振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

養老町の映画館

f:id:AyC:20190804001938j:plain

(写真)養老町役場。 

2019年(令和元年)7月、岐阜県養老郡養老町を訪れました。かつて養老町には映画館「高田劇場」「文化劇場」がありました。

 

1. 養老町を訪れる

養老町岐阜県の西濃地方に位置する自治体。名古屋市から公共交通機関を使って訪れる場合は、岐阜県大垣市から養老鉄道で南下するか、三重県桑名市から養老鉄道で北上する方法があります。養老の滝や養老天命反転地などの観光名所があり、名神高速道路の養老サービスエリアなどもあるため、自治体規模の割には知名度の高い自治体かもしれません。

f:id:AyC:20190804003302p:plain

(地図)愛知県名古屋市から見た岐阜県養老町の位置。©OpenStreetMap contributors 

 

養老町は1954年(昭和29年)に1町9村が合併して発足した町です。かつて養老郡役所が置かれたのは養老郡唯一の町だった高田町ですが、養老村にあった養老の滝(養老公園)は全国的な観光地であり、政治経済の中心と観光の中心が分かれていました。通勤通学客の多い美濃高田駅無人駅ですが、観光客の多い養老駅は有人駅となっています。

f:id:AyC:20190804001945j:plain

(写真)養老鉄道美濃高田駅

 

2. 養老町図書館

2.1 図書館の施設

養老町民会館の一角にある養老町図書館は1991年(平成3年)に開館した図書館です。図書館部分の延床面積は974m2。図書館内は1階に児童書や郷土資料が、2階に一般書があります。養老町民会館の図書館以外の部分は照明が落とされており、やや図書館に入りづらい雰囲気を感じました。

図書館の開館から30年が経過していますが、古さを感じるほどではありません。図書館内にはエレベーターがないと思われ、階段を使わずに1階から2階に上がる際には図書館外に出る必要があるようです。

郷土資料の書架はカウンター前に置かれていますが、鍵が掛かっていて自由に閲覧できない状態でした。『岐阜新聞』と『中日新聞』から養老町関係の新聞記事を切り抜いてスクラップ集はいい取り組みです。

 

2.2 図書館の統計

岐阜県による県内公共図書館の統計をを見ると、養老町図書館の2015年度末の蔵書数は92,685冊、2015年度の貸出数は63,958冊とのことです。養老町の人口は2万9000人であるため、1人あたり貸出数は2.2冊であり、全国平均を大きく下回っています。

同じ西濃地方の大垣都市圏にある垂井町と比較してみます。垂井町は人口(2万7000人)が養老町とほぼ等しく、タルイピアセンター図書館の開館年(1994年)・蔵書数(98,956冊)も養老町とほぼ等しいのですが、1人あたり貸出数は8.7冊に上り、養老町とは4倍近い差が生じています。何が原因でしょうか。

f:id:AyC:20190804002008j:plain

(写真)養老町図書館が入る養老町民会館。

f:id:AyC:20190804002012j:plainf:id:AyC:20190804002019j:plain

(写真)カバの図書返却ポスト。(右)図書館の入口。

 

3. 養老町の映画館

活気があるというほどではありませんが、養老町中心市街地にある高田商店街ではまだ多くの店舗が営業しています。商店街の西端には村社の愛宕神社が、商店街の東端には愛宕神社御旅所があり、毎年5月に開催される高田祭には、大垣まつりなどと同様に3台の」(やま、山車)が繰り出します。かつて高田商店街には2館の映画館がありました。

f:id:AyC:20190804004712p:plain

(地図)国土地理院 地理院地図 1974年-1978年に加筆

 

3.1 高田劇場(1951年1月30日-1968年頃)

所在地 : 岐阜県養老郡養老町高田(1968年)
開館年 : 1951年1月30日
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「高田劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は食料雑貨店「りんごや」とその北側の駐車場。

映画館名簿によると、1960年代後半まで営業していた映画館として「高田劇場」がありました。映画館名簿や図書館の文献では高田市街地のどこかにあったということしかわかりませんでしたが、「タギゾウくんの養老ノート」というサイトによると大晃堂内科医院の近くにあったようです。個人サイト的でもあるこのサイトの運営者はよくわかりませんが、『養老郡誌』や『養老町史』を電子化したコンテンツなどがあることから、養老町当局が関わっているものと思います。

