振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

田原市の映画館

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(写真)渥美半島の鉢花。

2021年(令和3年)9月、愛知県田原市田原市街地(旧・渥美郡田原町)を訪れました。かつて田原市街地には映画館「東英館」がありました。「福江町の映画館」に続きます。

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1. 田原市を訪れる

1.1 三河田原駅

愛知県田原市渥美半島の大部分を占める自治体です。戦後には豊川用水のおかげで全国屈指の農業地帯となり、2019年度(令和元年度)における田原市の農業産出額は全国第2位、2018年度(平成30年度)は第1位と、日本一を争っています。2019年度の農業産出額上位10市町の中では「花き」が最上位部門である唯一の自治体であり、歴史的には電照菊が、その他にはカーネーションやバラなどの栽培でも知られています。

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(写真)三河田原駅

 

公共交通機関における田原市の玄関口は豊橋鉄道渥美線三河田原駅であり、豊橋市新豊橋駅から延びる渥美線の終着駅です。2013年(平成25年)には安藤忠雄の設計によって駅舎が改築され、入口が北向きから西向きに変更されました。2014年(平成26年)には都市計画道路田原駅前通り線も開通し、2018年(平成30年)には商業施設のララグランも開業。三河田原駅前は10年前とは大きく雰囲気が変わり、かつての駅前通りは人通りも少なくなりました。

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(写真)旧・駅前通り。

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(写真)昭和30年代前半の駅前通り。『東三河今昔写真集』樹林舎、2005年。愛知県図書館所蔵。

 

1.2 田原まつり会館

毎年9月に開催される田原祭りでは、からくり人形を乗せた山車が市街地を練り歩きます。東三河地方を代表する祭礼といえば、鬼が登場する花祭(北設楽郡東栄町設楽町)や豊橋鬼祭(豊橋市)がありますが、西三河地方在住者としては山車祭りのほうが親しみがあります。

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(写真)田原まつり会館。

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(写真)田原まつり会館。常設展示されている山車。

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(左)田原まつり会館。常設展示されている山車。(右)田原祭りで用いられる提灯。

 

1.3 近代建築

セントファーレから田原市博物館までのエリアにはいくつか見栄えのする近代建築が残っています。本町交差点の北西にある内柴邸(内柴邸洋館)は永瀬狂三の設計で1919年(大正8年)に竣工した建物。ピンク色に塗られた外壁が目立ち、本町通のランドマークになっています。

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(写真)本町にある内柴邸洋館。

 

田原市民俗資料館は1928年(昭和3年)に田原町立技芸高等女学校として建てられたもの。1979年(昭和54年)に資料館となりました。田原市民俗資料館のすぐ西側には1934年(昭和9年)竣工の田原市立田原中部小学校があり、校舎中央部にある円筒形の躯体の内部が気になります。

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(写真)巴江にある田原市民俗資料館。

 

田原市博物館の敷地内には1934年(昭和9年)竣工の崋山文庫(崋山文庫収蔵庫)があり、内柴邸(内柴邸洋館)と同じく永瀬狂三の設計です。

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(写真)田原市博物館敷地内にある崋山文庫。

 

内柴邸(内柴邸洋館)から約200m東に向かうと、はなとき通りとの交差点近くには丸みを帯びた鉄筋コンクリート造の外観が特徴的な旧渡外科医院があり、昭和初期に診療所として建てられた建物だそうです。建築学者の瀬口哲夫は「田原の町は、石灰がでるということで、明治期にセメント工場が造られている。このためか、戦前の田原町にはRC造の建物がつくられた」と書いています。

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(写真)萱町にある旧渡外科医院。

 

 

2. 田原市中央図書館

田原市中央図書館は田原町時代の2002年(平成14年)に開館した図書館であり、2022年(令和4年)は20年の節目の年。図書館界では優れた図書館として広く知られています。図書館員が福祉施設を訪問して貸出や回想法事業を行う「元気はいたつ便」などの取り組みがあり、2019年(令和元年)には「まちづくりにつながる行政・議会支援サービス」が第5回図書館レファレンス大賞で文部科学大臣賞を受賞しています。書架それぞれに担当者の"手が入っている"という印象を強く受け、何度訪れても本を選んでみるのが楽しい図書館です。

