号を約20km北上した場所にあり、高富(山県市)、美山(山県市)を経由する岐阜バスの路線「岐阜板取線」が8.5往復/日(平日)、9往復/日(休日)運行されています。関市街地と洞戸地区を結ぶ「関板取線」は7往復/日(平日)、4往復/日(休日)の運行であり、関市街地より岐阜市街地との結び付きのほうが強いのかもしれません。

洞戸村や旧板取村を流れる板取川は、関市ではなく美濃市長良川の本流に合流しています。現在の関市域に美濃市を含めた2市2町3村で中濃地域市町村合併検討協議会が構成されていたようですが、美濃市は合併には加わらずに単独市制の維持を選択したようです。

(写真)関市における洞戸地区の位置。©OpenStreetMap contributors

 

洞戸地区の中心部である関市洞戸市場には、街道に沿って街並みが形成されています。

(写真)洞戸市場の街並み。

(写真)洞戸市場の街並み。

(写真)洞戸市場の街並み。

(写真)洞戸市場の街並み。

(写真)洞戸市場の街並み。

(左・右)洞戸市場の街並み。

 

1.2 関市立図書館洞戸分室

関市立図書館を構成する施設は、旧関市の本館、旧武芸川町と旧武儀町の分館2館、旧洞戸村と旧板取村と旧上之保村の分室3室の計6施設です。

関市立図書館洞戸分室は支所機能を持つ洞戸ふれあいセンター内にあります。床面積は69m2、蔵書冊数は4,967点(2020年度末)、貸出冊数は2,039冊(2020年度)、来館者数は800人(2020年度)。2015年度国勢調査における洞戸地区の人口は1,930人であり、貸出密度は0.9冊/人です。

関市に合併した5地区の貸出密度を比較すると、武儀地区は3.1冊/人、武芸川地区は2.9冊/人、上之保地区は1.7冊/人、板取地区は0.7冊/人。5地区とも合併前に図書館/図書室を整備していたわけですが、施設の状況によって貸出密度に大きな差が出ています。

(写真)洞戸ふれあいセンター。

(写真)関市立図書館洞戸分室。

(写真)関市立図書館洞戸分室。(左)カウンター。(右)新着図書。

(写真)関市立図書館洞戸分室。(左)一般書。(右)文芸書。

(写真)関市立図書館洞戸分室。絵本がある畳コーナー。

(写真)関市立図書館洞戸分室。郷土資料。

 

2. 洞戸の映画館

2.1 千歳座(1928年-1972年10月)

所在地 : 岐阜県武儀郡洞戸村
開館年 : 1928年
閉館年 : 1972年10月
映画館名簿には掲載されていない。映画も上映する劇場。跡地は「国道256号関市洞戸事務所前交差点」北100mにある空き地。

各年版の『映画館名簿』に洞戸村は登場しませんが、洞戸村にあった劇場「千歳座」では映画も上映されていたようです。千歳座は1927年(昭和2年)2月に設立、1928年(昭和3年)に開館した芝居小屋であり、洞戸村の歴史上唯一の芝居小屋だそうです。桝席、桟敷席、2階席、花道などを有していましたが、廻り舞台はありませんでした。

戦前には歌舞伎、新派劇、剣劇、活動写真、浪曲、漫才、奇術などの興行が行われています。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には名古屋の小塩製作所が千歳座に工場疎開しましたが、戦後には機械が取り払われて芝居小屋に戻りました。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後には映画上映専門の芝居小屋となりましたが、営業日は毎日ではなく毎月1日と15日だったようです。

(左・右)千歳座の開館と閉館に言及している『洞戸村史 下巻』洞戸村、1997年。岐阜県図書館所蔵。

(写真)千歳座の興行日誌。『洞戸村史 上巻』洞戸村、1988年。岐阜県図書館所蔵。

 

