振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

知多岡田の映画館

(写真)喜楽座の跡地にある説明看板。

2023年(令和5年)9月、愛知県知多市岡田を訪れました。かつて岡田には映画館「喜楽座」がありました。「岡田工業知多工場を訪れる」「知多岡田を訪れる」からの続きです。

 

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1. 知多岡田の映画館

1.1 喜楽座(1926年8月-1967年)

所在地 : 愛知県知多郡知多町岡田久手32(1969年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧 1955』によると1926年8月開館。1949年の映画館には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「喜楽座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「岡田喜楽座」。1969年の映画館名簿では「喜楽座」。1970年の映画館には掲載されていない。跡地はアパート「ローズパーク」。

各年版の映画館名簿を閲覧すると、知多郡岡田町の映画館として喜楽座が掲載されています。『全国映画館総覧 1955』には1926年(大正15年)8月開館とあり、郷土資料などには1925年(大正14年)開館と言及されています。

開館直後の1927年(昭和2年)発行の『知多商工案内』には知多郡の会社一覧が掲載されていますが、岡田町に4社しかない会社のひとつとして喜楽座株式会社が掲載されており、設立年月日は1925年(大正14年)5月28日となっています。経営者は"士"井喜一とありますが正確には土井喜一であり、岡田町で土井織布工場を経営していた人物です。

(写真)喜楽座株式会社が掲載されている『知多商工案内』知多商業会議所、1927年。

(写真)喜楽座が掲載されている『全国映画館総覧 1955』時事通信社、1955年。

(写真)1949年の航空写真における岡田地区。地図・空中写真閲覧サービス

 

1960年(昭和35年)時点の喜楽館の経営者は竹内弥吉であり、竹内は戦前から岡田町で知多木綿の竹内弥吉工場を経営していた人物です。その後、1960年代中頃には経営者が竹内から伊藤好一に代わっています。伊藤は常滑市大野町の大野劇場を拠点としていた興行主です。

(写真)昭和初期の喜楽座。『知多木綿発祥の地・岡田 繁栄の歴史』岡田まちづくり準備会、2006年。

(写真)昭和初期の喜楽座の内部。『知多木綿発祥の地・岡田 繁栄の歴史』岡田まちづくり準備会、2006年。

 

ウェブサイト「喜楽座」では解体前の喜楽座の写真なども見ることができます。建物は1996年(平成8年)に取り壊され、跡地にはレンガ調の外壁が特徴のアパート2棟が建っていますが、2015年(平成27年)には岡田街並保存会によって説明看板が設置されました。

(写真)喜楽座の跡地にある説明看板。

(写真)喜楽座の跡地にある説明看板。

 

知多岡田の映画館について調べたことは「知多半島の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

知多岡田を訪れる

(写真)雅休邸。登録有形文化財

2023年(令和5年)9月、愛知県知多市岡田を訪れました。「岡田工業知多工場を訪れる」からの続きです。「知多岡田の映画館」に続きます。

 

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1. 知多岡田を訪れる

知多岡田は知多木綿(知多晒)の産地として栄えた町であり、豊田佐吉と同時代には竹内虎王によって動力織機も発明されています。知多地域では知多木綿・松坂木綿(三重)・和泉木綿(大阪)が日本の三大綿織物生産地とされるようです。

なお、静岡県では遠州木綿・三河木綿(愛知)・和泉木綿(大阪)が日本三大綿織物産地とされるようです。知多が三大産地を自称する際には三河が外されていることから、同県の三河木綿への対抗意識を感じます。いずれにしても、現在の東海地方は日本屈指の綿織物産地だったようです。

(写真)大正時代の岡田村。『写真集 西知多いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年。

 

1.1 慈雲寺

ここからは主に竣工年順に岡田地区の建物を並べています。

岡田の中心部には臨済宗妙心寺派の慈雲寺があります。創建は観応元年(1350年)。承応4年(1655年)の大火後、万治3年(1660年)には本堂(現・観音堂)が竣工し、この建物は岡田地区最古の建造物とされています。

(写真)かつての本堂である観音堂

 

明治時代に編纂された『尾張名所図会』では、現在の観音堂が本堂として描かれており、現在の本堂の場所に客殿という建物が描かれています。

(写真)慈雲寺と正法院が描かれている『尾張名所図会 前編 巻6 知多郡』片野東四郎、1880年

 

現在の本堂は2006年(平成18年)竣工の新しい建物ですが、古写真を見ると改築前も同規模の建物だったようです。

(写真)1905年の慈雲寺。『写真集 西知多いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年。

 

1.2 木綿蔵ちた(国登録)