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(写真)田原市中央図書館。

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(写真)田原市中央図書館の館内。2016年5月。

 

 

3. 映画館調査

3.1 映画館名簿

各年版の映画館名簿を見ると、戦前の渥美郡田原町には「田原座」と「東英館」が、戦後には1967年版まで「東英館」が掲載されており、1968年版と1969年版には「田原シネマ」が掲載されています。1970年以降の田原町/田原市に映画館はありませんでした。

田原シネマの電話番号/経営者/支配人/定員などは東英館とは異なっていますが、この時期に2年間だけ存続した映画館というのは信じがたく、東英館と同一の映画館と考えるのが妥当かもしれません。

1966年の映画館名簿によると、東英館の経営者兼支配人は鈴木重郎。木造2階建て、定員450の映画館でした。写真を見つけられていませんが、地方都市としてはそれなりの規模の劇場だったようです。

 

1930年の映画館名簿

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(写真)『日本映画事業総覧 昭和5年版』 国際映画通信社、1930年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。

 

1936年の映画館名簿

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(写真)『全国映画館録 昭和11年度』キネマ旬報社、1935年。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。

 

1967年の映画館名簿

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(写真)『映画年鑑 1967年版 別冊 映画便覧 1967』時事通信社、1967年。愛知県図書館所蔵。

 

3.2 住宅地図

田原町勢要覧 昭和36年版』(田原町、1962年)には1962年(昭和37年)時点の田原町の地図が掲載されており、三河田原駅の北側には東英館が描かれています。

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(写真)中央下に東英館が描かれている『田原町勢要覧 昭和36年版』田原町、1962年。愛知県図書館所蔵。

 

田原市域を描いた最古の住宅地図は、愛知県図書館が所蔵する『田原町住宅明細地図』(東海商工明細地図社、1962年)だと思われます。三河田原駅駅前通りから西に分岐して寺下通りに至る路地に、東"栄"館(※正しくは東英館)が描かれています。

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(地図)『田原町住宅明細地図』東海商工明細地図社、1962年。愛知県図書館所蔵。

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(地図)『田原町住宅明細地図』東海商工明細地図社、1962年。愛知県図書館所蔵。

 

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(地図)東英館跡地が駐車場となっている『アイゼンの住宅地図』愛善図書出版社、1980年。愛知県図書館所蔵。

 

3.3 郷土資料

1915年(大正4年)に赤羽根町に生まれた小林新一郎氏(赤羽根町の開業医、元海軍軍医)によると、昭和初期の成章中学校(現・愛知県立成章高校)在学中の田原市街地には田原座と東英館という2館の映画館があったとのこと。『田原市史 下巻』(田原町田原町教育委員会、1978年)によると田原座の所在地は倉田とあり、倉田は現在でも字名に残っています。

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(写真)田原座と東英館について言及している小林新一郎『映画と私』1977年。愛知県図書館所蔵。

 

三河田原駅90年史』(愛知大学地域政策学センター、2014年)では昭和戦後期の田原市街地や三河田原駅前が回顧されており、昭和30年代の商店街地図では東英館が主要なスポットとして描かれています。「ほぼ異口同音に挙げられたのが、娯楽施設の消滅、特に東英館を惜しむ声が大きかった」とあり、田原市街地では存在感のある施設だったようです。

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(地図)東英館が描かれた昭和30年代の田原市街地の地図。『三河田原駅90年史』愛知大学地域政策学センター、2014年。田原市中央図書館所蔵。

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(地図)東英館について言及がある『三河田原駅90年史』愛知大学地域政策学センター、2014年。田原市中央図書館所蔵。

 

2021年(令和3年)12月に刊行された『愛知の昭和30年代を歩く』(風媒社)でも、田原市博物館学芸員によって東英館が言及されています。

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(左・右)東英館についての言及(※東"映"館は誤り)。『ちんちこちんまっぷ』2016年。田原市中央図書館で閲覧。OPAC未登録。

 

3.4 航空写真

渥美線 渥美半島と下界をつなぐ鉄路の物語』(田原市博物館、2014年)には1927年の田原市街地の航空写真が掲載されています。1924年大正13年)に三河田原駅が開業してからわずか3年後ということで、駅前はまだまだ発展途上といった雰囲気。駅前通りと寺下通りを結ぶ路地の中央部南側、白っぽく見える場所が後に東英館が建つ場所と思われます。