千歳座は1972年(昭和47年)10月に閉館し、1974年(昭和49年)には建物が神山百貨店に売却されてホームセンターに転用されました。洞戸村最大の店舗として広範囲から集客しますが、2002年(平成14年)5月にはホームセンターも閉鎖されています。

2002年(平成14年)11月4日には嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』など5本を上映する映画上映会が開催されました。洞戸村教育委員会が閉店したホームセンターの建物を改装して交流拠点として整備したとのことですが、これ以後の利用方法は不明。建物はその後取り壊され、2022年(令和4年)現在は更地となっていますが、わずか20年前まで芝居小屋の建物が残っていたことが驚きです。

(写真)「洞戸村に懐かしの芝居小屋 『千歳座』復活 文化交流拠点へ再整備」『岐阜新聞』2002年10月25日。

(写真)上映会の際の旧千歳座内部。『岐阜新聞』2002年10月25日。

 

(写真)1975年の航空写真における神山ホームセンター。千歳座跡地。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)千歳座跡地の空き地。

(左・右)千歳座跡地の空き地。

 

洞戸にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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「ウィキペディアタウン in 周枳」に参加する

(写真)周枳の街並み。

2022年(令和4年)5月21日、京都府京丹後市大宮町で開催された「ウィキペディアタウン in 周枳」に参加しました。周枳 - Wikipedia(すき)集落が題材となりました。

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1. イベント概要

スケジュール

10:00-12:00 まちあるき(大宮町周枳)
12:00-13:00 昼食
13:00-16:45 文献調査・ウィキペディア編集(つねよし百貨店)

 

イベントの主催はedit Tango。午前のまちあるきでは周枳在住の小幡利夫さんがガイドをしてくださいました。午後の編集会場は大宮町上常吉にあるつねよし百貨店 - Wikipediaです。

 

2. まちあるき

周枳公民館に集合してから周枳区内をめぐりました。周枳公民館の敷地は1972年(昭和47年)3月に閉校した大宮町立周枳小学校の跡地。1894年(明治27年)竣工の講堂兼体育館と南校舎の2棟が現存しています。2棟の間には立派な幹を持つサクラが植わっており、120年以上前の竣工時に植えられたものかと思いましたが、1936年(昭和11年)の写真を見るとサクラらしき木が見当たりません。

(写真)周枳公民館の敷地にある旧周枳小学校。南校舎とサクラ。

(写真)1936年の周枳尋常小学校。奥は講堂兼体育館。左端は南校舎。左の門柱の奥にサクラがあるはずだが..。

 

周枳の近代建築としては1953年(昭和28年)9月11日に建立・献堂されたカトリック丹後大宮礼拝堂もあります。周枳周辺の集落を見渡すと、口大野に1929年(昭和4年)竣工の登録有形文化財である旧口大野村役場庁舎が、奥大野に1940年(昭和15年)竣工の旧倉垣小学校が、河辺に昭和初期竣工の旧河辺郵便局が、善王寺に1956年(昭和31年)移築の旧長善村役場(善王寺公民館)がありますが、いずれもそれほど知られていないみたい。

(写真)周枳公民館の敷地にある枳(カラタチ)の木。

 

『日本歴史地名大系』には周枳井溝という項目があり、旧周枳小学校やカトリック丹後大宮礼拝堂などの近代建築とともに気になっていました。周枳井溝は寛文12年(1672年)に完成した用水路であり、水路の一部は現存しています。

(写真)周枳井溝。

(写真)周枳の街並み。

 

周枳は江戸時代から丹後ちりめんの機業で栄えた集落であり、点在するちりめん工場からは機音が聞こえてきます。黄土色の土壁、下見板張り、上部に風を通す隙間のある蔵が目立ちますが、これらもちりめん工場に関係するのかな。

(左・右)周枳の蔵。

(左・右)周枳の民家。

(写真)周枳の街並み。左奥は大和織物。

 