知多岡田における観光の拠点になっているのが木綿蔵ちたです。もとは竹内虎王商店の蔵であり、竣工時期は明治後期から大正初期とされています。

2013年(平成25年)に岡田地区初の登録有形文化財となった知多岡田簡易郵便局に続いて、2014年(平成26年)に登録有形文化財に登録されると、同年から始まった愛知登文会の特別公開(後の「あいたて博」)でも公開対象となりました。

(写真)木綿蔵ちた。

(写真)旧竹内虎王邸。

 

1.3 知多岡田簡易郵便局(国登録)

知多岡田簡易郵便局は1902年(明治35年)竣工の木造2階建ての洋風建築であり、木綿蔵ちたの西隣にあります。この建物の解体計画が浮上した際に岡田街並保存会が結成され、その後の町並み保存運動につながったという点で、知多岡田を象徴する建物と言えます。

(写真)知多岡田簡易郵便局

(写真)知多岡田簡易郵便局

 

1.4 旧中七木綿本店(国登録)

岡田地区の中央にある旧中七木綿本店主屋(旧事務所)は1914年(大正3年)竣工。

(写真)旧中七木綿本店。

 

1.5 榎本家蔵

愛知建築士会による雑誌『愛知の建築』には、建築史家の瀬口哲夫先生による「街の歴史建築を訪ねて」の連載があり、岡田地区では雅休邸と榎本家蔵が連載に登場しています。榎本家蔵は大正時代竣工で鉄筋コンクリート造3階建てという奇妙な建物です。

(写真)榎本家蔵。

 

1.6 雅休邸(国登録)

かつて知多岡田で行われたクイズラリーに参加した際、ゴール地点は雅休邸(旧岡田医院)でした。岡田地区の中心部にある横断歩道橋のすぐ近くですが、見落としてしまいがちな場所にあります。軍医の竹内雅休(まさやす)によって1929年(昭和4年)に岡田医院が開業し、和風建築の主屋、タイル張りで洋風の要素を持つ診療所棟ともに同年頃に竣工しています。

(写真)旧岡田医院診療所棟。登録有形文化財

(写真)旧岡田医院診療所棟。

(写真)旧岡田医院診療所棟。

 

雅休邸(旧岡田医院)では給水塔や塀も登録有形文化財に登録されています。給水塔は主屋の正面の庭にありますが、なぜこんな邪魔そうな場所に建てたのか気になります。

(写真)旧岡田医院給水塔。登録有形文化財

(写真)旧岡田医院塀。登録有形文化財

 

1.7 岡田工業知多工場

岡田市街地から南東に約700m歩くと、タイル張りの個性的な事務所を有する岡田工業知多工場があります。

(写真)岡田工業知多工場。

 

岡田工業知多工場を訪れる

(写真)岡田工業知多工場の事務所。

2023年(令和5年)9月、愛知県知多市岡田町にある岡田工業知多工場を訪れました。

近代建築と思われるタイル張りの個性的な事務所があり、事務所の前には創業者である浅田磯弌(浅田磯一、あさだいそいち)の銅像「浅田磯弌翁像」があります。「知多岡田を訪れる」「知多岡田の映画館」に続きます。

 

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1. 銅像「浅田磯弌翁像」

1.1 碑文

浅田磯弌翁像

従六位勲六等浅田磯弌翁は明治二十二年一月四日大府町

に誕生大正八年岡田町に浅田織布工場を創設す爾来四十

八年間大高町に大高工場昭和八年大府町に浅田人絹織布

工場を建設昭和十四年名古屋市岡田工業㈱の社長に就任

率先垂範社運の高揚発展に盤石の礎を築かる繊維界及び

鉄鋼界の宏大なる功労に依り叙勲の御命に浴し単光旭日

章を授けられ昭和四十二年五月二十九日逝去せらるるや

生前の功績天聴に達し従六位に叙せらる 翁は至誠温厚

殊に敬神崇祖の念篤く社員一同は常住慈父の如く敬慕し

て止まず兹に会社創業五十周年を記念して胸像を建立し

謹みて翁の人徳雄姿を永劫に鑚仰せんとす

昭和四十四年十一月十一日 浅田繊維工業株式会社社員一同

(写真)銅像「浅田磯弌翁像」。

 

2. 浅田磯弌

2.1 浅田磯弌の経歴

「浅田磯弌翁像」から経歴の要点を抜き出すと以下のようになります。

1899年(明治22年)1月4日、浅田磯弌(浅田磯一)は愛知県知多郡大府町(現・大府市)に生まれた。1918年(大正7年)には知多郡岡田町(現・知多市)に浅田織布工場を作り、その後知多郡大高町(現・名古屋市)に大高工場を、1933年(昭和8年)に大府町に浅田人絹織布工場を作った。1939年(昭和14年)には名古屋市に岡田工業株式会社を設立し、自身が社長に就任した。