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(写真)1927年の田原市街地の航空写真。中央下が三河田原駅。『渥美線 渥美半島と下界をつなぐ鉄路の物語』田原市博物館、2014年。田原市中央図書館所蔵。

 

1961年(昭和36年)の航空写真には東英館がはっきり写っています。

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(写真)1961年の航空写真における田原市街地。地図・空中写真閲覧サービス

 

2010年代に都市計画道路が開通した結果、東英館の跡地は都市計画道路の道路などになりました。

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(写真)現在の航空写真における田原市街地。Googleマップ

 

 

4. 田原市の映画館

4.1 東英館(昭和初期-1967年頃)

所在地 : 愛知県渥美郡田原町(1967年)
開館年 : 昭和初期
閉館年 : 1967年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「東英館」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「東英館」。1955年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「田原東英館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「豊橋鉄道渥美線三河田原駅」前の道路上。

東英館の跡地を訪れても痕跡はありません。三河田原駅周辺の歩道はゆったりしており、かつて映画館があったことを示す看板などが立ったらうれしいですね。

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(写真)東英館跡地付近。郵便ポスト付近から道路を超えて左奥の建物付近まで。

 

田原市の映画館について調べたことは「東三河地方の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

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岩村町の映画館

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(写真)西町。

2021年(令和3年)1月、岐阜県恵那市岩村町を訪れました。かつて岩村町には映画館「三万石会館」と「岩村劇場」がありました。

 

1. 岩村町を訪れる

1.1 岩村町の通り

岩村町は岩村藩岩村城)の城下町として栄え、1998年(平成10年)には「岩村町本通り」が重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。2018年(平成30年)にはNHK連続テレビ小説半分、青い。」のロケ地となり、ロケ地めぐりで多くの観光客が訪れました。私が初めて岩村町を訪れたのも2018年(平成30年)夏であり、2021年(令和3年)1月、2021年(令和3年)10月にも訪れています。

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(地図)平田亀一郎『大日本営業別住所入明細図』1930年。一部。岐阜県図書館がデジタルアーカイブインターネット公開

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(地図)平田亀一郎『大日本営業別住所入明細図』1930年。本町部分。岐阜県図書館がデジタルアーカイブインターネット公開

 

約1kmにわたって伸びるメインストリートは新町・西町・本町に分けられ、西町と本町の境にある下町升形から柳町が分岐しています。

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(写真)新町。

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(写真)本町。

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(写真)柳町

 

1.2 江戸城下町の館 勝川家

本町にある江戸城下町の館 勝川家(勝川家住宅)は江戸時代後期の町屋建築であり、土蔵など5棟が恵那市指定文化財となっています。

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(左・右)江戸城下町の館 勝川家。

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(左・右)江戸城下町の館 勝川家。

 

1.3 土佐屋「工芸の館」

土佐屋「工芸の館」は安永7年(1780年)の建築であり、やはり恵那市指定文化財となっています。勝川家住宅にしても土佐屋にしても、市指定文化財への指定は重伝建地区の選定以後のことであり、自治体として文化財を保存する意識の高さを感じます。このほかに江戸時代に建築された市指定文化財には、木村邸(木村家住宅)、浅見家住宅、岩村藩鉄砲鍛冶加納家があります。

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(左・右)土佐屋「工芸の館」。

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(左・右)土佐屋「工芸の館」。

 

1.4 岩村町の近代建築

岩村町本通り重伝建地区には江戸時代に建築された町屋が多数ありますが、特に本町には見栄えのする近代建築が複数あります。

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(写真)昭和堂

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(写真)梅庄商店。

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(写真)旧岩村銀行本店。

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(写真)旧岩村郵便局。1928年竣工。『岐阜県近代化遺産総合調査報告書』。

 

2. 岩村町の映画館

映画館名簿によると、昭和30年代から昭和40年代前半の岩村町には「三万石会館」と「岩村劇場」という2館の映画館がありました。しかし、両館が揃って掲載されている版はなく、2館ではなく1館しかなかったと勘違いしてしまうほどです。

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(写真)岩村劇場が最後に確認できる『映画便覧 1963』時事通信社、1963年。

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(写真)三万石会館が最後に確認できる『映画便覧 1968』時事通信社、1968年。

