振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

ウィキペディアタウン丸亀城下町に参加する(1)

2017年5月21日(土)、「ウィキペディアタウン丸亀城下町」に参加した。

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丸亀平野を見渡す

前日の土曜日は高松市をうろついた後に男木島に渡り、16時を過ぎてからイベントの主催者陣と合流して少しばかりまちあるきした。

当日の日曜日は朝の7時50分にJR丸亀駅に集合し、主催者である中俣さん(香川短期大学)や大西さん(シロタラボ)らに「よしや」に連れて行ってもらう。飯野山(讃岐富士)の麓にある「よしや」に入ると、飯野山登山に向かうと思しき団体客で行列ができた。道路を挟んでローソンがあることで、この場所は登山の拠点になっているらしい。後から地図を見返すと、「よしや」のすぐそばには丸亀市立飯山図書館があり、飯山図書館の近くには条里制の痕跡のようなものも見えてくる。

讃岐平野という言葉はよく聞くけれど、Google Earthを見ると讃岐平野が3つの平野の集合体であることがよくわかる。高松平野(&大川平野)、丸亀平野、観音寺市を中心とする三豊平野は、それぞれ同じくらいの面積で広がっている。丸亀平野には丸亀市のほかに坂出市善通寺市があり、四国4県と岡山県を結ぶ交通の要衝になっている。今日の丸亀市讃岐国/香川県の中心地とならなかったのは、ほんとにささいなことが理由なのだろう。
Google Earthでは丸亀平野を南から北に流れる土器川扇状地形状がはっきり見える。丸亀平野には無数のため池が穴ぼこのように開いているが、地図で見る限りでは3平野の中でもっともため池が多い。金倉川を上流にたどっていくと1300年も前に築かれた満濃池に至る。

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 (左)「よしや」のうどん。(右)丸亀平野と飯野山。撮影:663highland。

 

説明を聞く

イベント自体は城乾コミュニティセンターで9時30分に開始された。本日のまちあるき対象地の南条町にあり、立地面は文句なしだった。Wi-Fiなどの設備がないのは仕方ない。今回の参加者の中では、Strolyの高橋徹さんとは(前日に)初めてお会いした。高橋さんは関西在住とのこと。これまでもどこかでお会いするだろうと思っていたが、なぜだか会う機会がなかった。お会いしたことのある方では玉野市の小郷原さんがいた。

第一部(午前)は座学とまちあるき。まずは東京ウィキメディアン会の海獺さんによるウィキペディアウィキペディアタウンの説明。スライドは見るたびに改良されている。その地域で初めて行われるウィキペディアタウンでは、くさかさんとかではなく海獺さんの説明/スライドが効果的だと思う。海獺さんやくさかさんが所属している謎の団体「東京ウィキメディアン会」には私も加えてもらっているが、いったい何をやっている団体なのでしょうか。

高橋徹さんによるStroly(古地図と現代の地図を連動させるアプリ)の説明がこの日のハイライトだった。Wikipedia Town ×高遠ぶらりでもちずぶらりを使ったが、その時には自治体ごとの分断感を感じていた。Strolyはいろんな都市のいろんな古地図を集めているうえに、方角や距離が正確でない絵地図と現代の地図を瞬時に切り替えることができるというのが衝撃だった。また紙製の地図が日の目を見る時代になるとは。

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まちあるきする

城乾コミュセンを出てまちあるきを開始すると、さっそく説明が入る。建物前のこの道はかつて水路で、丸亀城の外堀と瀬戸内海の湊を結んでいたらしい。確かに東側より何メートルか低くなっている。そしてこの水路が丸亀城下と那珂郡地方村を隔てていたという。水路が外堀に達する地点まではいかずに、玄要寺の境内にある京極高朗墓所に向かう。年一回開かれるという墓所を見学させてもらう。かつて玄要寺はかなり大きな敷地を有していたらしい。
高朗墓所を出ると金毘羅街道を北上する。下に掲載した「丸亀城郭及び城下町古絵図」にも描かれている街道であり、舗装に変化が付けてある。すぐ東側を県道が通っているので歩行者は多くなく、まちあるきには都合がいい。

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この日歩いたコース。城乾コミュセン前の道路がかつての水路。作成:OpenStreetMap contributors。

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Strolyのサイト内の「丸亀城郭及び城下町古絵図」(享和2年=1802)より。右下には内堀が見えている。赤丸が今回のまちあるき範囲。ピンはウィキペディアの記事に飛ぶ。これは楽しい。

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南条町は明治11年まで上南条町と下南条町に分かれていた。丸亀城に近いのが上南条町(南側)で、湊に近いのが下南条町(北側)。今日の南条町を二分している県道を超え、かつての下南条町に入る。玄要寺とともに記事作成予定の寿覚院に入ると、丸亀市指定文化財の観音堂があった。

金毘羅街道をさらに北上すると、法音寺の脇に劇場「戎座」跡の碑があった。高松にあった劇場を明治17年に移築したらしい。余談ながら、『丸亀市史』によると昭和13年時点における丸亀市の映画館は丸亀劇場、新町座、地球館、蓬莱館、帝国館の5館があった。高松とは違って丸亀は空襲を受けず、戦後の一時期には香川県下での洋画上映をリードしたのは丸亀だったという。『全国映画館総覧 1953年版』によると1953年には日本劇場、銀映劇場、蓬莱館、地球館の4館。同時期の高松市には10館、坂出市にも4館の映画館があった。『キネマ旬報1957年1月1日号によると、映画最盛期の1957年には蓬莱館、日本劇場、丸亀東宝、丸亀文化劇場、地球館、丸亀東映、有楽座の7館に増えている。その後映画館は減少に転じ、1999年には丸亀市最後の映画館である丸亀東映が閉館した。
※余談部分はまちあるき時に説明されたことではないです。独自研究です。

いったん本町に入った後、幸町の消防団分団屯所まで来てまちあるきを終える。丸亀市立図書館は1965年までこの地にあったらしい。ウィキペディアの「丸亀市立図書館」は所在地の変遷がわかりにくいため、年配者の丸亀市民でなくとも変遷がわかる地図を加えたい。文字情報だけで地図を作成するのは苦しく、今回のイベントでガイドを務めてくださった方々の知識が欠かせない。

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 (左)スタート地点の城乾コミュセン。(右)最初の目的地の京極高朗墓所

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 (左)丸亀城外堀跡の碑。(右)金毘羅街道の存在を示す碑。

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(左)寿覚院の観音堂。丸亀市指定文化財。(右)1965年以前に丸亀市立図書館があった場所。現在は消防団分団屯所。