白杉酒造 - Wikipediaは周枳の集落内にあります。2007年(平成19年)に現在の当主が社長兼杜氏になってからは様々な取り組みでメディアに登場することも多い。酒造好適米酒米)を使わずに食用米のみで酒造りを行っており、代表銘柄の「白木久」は与謝野町コシヒカリを用いた日本酒です。

(写真)白杉酒造。

 

印象的な建物として大和織物の織物工場があり、現役の丹後ちりめん工場として機音を響かせていました。大和織物の正面には田寅織物の事務所があり、その脇は広大な空き地になっていますが、少なくとも2019年(令和元年)まではこの場所に田寅織物の工場があったようです。

(写真)大和織物。

(左)田寅織物事務所。右端は更地となった工場跡地。(右)2019年の田寅織物工場と大和織物。Googleストリートビュー

 

大和織物と田寅織物の間を通る道路は古い道路ではなく、周枳の北側と南側の間にある山を切り崩して築かれた道路だそうです。『周枳郷土誌』によるとこの道路は周枳村道は向地外尾線といい、1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)に建設された道路だそう。工事の最中の写真には作業用トロッコも写っており、高さ10m以上の山を切り崩す大掛かりな工事だったことがわかります。

(写真)昭和初期に築かれた向地外尾線。左が大和織物、右が田寅織物事務所。

(写真)1932年~1933年の周枳村道向地外尾線新設工事。『周枳郷土誌』周枳区、2002年。

 

1960年代の航空写真を見ると、向地と外尾の間は現在より建物が少なく、周枳の集落は北側(大宮売神社周辺)と南側(石明神遺蹟周辺)に分かれています。新開地だからこそ大和織物や田寅織物などの大規模な織物工場が建てられたのでしょう。

(写真)1960年代の周枳の航空写真。地理院地図

 

向地にはチコマート周枳店や松初商店などの商店がありました。

(写真)向地。京都府道657号明田京丹後大宮停車場線。

(写真)向地。京都府道657号明田京丹後大宮停車場線。

 

(写真)周枳の集落内をを歩く参加者。

(写真)大和織物の前で小幡さんの話を聞く参加者。

 

(写真)リエゾン区間を走るラリーカー。RALLY 丹後 2022が開催されていた。

 

3. Wikipedia編集

各自で大宮町上常吉にあるつねよし百貨店に移動。京都府立図書館、京丹後市立図書館、京都府立丹後緑風高等学校図書館から準備された文献を用いてWikipedia記事の編集を行いました。何度もイベントに参加している参加者が多かったことから、全体に向けた編集方法の説明などは行わず、初心者の方には編集中に適宜説明をするという形でした。

(写真)準備された文献。

 

編集記事

周枳 - Wikipedia - 新規

周枳井溝 - Wikipedia - 新規(2022年5月25日メインページ掲載)

白杉酒造 - Wikipedia - 加筆

大宮売神社 - Wikipedia - 加筆

(写真)編集中の参加者。

 

最近の図書館界におけるトピックとして、国立国会図書館デジタルコレクションの一部資料の個人送信が開始されたことが挙げられます。これまでは図書館送信資料だったものが個人送信資料となり、図書館送信サービス参加館に行かなくても自宅から閲覧できるというものです。

試しに国立国会図書館デジタルコレクションで "周枳" と検索してみると、インターネット公開資料は21件ですが、図書館・個人送信資料は78件となりました。増えた分は工場名鑑・学校名鑑・寺院名鑑などが多く、直接的に文章の出典として使えるかどうかはともかく、今後はウィキペディア編集で活躍しそうです。

(写真)周枳の検索結果。国立国会図書館デジタルコレクション。

 

インターネット公開されている『全国工場通覧 昭和10年9月版』によると、田寅織物の創業は1897年(明治30年)であり、現在地に工場を構える約35年前にはもう創業していたようです。名称は代表者の田中寅吉に由来しているようですが、姓と名から一文字ずつ採った工場名は他にも数多く見られます。

