振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

揖斐川町の映画館

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(写真)揖斐川町立いびがわ図書館。

2020年(令和2年)10月、岐阜県揖斐郡揖斐川町を訪れました。かつて揖斐川町には「揖斐中央劇場」「揖斐劇場」「宝来館」の3館の映画館がありました。

 

1. 揖斐川町立いびがわ図書館

2020年(令和2年)5月26日に開館した揖斐川町立いびがわ図書館 - Wikipediaも訪れました。訪問後にはWikipedia記事も作成し、撮影した写真はWikimedia Commonsにアップロードしました。

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1.1 図書館の歴史

1972年(昭和47年)には図書館法に基づく揖斐川町立図書館が開館。揖斐川町役場の旧庁舎を転用した施設だったようですが、岐阜県の町村立図書館としてはかなり早い時期の開館です。

1980年(昭和55年)には鉄筋コンクリート造の旧館が開館。この時点でも町村立図書館はまだ少なく、貸出方式はブラウン方式を採用、コンピュータは未導入の図書館でした。2005年(平成17年)の合併を機に揖斐川町揖斐川図書館に改称し、町内3館の中央館という位置づけになりました。

建物の老朽化や耐震強度不足などを理由に、2020年(令和2年)5月26日には旧館から約100m離れた場所に現行の揖斐川町立いびがわ図書館が開館。岐阜県産のスギ材やヒノキ材を用いた木造館であり、岐阜県で初めてCLT工法(強度の高い圧型木製パネルによる工法)を用いた建築物とのことです。

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(写真)揖斐川町立いびがわ図書館。2階の一般書。

 

1.2 図書館の館内

いびがわ図書館の売りは木育ひろばのようで、建物入口を入って左側にはカウンターが、右側には木育ひろばがありました。岐阜県は県として木育の取り組みを進めており、様々な児童館・図書館・子育て支援センターに類似の部屋があるようです。柱ではなく壁面(木製パネル)で躯体を支えるのがCLT工法の特徴とのことであり、1階も2階も木製パネルが見える部分があります。

1階が児童書と生活書と郷土資料、2階は一般書と文芸書というフロア構成です。テーマ展示は目立たず、特徴ある分野の別置も少ない。特に2階は「本がたくさんある空間」という印象であり、職員の手がまったく加わっていないかのように殺風景です。岐阜薬科大学で学長を務めた水野瑞夫からの寄贈書コーナーがありましたが、なぜ水野氏から寄贈を受けたのかはわかりませんでした。

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(写真)1階の通路。左はカウンター。

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(中)木育ひろばや絵本。(右)一般書の書架と閲覧席。

 

2. 揖斐川町の映画館

明治末期には大垣市にあった劇場を移築し、揖斐郡揖斐町の北新町に「高砂座」が開館します。1927年(昭和2年)の火災後には昭和町に2代目の高砂座が建設され、戦時中まで経営されました。

所酒造から北西方向に小川を渡った場所、うなぎ屋の八千代の北東には、戦前に高砂座という芝居小屋があったと聞いている

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(写真)戦前の昭和町にあった2代目高砂座。

 

戦後の揖斐郡揖斐町/揖斐川町には「揖斐中央劇場」(1953年-1960年代中頃)、「揖斐劇場」(1945年-1960年代中頃)、「宝来館」(1950年代後半-1960年代中頃)の3館の映画館がありました。3館あった自治体としては映画館がなくなる時期が早く、映画館が掲載されている住宅地図はありません。文献から跡地が判明するのは揖斐中央劇場のみです。

揖斐川町史』における所在地の記述や、1970年代の航空写真で揖斐劇場と宝来館の場所の見当を付け、1891年(明治24年)創業というみのや萩薬局に入りました。みのや薬局は創業時から場所を変えずに営業しているそうであり、店内には戦前の薬看板が多数掲げられています。主たる事業が薬の製造だった頃の資生堂の看板などもありました。