1967年(昭和42年)5月29日に死去した。生前には旭日単光章を受勲し、死後には従六位に叙せられた。1969年(昭和44年)11月11日、浅田繊維工業は創業50周年を記念して胸像を建立した。

(写真)岡田工業知多工場の事務所。

 

1923年(大正12年)の『愛知県商業名鑑』によると、合名会社浅田織布工場は1920年大正9年)6月創業、1924年大正13年)に知多商業会議所が発行した『知多商工案内』によると、合名会社浅田織布工場は1920年大正9年)6月8日設立とあります。碑文の年月とは2年のずれがありますが、創業が1918年(大正7年)で会社設立が1920年大正9年)ということでしょうか。

(写真)『知多商工案内』知多商業会議所、1924年

 

各年版の『大衆人事録』には浅田磯弌も掲載されています。1889年(明治22年)1月4日に伴政市の長男として生まれ、1905年(明治38年)に半田農業学校を卒業。時期は不明ですが浅田平太郎の養子となり、1919年(大正8年)に浅田織布工場を創設しました。

社業のほかには岡田町会議員、知多白木綿同業組合代議員、岡田自動車監査役知多郡綿布工維理事、福井精練名古屋工場監査役、愛知工機取締役、日本綿工連評議員、名古屋会館取締役、中部産業連盟理事なども務めていたようです。

1940年(昭和15年)に岡田工業の副社長に就任し、1943年(昭和18年)には岡田工業とアサダ商事の社長に就任し、1950年(昭和25年)には浅田貿易の社長に就任。1946年(昭和21年)に半田商工会議所が新発足した際には副会頭に就任しています。

(写真)『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年

(写真)『大衆人事録 第19版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1957年。

 

2.2 料亭 櫻明荘

明治末期頃、2代目近藤友右衛門(近藤涛声)は名古屋・白壁に本宅として涛声閣を建造。近藤友右衛門は綿布問屋である信友の創業者です。

1948年(昭和23年)には浅田磯弌が涛声閣を買収した上で、愛妾(後に本妻)の芸者 浅田夏子を経営者とする料理旅館の鴎盟荘(鸚盟荘、おうめいそう)が開業しました。鴎盟荘は名古屋の財界人が集まる格調高い料亭とされていたようです。

 

1966年(昭和41年)に浅田磯弌が死去すると、浅田磯弌の息子と浅田夏子の間で遺産相続に関する一悶着があり、また浅田夏子は鴎盟荘の土地を狙った悪徳業者に騙されたことで、1971年(昭和46年)には12億~13億円の負債を抱えて廃業しました。

1972年(昭和47年)夏には日本信販が鴎盟荘の土地や建物を取得し、1974年(昭和49年)10月には名称を櫻明荘(読みは同じおうめいそう)に改めたうえで、会員制料亭として営業を再開しています。

 

2004年(平成16年)には坂倉建築研究所の設計によって、料亭 櫻明荘の跡地に7階建て高級マンションのグランドメゾン白壁櫻明荘が竣工。『新建築』2005年2月号にも掲載されています。敷地入口には長屋門がありますが、この門は料亭 櫻明荘時代の長屋門の復元であるように思われます。

参考:『中部財界』1973年9月号、『中部財界』1980年10月号、瀬口哲夫「櫻明荘の建築と空間構成」『芸術工学への誘い』名古屋市立大学、2004年3月

 

日田市立淡窓図書館を訪れる

(写真)湯川秀樹による扁額「長竿石磯中」。

2024年(令和6年)3月、大分県日田市の日田市立淡窓図書館を訪れました。「日田市の映画館」に続きます。

 

1. 日田市立淡窓図書館

1.1 扁額「長竿石磯中」

日田市立淡窓図書館という名称は、江戸時代の日田の儒学者である廣瀬淡窓(広瀬淡窓)に由来します。

図書館に入ると正面には「長竿石磯中」(ちょうかんせっきちゅう)と書かれた湯川秀樹博士の扁額が掲げられていました。湯川が1972年(昭和47年)4月16日に日田市で講演を行った際、淡窓図書館を訪れて揮毫・寄贈したものだそうです。