(写真)田寅織物。商工省『全国工場通覧 昭和10年9月版日刊工業新聞社、1935年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。

 

「京都!街歩き!マッピングパーティ 第30回 相国寺」に参加する

(写真)相国寺の法堂。

2022年(令和4年)5月22日、「京都!街歩き!マッピングパーティ 第30回 相国寺」に参加しました。京都市上京区にある相国寺(しょうこくじ、臨済宗相国寺派大本山)の境内をOpenStreetMapに描いていきました。

 

 

まず気になるのは境内にある幅の広い歩道。highway=service(私道)というタグを使ったうえで、場合によってはbicycle=yesなどというタグを追加するようです。

生垣はbarrier=hedge。natural=tree_row(並木)というタグよりかなりレンダリングが細くて薄いので、積極的に使っていきたい。

 

次に気になったのは、建物跡の松林。航空写真では木々で覆われた森のように見えますが、実際には空き地に十数本の松が植わっている程度の空間です。この空間をlanduse=forestで表すのが妥当なのかどうか気になります。

航空写真には写らないものの、この建物跡の空間には石垣があります。石垣はbarrier=retaining_wallで表すようです。

 

境内には何本もの涸れ水路がありました。人工河川はwaterway=ditchで表すらしい。これまでは農地などにある水路もwaterway=streamで描いていましたが、ditchに切り替えます。

 

塀はbarrier=wall。シンプルなタグだしレンダリングも地味ですが役に立つタグだと思いました。

 

砂を基調とする枯山水の庭と、樹木や水の流れを基調とする庭が隣り合わせになっている場所もありました。どちらもleisure=garden(庭園)というタグで表してしまうとしっくりこないのですがやむを得ないのかな。

 

今回のイベントで気になったタグ。

(地図)相国寺の境内南側。©OpenStreetMap contributors

墨田区の映画館(楽天地)

(写真)TOHOシネマズ錦糸町楽天地が入る江東楽天地。

2022年(令和4年)5月、東京都墨田区の江東楽天地を訪れました。「墨田区の映画館(本所)」「墨田区の映画館(向島)」からの続きです。

ayc.hatenablog.com

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0. 江東楽天

江東は漠然と東東京の範囲を指す用語です。ジャーナリストの大宅壮一と「(1937年に永井)荷風の『濹東綺譚』が出て、"江東" というより "濹東" という人が多くなった」「気取っていうと濹東、気サクにいうと江東」語っています。

(地図)江東楽天地の映画館。Googleマイマップ

 

1937年(昭和12年)、錦糸町駅南口に総合アミューズメントゾーンとして江東楽天地がオープンします。株式会社江東楽天地(現・株式会社東京楽天地)を設立したのは阪急東宝グループの小林一三。江東楽天地のオープン当時、冷暖房設備のある映画館は有楽町と江東楽天地にしか存在せず、「西の有楽町、東の錦糸町」と謳われたそうですが、それまでビジネス街だった有楽町を日本屈指の映画館街にしたのも小林一三です。

1945年(昭和20年)の東京大空襲では本所映画館以外の施設が焼失しますが、戦後復興では戦前以上の娯楽施設群に作り替えられ、江東楽天地は東東京随一の映画館街となりました。1953年(昭和28年)6月には江東劇場に日本初のワイドスクリーンが、1954年(昭和29年)5月には本所映画館にさらに大きなシネマスコープ設備が設置され、設備面でも日本屈指の映画館街だったようです。

1986年(昭和61年)には既存の施設を集約した楽天地ビルが建設され、江東楽天地という名称は過去のものとなっているようですが、現在も楽天地ビル周辺について楽天地という言い方がなされるようです。1990年(平成2年)には楽天地ビル内のキネカ錦糸町が日本初のソ連映画専門館に変身。