主人(70代?)に映画館の話を聞いたところ、1970年代の航空写真に写っている巨大な建物2棟が映画館の建物だった裏付けが取れました。本ブログにおける青文字の部分がみのや萩薬局の主人の話です。

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2.1 宝来館(1957年頃-1963年頃)

所在地 :岐阜県揖斐郡揖斐川町(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「宝来館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「真教寺」西側の「下新町コミュニティセンター」。

揖斐川町で最も東側にあった映画館が「宝来館」。名鉄揖斐線廃線となる2001年(平成13年)までは、本揖斐駅に最も近かった映画館でもあります。

久保田歯科の前の路地を南に入り、真教寺から路地を挟んで東側に映画館があった。現在は会館になっているかもしれない。名前は覚えていない。『ほうらいかん』という名前ではなかったと思う

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(左)話を聞いたみのや萩薬局。(右)宝来座跡地の下新町コミュニティセンター。

 

2.2 揖斐劇場(1945年11月-1964年頃)

所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐川町上新町(1964年)
開館年 : 1945年11月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「揖斐劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大垣西濃信用金庫揖斐川支店」南東60mにあるガレージのある駐車場。

1945年(昭和20年)11月には揖斐郡揖斐町の上新町に「揖斐劇場」が開館。旧道と新道(国道303号)を結ぶ幅の狭い道路に面していました。跡地はスーパーとなった後、現在は駐車場です。

みのや萩薬局の東側にある路地を南に入り、現在は駐車場になっている場所には揖斐劇場があった。3館の中で最後まで営業していたのは揖斐劇場だったのではないか

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(写真)戦後の揖斐劇場。『揖斐川町史 通史編』(揖斐川町、1971年)。

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(左)揖斐劇場が面していた路地。中央右が揖斐劇場跡地。(右)揖斐劇場跡地の駐車場。

 

2.3 揖斐中央劇場(1953年10月5日-1965年頃)

所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐川町(1963年)
開館年 : 1953年10月5日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「揖斐中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は巡礼花街道沿いにある「北野神社」鳥居の西隣。

1953年(昭和28年)には揖斐郡揖斐町の中町に「揖斐中央劇場」が開館。十六銀行揖斐川支店やJAいび川揖斐支店からすぐであり、昔も今も東側には北野神社の鳥居があります。

北野神社の隣には中央劇場があった。西側だったか東側だったかは覚えていない。中央劇場は火災で焼失した

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(写真)1958年の揖斐中央劇場。『保存版 ふるさと揖斐・本巣・山県』(郷土出版社、2012年)。

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(左)揖斐中央劇場跡地の駐車場。(右)揖斐中央劇場跡地と北野神社。


揖斐川町にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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行田市を訪れる

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(写真)行田市立図書館。

2020年(令和2年)11月、埼玉県行田市を訪れました。2024年(令和6年)2月に本記事から「行田市の映画館」を分割しています。

 

  

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1. 行田市を歩く

行田市は映画『のぼうの城』にもなった忍城(おしじょう)がある町。戦前の地図を見ると市街地の南西側は川や池が入り乱れています。現在は水城公園以外で水の町という印象はありませんが、変哲のない道路が水路跡だったりするので楽しい。

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(写真)東西の本町通り。埼玉県道128号熊谷羽生線。

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(左)南北の新町通り。埼玉県道77号行田蓮田線。(右)新町通りの東側に並行する八幡通り。 行田八幡神社に由来。

 

1.1 忍町の絵図

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(地図)武州忍町勉強家共同広告寿娯録。1900年開業で1923年廃止の行田馬車鉄道が描かれている。1921年開業の北武鉄道(現・秩父鉄道)は描かれていない。

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(地図)戦前の行田市街地の地図。1921年開業の北武鉄道(現・秩父鉄道行田駅(現・行田市駅)が描かれているが、行田駅と本町通りを結ぶ駅前通りは未開通。