広瀬淡窓による七言絶句「江村」の結句「長竿挿在石磯中」(長竿さしはさんで石磯の中にあり)を縮めたものとの説明書きがありました。「魚が釣れ、日が暮れたため、明朝まで不要の釣竿を川辺の石に突き刺して帰った」という意味だそう。『荘子』に「魚を得て竿を忘る」という一節があることから、広瀬淡窓はこの結句に(読書の要諦として)「本旨をつかんだら言葉を忘れてもよい。枝葉末節にこだわらず、まず本旨をつかめ」という意味を込めたようです。

(写真)湯川秀樹による扁額「長竿石磯中」。

 

 

1.2 進撃の巨人コーナー

進撃の巨人』で知られる漫画家の諫山創日田郡大山町(現・日田市)出身であり、日田市は『進撃の巨人』を用いたまちおこしを行っています。図書館の郷土資料コーナー脇には進撃の巨人コーナーがあり、単行本が並べられていました。

下段には『進撃の巨人』が特集された雑誌『ダ・ヴィンチ』2014年10月号がありましたが、この作品はもっと多くの雑誌やメディアに取り上げられているはずで、片っ端から収集して展示すれば聖地巡礼の拠点になるのにと思いました。

(写真)進撃の巨人コーナー。

 

1.3 郷土資料

(写真)郷土資料コーナー。

 

2. 映画館名簿

2.1 『全国映画館録 昭和11年度』

1935年(昭和10年)にキネマ旬報社によって発行された『全国映画館録 昭和11年度』によると、同年の大分県の映画館は22館であり、日田市の映画館として朝日館が掲載されています。所在地が「水郷日田町」と書かれていますが、日田市ではよく天領日田や水郷日田(水郷ひた、すいきょうひた)などという言い方がなされるようです。

なお、明治大正期の映画は活動写真と呼ばれていましたが、大正末期から昭和初期にかけて、サイレント映画からトーキー映画に移行する時代になると、映像の芸術性を志向するようになって映画という呼び名が定着していきます。1935年(昭和10年)刊行のこの文献も『全国活動写真館録』ではなく『全国映画館録』となっています。

 

2.2 『映画便覧 1963』

全国の映画観客数のピークは1958年(昭和33年)であり、映画館数のピークは1960年(昭和35年)でした。昭和30年代中頃から1964年(昭和39年)まで、日田市には7館の映画館があり、朝日館と五楽館と朝日センターの3館は蒲池正彦の経営館、日田映劇と日田東映と世界館の3館は穴井玉喜の経営館、日活劇場は植山文治の経営館です。

 

日田市の映画興行主

蒲池正彦は戦前から朝日館を経営していた人物であり、五楽館と朝日センターは映画黄金期に他者から買収した映画館のようです。

穴井玉喜は大分県議会議長を務めた穴井助三の息子と推測されます。穴井助三の父は炭鉱経営者でもあった穴井愼汪であり、江戸時代の先祖には義民の穴井六郎右衛門がいます。

植山文治は福岡県北九州市小倉区の三萩野大映を拠点としていた興行師です。北九州市では八幡区でも八幡名画座や有楽映劇を、大分県では豊後高田市でも高田東映名画座を経営していました。その後、有楽映劇の経営会社は植山が設立した豊映文化産業となり、2010年代前半まで有楽映劇の経営者の欄には植山の名前が見られます。2005年(平成17年)には有楽映劇が佐々部清監督の映画『カーテンコール』のロケ地となり、2019年(令和元年)まで成人映画館として営業を続けました。

 

2.3 『映画館名簿 1992』

1981年(昭和56年)頃には日田朝日館が建物を立て替え、蒲池正彦に代わって蒲池明彦が2代目経営者となりました。1991年(平成3年)9月2日には日田市最後の既存興行館である日田朝日館が閉館し、同年頃には西日本観光株式会社によって日田リベルテが開館します。

2008年(平成20年)3月には大卒1年目の女性が日田リベルテの支配人に就任したという新聞記事がありますが、半年後にはもう休館に追い込まれているのが気になります。2009年(平成21年)6月、日田シネマテークリベルテは原茂樹を代表として営業を再開します。

 

2.4 『映画館名簿 2010』

2000年(平成12年)には大分県初のシネコンとしてシネフレックス東宝(現・TOHOシネマズ大分わさだ)が開館し、2002年(平成14年)にも大分市内にT・ジョイパークプレイス大分が開館したことで、大分市別府市などの大分都市圏では既存興行館が軒並み閉館しました。

2024年(令和6年)現在の大分県にある映画館はわずか9施設であり、内訳はシネコンが4施設(計38スクリーン)、ミニシアターが4施設(計5スクリーン)、成人映画館が1施設です。九州地方の他県と比べるとミニシアターや成人映画館の施設数が多い印象があります。