江東楽天地の誕生から85年が経過していますが、依然として楽天地ビルではTOHOシネマズ錦糸町楽天地が営業しており、発祥地(新京極)にMOVIX京都を死守している松竹のような誇りを感じます。

(写真)江東楽天地開業時の鳥観図。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)江東楽天地開業時の仲見世入口。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

(写真)江東楽天地開業日の新聞広告。『東京朝日新聞』1937年12月3日夕刊。朝日新聞クロスサーチ。

 

(写真)1957年の江東楽天地の航空写真。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東楽天地。錦糸町駅側入口。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の楽天地温泉会館。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1958年の江東楽天地。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1961年正月の江東楽天地。錦糸町駅側入口。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1964年の江東楽天地。錦糸町駅側入口。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1972年の江東楽天地。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1972年の江東楽天地と都電。錦糸町駅側入口。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年時点の将来想定図。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

 

江東楽天地の住宅地図

日本の映画館数がピークを迎えた1958年(昭和33年)の住宅地図を見ると、西端に江東劇場と本所映画館、江東地下劇場、江東名画座、リッツ劇場、キンゲキ、江東文化劇場・めばえ座、江東東映花月劇場の名前が見えます。映画館以外で規模の大きな施設としては楽天地天然温泉会館があります。

(写真)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1978年(昭和53年)の住宅地図はそれぞれの建物の大きさがわかります。江東劇場が入る江劇ビル、本所映画館が入る本映ビル、楽天地温泉会館の3棟が主要な施設として描かれており、その他には名画座、リッツ劇場、キンゲキ、文化劇場・スカラ座、江東東映、江東花月劇場の名前が見えます。本所映画館は1971年(昭和46年)にはもう閉館しているはずなのですが。

(写真)『ゼンリン住宅地図』日本住宅地図出版、1978年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1983年(昭和58年)10月30日には江東劇場など複数の映画館が閉館し、11月1日にはこれらの映画館を集約した楽天地ビルの第1期工事が完了。楽天地ビルでは4館の映画館が営業しつつ、1985年(昭和61年)の住宅地図では大きな空白も見えます。楽天地ビルの完全開業は1986年(昭和61年)のこと。東京楽天地が経営する映画館としては、江東文化劇場・スカラ座はまだ営業中であり、吉本が経営する江東東映と江東花月劇場も残っています。

(写真)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1994年(平成6年)の住宅地図では西武百貨店錦糸町西武)、楽天地ビル、THE PRIMEの3棟が一体的に描かれています。楽天地ビルの4階にはリッツ劇場と本所映画、6階にはキンゲキと江東劇場があり、名前は見えませんがキネカ錦糸町錦糸町スカラ座も営業中です。

(写真)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1994年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

2005年(平成17年)の住宅地図を見ると、西武百貨店リヴィン錦糸町店に改称しています。別ページにはビル内の店舗名称が掲載されていますが、1994年(平成6年)時点の6映画館は錦糸町シネマ8楽天地として統合され、さらに2館が新設されて8スクリーンのシネコン型映画館となっています。

(写真)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、2005年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

『ぴあmap '82』ぴあ、1982年

『ぴあmap '82』は初めて発行された『ぴあmap』として貴重です。1983年(昭和58年)11月の楽天地ビルを前にした江東楽天地の状況がうかがえます。

(写真)江東楽天地の地図が描かれている『ぴあmap '82』ぴあ、1982年。個人所有物。

(左・右)江東楽天地の各映画館の案内が掲載されている『ぴあmap '82』ぴあ、1982年。個人所有物。

(写真)『ぴあmap '82』ぴあ、1982年。個人所有物。

 

1. 楽天地の映画館

1.1 本所映画館(1937年12月3日-1971年5月)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-27-4(1970年)
開館年 : 1937年12月3日、1963年7月15日(本映ビル)
閉館年 : 1971年5月
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1943年の映画館名簿では「本所映画館」。1953年の映画館名簿では「本所映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「本所映画館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「錦糸町PARCO」建物南西部。