 

1.2 足袋蔵

江戸時代後期から近代にかけての行田には足袋産業が発展し、足袋蔵という足袋の保管庫が数多く建築されます。高度成長期には足袋から靴下への移行が完了し、行田における足袋の生産量は激減しますが、市民団体の努力によって足袋蔵は残されました。

2017年(平成27年)には足袋蔵が埼玉県初の日本遺産に選ばれています。同じ埼玉県の川越市にある蔵と比べると小規模であり、点在していることから全体像の把握が難しい。観光地としては発展途上ですが、足袋蔵を巡る観光が今後伸びるのは間違いありません。

土蔵

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(写真)忠次郎蔵。土蔵。登録有形文化財

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(左)十万石ふくさや行田本店。登録有形文化財。(右)足袋蔵ギャラリー門・クチキ建築設計事務所・パン工房KURA。

 

木蔵・石蔵・煉瓦蔵

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(写真)行田窯。木造。

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(左)小川源右衛門蔵。石造。(右)大澤蔵。煉瓦造。登録有形文化財

 

行田足袋/足袋蔵に関する資料館

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(左)足袋蔵まちづくりミュージアム。(右)足袋蔵の歴史に関する展示。

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(左)足袋とくらしの博物館。(右)足袋製造の作業風景。

 

行田市街地の近代建築

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(左)武蔵野銀行行田支店。登録有形文化財。(右)旧荒井八郎商店(彩々亭)。登録有形文化財。 

 

1.2 行田市立図書館

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(写真)行田市立図書館。

 

 

「令和2年度ウィキペディアタウンin行田(Trial Version)」に参加する

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(写真)行田足袋。

2020年(令和2年)10月31日(土)、埼玉県行田市で開催された「令和2年度ウィキペディアタウンin行田(Trial Version)」に参加しました。

 

 

1. イベント概要

今回のイベントは行田市立図書館が主催し、NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークが共催しています。コロナ禍で開催されたため「Trial Version」であり、参加者の一般募集は行っていません。参加者は総合学科を有する埼玉県立進修館高等学校 - Wikipediaの生徒であり、本イベントは「行田学」と題した探究学習の一環でもあります。今回の題材となった足袋蔵とはこの地域の伝統産業である行田足袋の保管庫のことであり、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として日本遺産にも認定されています。日本遺産という制度は地域の固有性(オンリーワン)や優位性(ナンバーワン)を評価する制度だという話がありましたが、足袋製造において日本最大のシェアを占めるのが行田市であり(ナンバーワン)、足袋の保管庫が現存している事実上唯一の自治体(オンリーワン)でもあるようです。

主たる講師は埼玉県在住のウィキペディア管理者であるAraisyoheiさん、京都府の高校司書として普段から高校生と関わっている伊達深雪さんですが、私(かんた、Asturio Cantabrio)も講師に加えてもらいました。

なお、行田市立図書館が作成した2種類のチラシはクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)で提供されています。アオリ補正を行った足袋蔵の写真もCCライセンスで提供されており、イベントの編集対象となった記事「足袋蔵 - Wikipedia」に用いています。

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(左)チラシA。(右)チラシB。CC BY-SA 4.0。行田市立図書館

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(左)行田市立図書館。(右)図書館内の会場。

 

2. まちあるきする

行田市立図書館に集合し、AraisyoheiさんからWikipediaの仕組みやルールなどの説明を聞きます。その後マイクロバスとワゴンに分乗し、中心市街地の足袋蔵があるエリアに向かいました。ガイドはNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークの中島洋一さん。足袋蔵まちづくりミュージアムで足袋蔵について俯瞰し、その後いくつかの足袋蔵を回って個別の蔵の説明を聞きました。