 

2.1 岩村劇場(1909年12月-1963年頃)

所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町(1963年)
開館年 : 1909年12月
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「岩村劇場」。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「岩村劇場」。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「グループホームいわむらの憩」東側の道路上。最寄駅は明知鉄道岩村駅

恵那郡岩村町に岩村劇場株式会社が設立されたのは1909年(明治42年)12月。別の文献では、1924年大正13年)には町立岩村劇場が設立されたとする記述が見られることから、1909年(明治42年)に民間有志によって設立された劇場が1924年大正13年)に岩村町に移管されたのかもしれません。

 

地元の郷土史家が著した『いわむら郷土読本 第6巻 改元余話篇』(西尾精二、2019年)には、戦前の岩村市街地の地図が掲載されています。柳町の突き当りに「岩村劇場」が描かれていますが、柳町の通りの幅しかないかのような不自然な描かれ方をしています。

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(地図)柳町の突き当りに岩村劇場が描かれた地図。西尾精二『いわむら郷土読本 第6巻 改元余話篇』西尾精二、2019年。

 

1948年(昭和23年)の航空写真を見ると柳町はどん詰まりの構造になっていますが、突き当たりにあるはずの岩村劇場の場所は判然としません。

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(写真)1948年の岩村市街地の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス

 

2021年(令和3年)10月にグループホームいわむらの憩付近を歩いていた女性(60~70代)に尋ねたところ、「私が1974年に岩村町にやってきた際、グループホームいわむらの憩の場所には『水半』という旅館があった。その前に映画館があったかどうかは知らない」とのことでした。

 

2.2 三万石会館(1958年頃-1968年頃)

所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町269(1968年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「三万石劇場」。1960年の映画館名簿では「三万石会館」。1961年の映画館名簿では「三万石劇場」。1962年の映画館名簿では「三万石会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「三万石会館」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「恵那三万石会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岩村郵便局」南30mにある公園「本町ポケットパーク」。最寄駅は明知鉄道岩村駅

1959年(昭和34年)から1968年(昭和43年)までの映画館名簿には三万石会館が掲載されています。1968年の映画館名簿によると、経営者は岩村土地興業、支配人は岩出善次。定員200の小規模な映画館だったようです。

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(地図)1964年の東濃版住宅案内図。中央右に三万石会館。

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(地図)1967年の住宅地図。中央に三万石会館。

2021年(令和3年)1月に岩村観光協会の方に聞くと、「岩村町には三万石会館と岩村劇場のふたつがあった。三万石会館は映画館であり、岩村劇場は昔ながらの劇場だった

桝形から柳町を南に向かうと、突き当りに岩村劇場があった。現在は老人ホームがある辺りである。岩村劇場は三万石会館よりも早く閉館した

三万石会館には小学生の時に入ったことがある。閉館後の建物は家具屋の倉庫となり、現在は本町ポケットパークとなっている。岩村郵便局の角を南に曲がった先である」とのこと。

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(写真)三万石会館跡地の本町ポケットパーク。中央奥は岩村郵便局。2021年10月。

 

岩村町の映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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美濃白川を訪れる

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(写真)美濃白川の特産品である白川茶。

2021年(令和3年)12月、岐阜県加茂郡白川町(美濃白川)を訪れました。白川郷がある岐阜県大野郡白川村とは異なります。映画館名簿によると美濃白川に映画館はなかったようです。

 

1. 美濃白川を訪れる

美濃白川の中心駅はJR高山本線川口駅です。白川町と東白川村の各地に向かうバス路線のターミナルとなっており、一部の特急ひだも停車します。

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(写真)JR高山本線川口駅

 

1.1 白川橋

美濃白川の中心市街地である河岐(かわまた)は、飛騨川とその支流の白川が合流する場所にあります。1926年(大正15年)に開業した白川口駅中心市街地を結ぶ橋が白川橋であり、駅の開業と同年に飛騨川に架けられました。2006年(平成18年)に土木学会選奨土木遺産に認定されており、2013年(平成25年)に登録有形文化財に登録されています。

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(写真)飛騨川に架かる白川橋。

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(左・右)飛騨川に架かる白川橋。

 