1937年(昭和12年)の江東楽天地開業時、映画専門館として本所映画館が、演劇公演も行う映画館として江東劇場がありました。洋画封切館として知られ、1954年(昭和29年)には『聖衣』の上映に合わせて横14.5m×縦5.8mのシネマスコープ設備を導入。

昭和40年代に映画が斜陽化すると、江東楽天地の他館に先駆けて1971年(昭和46年)に閉館し、ボウリング場に転向しています。1983年(昭和58年)11月に楽天地ビルが建設された際には、ビルに入る4映画館(本所映画、キンゲキ、リッツ劇場、江東劇場)のひとつとして名前が復活しています。

(写真)開館時の本所映画館。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1954年の本所映画館。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の本所映画館。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.2 江東名画座(1954年4月1日-1981年4月15日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-7(1980年)
開館年 : 1954年4月1日
閉館年 : 1981年4月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1955年の映画館名簿では「江東リッツ」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「江東名画座」。跡地は「錦糸町PARCO」建物北部。

1954年(昭和29年)4月には初代めばえ座が開館し、7月にはめばえ座の新館が開館したことで初代リッツ劇場に改称。1956年(昭和)7月にはリッツ劇場の新館が開館したことで江東名画座に改称しています。ややこしい...

江東名画座は600席以上を有する洋画ロードショー館であり、楽天地ビルの建設に着工する1983年(昭和58年)まで営業しています。

(写真)1954年のめばえ座。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東名画座。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.3 江東リッツ劇場(1956年7月14日-1983年10月30日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-5(1982年)
開館年 : 1956年7月14日
閉館年 : 1983年10月30日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「江東リッツ」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「江東リッツ劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「錦糸町PARCO」建物北東部。

1956年(昭和31年)には洋画封切館として江東リッツ劇場が開館。オープニングはジョン・カサヴェテス主演映画 『暴力の季節』。ファサード上部の壁画は宇宙を表現しているそうです。1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)まで存在した初代リッツ劇場は江東名画座に改称しています。

(写真)1954年の江東リッツ劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1956年の江東リッツ劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東リッツ劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.4 江東劇場(1937年12月3日-1983年10月30日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-12(1982年)
開館年 : 1937年12月3日、1963年10月31日(江劇ビル)
閉館年 : 1983年10月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1943年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「江東劇場」。跡地は「錦糸町PARCO」建物北西部。

1937年(昭和12年)12月3日には江東劇場と本所映画館を中心とする江東楽天地が開業。映画専門館の本所映画館とは異なり、江東劇場では演劇などの公演も行い、1953年(昭和28年)5月には美空ひばりの公演で動員数・興行収入の新記録を作っています。同年6月3日には横7.7m×縦5.0mという日本初のワイドスクリーンを設置。1961年(昭和36年)には江劇ビルに建て替えられ、楽天地ビルの建設まで営業しています。

(写真)開館時の江東劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1949年頃の江東劇場。『目で見る 墨田区の100年』郷土出版社、2007年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1953年の江東劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1953年の江東劇場。美空ひばりの公演時。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.5 錦糸町映画劇場(1938年4月3日-1983年10月30日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-4(1982年)
開館年 : 1938年4月3日(花月劇場)、1950年12月23日(錦糸町映画劇場)
閉館年 : 1983年10月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1943年の映画館名簿では「江東花月劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「錦糸町映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「錦糸町映劇」。1963年の映画館名簿では「錦糸町映画劇場」。1966年の映画館名簿では「江東錦糸町劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「錦糸町映画劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「錦糸町PARCO」建物北東端部。

江東劇場と本所映画館に次ぐ江東楽天地第3の映画館として、1938年(昭和13年)4月には吉本興業の経営による初代江東花月劇場が開館。

戦後には戦災で焼失した江東花月劇場の跡地に映画館が建設され、1950年(昭和25年)12月に松竹封切館の錦糸町映画劇場(キンゲキ)が開館しました。楽天地ビルの建設に伴い、1983年(昭和58年)に閉館しています。