ミュージアム蕎麦屋・和菓子屋・パン屋などとして活用されている足袋蔵もあります。川越市の蔵とは違って足袋蔵は市街地に点在しており、構造は土造・石造・煉瓦造・モルタル造・木造・鉄筋コンクリート造と様々です。大部分は足袋の保管庫としての役目を終えており、市内に70-80棟も現存するということに驚いたのですが、NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークの尽力によるところが大きいようです。

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(写真)足袋蔵まちづくりミュージアム

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(左)ミュージアムで話を聞く参加者。(右)NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークの中島洋一さん。足袋蔵の内部。

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(左)蕎麦屋として活用されている忠次郎蔵。(右)呉服屋の店蔵だった十万石ふくさや行田本店。いずれも登録有形文化財

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(写真)十万石ふくさや行田本店で写真を撮る参加者。

 

3. Wikipediaを編集する

再びマイクロバスやワゴンで行田市立図書館に戻り、午後はパソコンでWikipediaを編集します。今回の編集対象記事は「足袋蔵」の1記事。足袋蔵について同級性などに説明することを想定してもらい、Araisyoheiさんが「どんなことを説明するべきか」と問いかけます。伊達深雪さんが議論の進行役となり、参加者にひとりずつ当てたりして意見を出してもらいます。こうして足袋蔵の定義や重要な要素について考え、続いて記事に必要な節構成も話し合いました。

「特徴」「歴史」「構造」「保存と利活用」「現地情報」の各節を一人ずつ担当し、図書館が準備してくれた文献を各自が読んだうえで、引率の先生や講師のサポートを受けながら記事を編集しました。

講師や行田市立図書館の職員も編集に関わっています。参加者が文献を読んでいる間に、私は記事の骨格のみを掲載した初版を投稿。複数の参加者が一つの記事を編集するときにありがちな編集競合を避けるために、全体編集ではなくセクション編集を行ってもらいました。

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(左)準備された文献。(右)パソコンで編集中の参加者。

 

講師や図書館員も含む参加者が撮影した写真は、Wikimedia Commonsの以下のカテゴリに収容しています。足袋蔵の写真(Category:Tabigura)はイベント前に7枚だったのが現在は74枚に、行田足袋の写真(Category:Gyoda Tabi)はイベント前に5枚だったのが現在は61枚に、いずれも大幅に増加しています。私も足袋蔵や行田足袋に関する約100枚の写真をWikimedia Commonsにアップロードしています。

Category:Tabigura - Wikimedia Commons

Category:Gyoda Tabi - Wikimedia Commons

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(写真)Category:Tabigura - Wikimedia Commons

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(写真)行田市立図書館によって提供された足袋蔵の写真。アオリ補正済。CC BY-SA 4.0。行田市立図書館
 

4. まとめ

題材

足袋蔵 - Wikipediaという題材はとても面白かった。ぐぐれば定義は理解できる、しかし詳細な解説をしているサイトはほぼ存在しません。"歴史"・"産業"・"建築"・"観光"など各分野にまたがっており、Wikipedia記事を書くには図書館の資料が必要、文献収集は図書館員の腕の見せ所、という題材でした。

・寺社仏閣などは "歴史" 要素が強く、ガイドの説明を聞いたり文献を読んだりして題材を理解するのが容易ではありません。参加者の予備知識の有無によって満足度が大きく変わってしまう傾向があり、ウィキペディアタウンの題材としては難易度が高い印象を持っています。"産業" や "地理" 要素が強い題材は要点をつかみやすく、まちあるきで視覚的な情報を得ることがWikipedia編集の際にも役立つような印象があります。

 

イベント進行

・進修館高校は行田市の高校であるものの、足袋蔵を見たのは初めてという参加者ばかりでした。「足袋蔵」は「行田足袋」から派生した題材。ガイドから足袋蔵の説明を受ける前に、ポプラディアなどで行田足袋の概要を頭に入れておけばよかったかもしれません。