1.2 岐阜県道62号

美濃白川の中心市街地は白川沿いにあり、北岸(右岸)の天神通り、南岸(左岸)の岐阜県道62号と堀通りという3本の通りがあります。2車線の通りは県道62号のみ。白川町町民会館、図書館と資料館からなる美濃白川集楽館、東濃信用金庫白川支店、中心市街地唯一のコンビニであるデイリーヤマザキ加茂白川店、V・drug白川店などが集まっています。

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(写真)飛騨川の支流である白川。

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(写真)岐阜県道62号。

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(写真)岐阜県道62号沿いにあるパチンコ店 リバーサイドの廃墟。

 

1.3 堀通り

岐阜県道62号より白川に近い場所には堀通りがありますが、県道62号の裏通りと化しており、美容院や畳店などの個人商店がいくつかあるのみ。

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(写真)堀通り。

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(写真)堀通り。

 

1.4 天神通り

白川の北岸には天神通りがあり、白川町役場、白川郵便局、大垣共立銀行白川口支店、成田屋旅館などがあります。

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(写真)天神通り。

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(写真)天神通り。

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(写真)天神通りにある成田屋旅館。

 

2. 美濃白川楽集館

白川の南岸には図書館と資料館を兼ねた施設として美濃白川楽集館(がくしゅうかん)があります。JAめぐみの美濃白川支店の建物を活用するために2003年(平成15年)に開館したとのことで、図書館が2階に、資料館が3階に入っています。写真撮影許可を受ければ館内の撮影が可能という、ただしSNSへのアップロードは禁止という表示がありました。

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(写真)美濃白川楽集館。

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(写真)美濃白川楽集館の利用案内。

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(写真)美濃白川楽集館の図書返却ボックス。

飛騨金山の映画館

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(写真)廃業した銭湯「旭湯」。

2021年(令和3年)12月、岐阜県下呂市金山町(飛騨金山)を訪れました。かつて飛騨金山には映画館「金山劇場」がありました。2年前に訪れた際もブログを書いています。

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1. 飛騨金山を訪れる

1.1 橋本町周辺

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(写真)橋本町。

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(写真)橋本町。

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(写真)橋本町で見かけたタイル。

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(左)橋本町で見かけたタイル。(右)飛騨街道で見かけたタイル。

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(写真)看板。

 

1.2 飛騨街道

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(写真)奥飛騨酒造。

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(写真)飛騨街道。

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(写真)飛騨街道。

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(写真)飛騨街道の清水屋旅館付近。

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(写真)飛騨街道の清水楼付近。

 

1.3 銭湯「旭湯」

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(写真)廃業した銭湯「旭湯」。

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(写真)廃業した銭湯「旭湯」。

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(左・右)廃業した銭湯「旭湯」。

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(左・右)廃業した銭湯「旭湯」。

 

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(写真)廃業した銭湯「旭湯」。

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(写真)廃業した銭湯「旭湯」。

 

1.4 筋骨めぐり

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(写真)筋骨。

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(写真)筋骨。

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(写真)筋骨。

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(写真)筋骨。

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(左・右)筋骨。

 

2. 飛騨金山の映画館

2.1 金山劇場(大正時代以前-1965年頃)

所在地 : 岐阜県益田郡金山町(1965年)
開館年 : 大正時代以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「金山劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金山郵便局」。最寄駅はJR高山本線飛騨金山駅

映画館名簿によると、益田郡金山町には映画館の金山劇場がありました。映画館名簿に登場するのは1956年(昭和31年)版ですが、大正時代には既に存在していたとのことで、戦後の1948年(昭和23年)の航空写真にも巨大な建物がはっきり写っています。地上から金山劇場を写した写真は文献で確認できていません。

映画黄金期の1960年(昭和35年)の映画館名簿では経営者が田口真一郎で支配人が田口亮之助、名前が最後に確認できる1965年(昭和40年)の映画館名簿では経営者・支配人ともに田口亮之助となっています。建物は木造2階建であり、定員は映画館名簿の年によって変動がありますが、600人台から900人台です。

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(写真)1948年の飛騨金山。地図・空中写真閲覧サービス

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(写真)金山劇場が掲載されている『映画便覧 1965』時事通信社、1965年。

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(写真)金山劇場跡地にある金山郵便局。

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(写真)劇場通り。

 

飛騨金山の映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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