(写真)1950年の錦糸町映画劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1950年の錦糸町映画劇場。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の錦糸町映画劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.6 江東地下劇場(1953年12月-1983年10月30日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-8(1982年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1983年10月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「江東地下劇場」。1982年の映画館名簿では「楽天地シネマ2」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「錦糸町PARCO」建物北西部。

1952年(昭和27年)11月には江東楽天地に江東地区初のストリップ劇場であるパリー座が開館。1953年(昭和28年)12月には邦画館の江東文化劇場に改装され、1983年(昭和58年)まで営業しています。

(写真)1952年のストリップ劇場 パリー座。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東地下劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

 

1.7 江東文化劇場・江東スカラ座(1953年11月1日-1985年9月2日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-32-3(1985年)
開館年 : 1953年11月1日(江東文化劇場)、1954年7月14日(めばえ座)
閉館年 : 1985年9月2日
『全国映画館総覧 1955』によると江東文化劇場が1953年11月開館、めばえ座が1954年7月開館。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「江東文化劇場・めばえ座」(2館)。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「江東文化劇場・江東スカラ座」(2館)。

1953年(昭和28年)1月には江東楽天地に楽天地会館が完成し、1階にはパチンコデパート、上層階にはスポーツランド、屋上には遊園地がありました。同年11月には1階が洋画館の江東文化劇場に改装され、1954年(昭和29年)7月には2階が子ども向け映画専門館のめばえ座に改装されました。1985年(昭和60年)、楽天地ビルの建設を機に閉館し、跡地は立体駐車場となっています。

(写真)1953年1月の江東文化劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1953年11月の江東文化劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1954年7月の江東文化劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1956年5月5日のめばえ座。児童無料招待。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)1957年の江東文化劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)江東文化劇場・江東スカラ座跡地の立体駐車場。

(写真)かつての江東楽天地東側。左の立体駐車場が江東文化劇場・江東スカラ座跡地。中央左のマンションが江東東映劇場跡地。右奥が江東花月劇場跡地。

1.8 江東花月劇場(1952年12月-1989年頃)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-28-5(1989年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1989年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「江東花月劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は跡地はマンション「エクセレントシティ錦糸町」南の工事現場。最寄駅はJR・東京メトロ錦糸町駅

吉本興業は江東楽天地の東部で江東花月劇場と江東東映劇場を経営し、前者では洋画を、後者では東映作品を上映しました。江東花月劇場のほうが規模が小さく、最晩年の1989年時点の座席数は江東花月劇場が247席、江東東映劇場が430席です。

(写真)江東花月劇場。『江東楽天地二十年史』江東楽天地、1957年。墨田区立緑図書館所蔵。

(写真)江東花月劇場跡地の工事現場。

1.9 江東東映劇場(1951年12月-1992年頃)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-28-5(1992年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1992年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「江東吉本映画劇場」。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「江東東映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「江東東映劇場」。1993年・1994年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エクセレントシティ錦糸町」。最寄駅はJR・東京メトロ錦糸町駅

1951年(昭和26年)には吉本興業の経営によって、江東楽天地の東部に江東吉本映画劇場が開館。1956年(昭和31年)頃には経営者を変えずに江東東映劇場に改称し、東京楽天地楽天地ビルを建設した後も営業を継続。1992年(平成4年)頃に閉館しました。

(写真)江東東映劇場跡地のマンション。

 

1.10 キネカ錦糸町(1986年11月5日-1999年7月9日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-27-14 錦糸町西武プライム7階(1999年)
開館年 : 1986年11月5日
閉館年 : 1999年7月9日
Wikipediaキネカ錦糸町
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年11月5日開館。1994年1月末にキネカ錦糸町錦糸町スカラ座2改称。1990年の映画館名簿では「キネカ錦糸町」。1993年・1994年の映画館名簿では「マールイキノキネカ錦糸町」。1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「錦糸町スカラ座2」。1999年7月10日には錦糸町スカラ座1・2が錦糸町シネマ8楽天地のシネマ5・6に移行。建物は「錦糸町PARCO」として現存。