・参加者が高校生ということで、事前に準備する文献はできるだけ絞り、(重い)自治体史と(軽い)パンフレットの数冊程度にしたほうがよかったかもしれません。参加者は引率の先生のサポートを受けながらパソコンに打ち込んでいましたが、先生の指導が情報の授業(ショートカットキーの使い方など)のような雰囲気を感じる場面もありました。文献を読んで自分の言葉でまとめるという、ウィキペディアタウンの本質的な点に目を向けてもらうのは難しい。

一宮駅西の映画館

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場。

2020年(令和2年)10月、愛知県一宮市を訪れました。名鉄一宮駅・JR尾張一宮駅の西側の駅西と呼ばれる地区にはかつて「一宮国際劇場場」があり、その建物は月極駐車場として現存しています。

 

1. 一宮市を訪れる

人口約38万人の一宮市尾張地方の中心都市であり、2021年(令和3年)には中核市への移行を控えています。近代のこの地域は繊維業で栄え、日本国内最大の毛織物産地「尾州産地」として知られています。

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(写真)名鉄一宮駅・名鉄百貨店一宮店。 

 

2. 一宮駅西の映画館

「一宮国際劇場」の建物は一宮市神山に現存します。昭和30-40年代に建てられた愛知県の映画館で現存する建物は、一宮国際劇場を含めて4館だけだと思われます。同じ一宮市の起(旧・尾西市)にあった「尾西映画劇場」も長らく建物が現存していたのですが、2020年(令和2年)2月に取り壊されたようです。

 

愛知県に現存する黄金期の映画館建築

「海老劇場」(新城市海老南貝津、1929年竣工)[ブログ記事]

「新豊座」(稲沢市祖父江町祖父江、1950年代初頭竣工?)[ブログ記事]

木曽川東映劇場」(一宮市木曽川町内割田、1950年代末竣工?)[ブログ記事]

「一宮国際劇場」(一宮市神山、1957年竣工?)本ブログ記事

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(写真)一宮市の映画館。地理院地図

 

2.1 一宮国際劇場(1955年頃-1960年代中頃)

所在地 : 愛知県一宮市八幡通3-3(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年以後1966年以前
地図 : 「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「一宮国際劇場」。1959年の住宅地図では「一宮国際劇場」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「国際劇場」。1963年の映画館名簿では「一宮メトロ劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では跡地に「パチンコマルコセンター」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「カネスエ駅西店」。

一宮市中心市街地は名鉄一宮駅・JR尾張一宮駅の東側に広がっており、かつて約10館の映画館がありました。駅の西側は駅裏と言える側であり、映画館は「一宮国際劇場」の1館だけ、それも1960年代中頃にはすでに閉館しています。跡地はまずパチンコ店に、続いてスーパーマーケットとなり、現在は月極駐車場となっています。

松本勝二『史録いちのみや』(郷土出版社、1986年)には開館時期が1957年(昭和32年)5月、閉館時期が1971年(昭和46年)3月と書かれていますが、『映画館名簿』に掲載されている時期(1956年版から1963年版)とは整合性が取れません。この文献以外で国際劇場に言及している書籍は確認できていません。

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場。

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(地図)1963年の全商工住宅案内図。中央に「国際劇場」。

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1970年のゼンリン住宅地図。一宮国際劇場跡地にカネスエ駅西店。

 

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場の正面。建物正面の壁面には「いちばやさん ジャンボ市 グリンP」と書かれている。

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場の側面。経営者の家(?)が併設されている。

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場の内部。鉄骨で補強されている。3枚目には階段の痕跡があり、映画館閉館後に2階部分が取り壊されたと思われる。

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(写真)一宮国際劇場の建物を転用した月極駐車場の内部。ホールだった部分と通路だった部分では床面の色が異なる。3枚目には2階相当の高さに非常口がある(トマソン)。

 

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(写真)1960年代の一宮国際劇場周辺。地理院地図

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(写真)現在の一宮国際劇場跡地周辺。地理院地図

 

一宮駅西にあった映画館について調べたことは「一宮市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

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