1986年(昭和61年)、錦糸町西武7階にミニシアターのキネカ錦糸町が開館。同ビル内の他の5館は東京楽天地による経営ですが、キネカ錦糸町だけは西友による経営でした。

セゾングループ堤清二代表はソ連文化への関心が強く、1990年(平成2年)には "世界で2番目" のソ連映画専門館に移行。1991年(平成3年)末にソ連が崩壊したことで、1992年(平成4年)にはソ連映画専門館の看板を下ろしますが、ロシア語でミニシアターを意味するマールイ・キノという愛称を付け、以後も旧ソ連周辺諸国の映画を中心に上映しました。

その後錦糸町スカラ座2に改称し、1999年(平成11年)7月10日には錦糸町シネマ8楽天地の一部となりました。

 

1.11 錦糸町スカラ座(1986年11月5日-1999年7月9日)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-27-14(1999年)
開館年 : 1986年11月5日
閉館年 : 1999年7月9日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1993年・1994年の映画館名簿では「錦糸町スカラ座」。1994年1月末にキネカ錦糸町錦糸町スカラ座2改称。1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「錦糸町スカラ座1」。1999年7月10日には錦糸町スカラ座1・2が錦糸町シネマ8楽天地のシネマ5・6に移行。建物は「錦糸町PARCO」として現存。

1986年(昭和61年)にはキネカ錦糸町と同一フロアの7階に、東京楽天地による錦糸町スカラ座が開館。後にキネカ錦糸町錦糸町スカラ座2とし、1999年(平成11年)7月10日には揃って錦糸町シネマ8楽天地の一部となりました。

 

1.12 TOHOシネマズ錦糸町楽天地(1983年11月1日-営業中)

所在地 : 東京都墨田区江東橋4-27-14(2020年)
開館年 : 1983年11月1日(東京楽天地ビル)、1999年7月10日(錦糸町シネマ8楽天地)
閉館年 : 営業中
1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「本所映画・キンゲキ・リッツ劇場・江東劇場」(4館)。1999年7月10日には江東劇場が錦糸町シネマ8楽天地のシネマ1に、キンゲキがシネマ2に、本所映画がシネマ3に、リッツ劇場がシネマ4に、錦糸町スカラ座1・2がシネマ5・6に移行し、錦糸町シネマ8楽天地のシネマ7・8が新設された。2000年・2005年の映画館名簿では「錦糸町シネマ8楽天地シネマ1-8」(8館)。2008年・2010年・2015年の映画館名簿では「楽天地シネマズ錦糸町1-4」(4館)。2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ錦糸町楽天地9-12」(4館)。楽天地ビル4階・6階。

(写真)錦糸町パルコが主体となる楽天地ビル。

(左・右)TOHOシネマズ錦糸町楽天地。

(写真)楽天地ビルのフロアマップ。

 

1.13 TOHOシネマズ錦糸町オリナス(2006年4月20日-営業中)

所在地 : 東京都墨田区太平4-1-2 olinasモール4階(2020年)
開館年 : 2006年4月20日(TOHOシネマズ錦糸町)、2018年(オリナス改称)
閉館年 : 営業中
2000年の住宅地図では後の映画館の場所に巨大な空白の建物多数。2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年・2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズ錦糸町1-8」(8館)。2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ錦糸町オリナス1-8」(8館)。

(写真)オリナス錦糸町

(写真)オリナス錦糸町オリナスモール。

(左・右)TOHOシネマズ錦糸町オリナス

墨田区にあった映画館について調べたことは「墨田区の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京23区版)」にマッピングしています。

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