大晃堂内科医院の正面には駐車場があり、その西側には「りんごや」という食料雑貨店がありました。店内では2人の男性が座って話しており、主人に訪ねてみるとこの「りんごや」が映画館「高田劇場」の跡地だそうです。1970年代の航空写真を見ると映画館らしき建物が写っており、閉館後もしばらくは建物が残っていたようです。なお、60代に見えた「りんごや」の主人は映画館時代の経営者ではないそうです。

f:id:AyC:20190804002032j:plainf:id:AyC:20190804002039j:plain

(左)西から見た高田劇場跡地。(右)東から見た高田劇場跡地。

f:id:AyC:20190806001709p:plain

(地図)国土地理院 地理院地図 1974年-1978年に加筆 ※上にあげている航空写真と同じ

f:id:AyC:20190806181417j:plain

 (写真)『たか田』(「たか田」編纂委員会、1954年)に掲載された高田劇場の広告。

 

3.2 文化劇場(1951年頃-1955年頃)

所在地 : 岐阜県養老郡高田町(1955年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は高田商店街南東部にある「川瀬新聞舗」。

映画館名簿によると、高田劇場より早く1950年代後半に閉館した映画館として「文化劇場」がありました。映画館名簿や図書館の文献では高田市街地のどこかにあったということしかわかりませんでしたが、「りんごや」で主人と話していた常連客によると、現在の「川瀬新聞舗」の場所にあったようです。

この場所は高田商店街の南東端にあり、道路を挟んで正面には愛宕神社御旅所や養老町国際学習会館があります。国際学習会館の場所には1979年(昭和54年)から2004年(平成16年)まで、養老町出身の作曲家である山口俊郎を顕彰する山口会館(初代)が建っていたようです。

f:id:AyC:20190804002517j:plain

(写真)高田商店街と文化劇場跡地。右は養老町国際学習会館。

 

養老町の映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、また映画館の場所については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

 

新城市つくで交流館図書室を訪れる

f:id:AyC:20190730170523j:plain

(写真)図書室がある新城市つくで交流館。

 

 2019年6月、愛知県新城市の作手(つくで)地区を訪れ、新城市つくで交流館図書室や映画館「常盤映画劇場」の跡地をめぐりました。

 

1. 新城市作手地区を訪れる

南設楽郡作手村は愛知県の東三河地方にあった自治体。2005年(平成17年)には南設楽郡鳳来町とともに新城市編入合併されました。平成の大合併以前の愛知県に7あった村のひとつであり、合併直前の人口は約3,200人でした。

f:id:AyC:20190801154118p:plain

(地図)愛知県における新城市の位置。©OpenStreetMap contributors 

 

新城市街地のJR新城駅などから作手市街地には、新城市コミュニティバス「Sバス」が1日7往復(休日は1日4.5往復)運行されています。乗車時間は約40分。標高60m程度の新城市街地から標高530m前後の作手高原までバスが一気に上っていくのが爽快です。以下の地形断面図を見るとわかるように、2km地点から8km地点までの6kmを走るだけで標高差400mも登ります。山間部の盆地にある設楽町田口地区や東栄町本郷地区とは異なり、作手村は平坦な高原上にあるため、水田が広がっていて解放感があります。年平均気温は摂氏12.5度とのことで、名古屋市と比べると摂氏3-4度も低く快適な気候です。

f:id:AyC:20190803221728p:plain

(地図)作手地区周辺の色別標高図。国土地理院 地理院地図に加筆

f:id:AyC:20190801153858p:plain

(図)「Sバス」作手線の地形断面図。国土地理院 地理院地図より作成

 

f:id:AyC:20190730161412j:plainf:id:AyC:20190730161419j:plain

(左)新城市コミュニティバス「Sバス」。(右)作手地区のターミナルである作手高里バス待合所。

f:id:AyC:20190730170554j:plain

(写真)作手地区の中心部にある「作手総合支所東」交差点とその周辺。

 

1.1 新城市作手歴史民俗資料館

作手市街地の中心部には新城市作手歴史民俗資料館がありました。かつて作手にあった映画館について尋ねてから作手市街地を散策しました。

f:id:AyC:20190730161430j:plainf:id:AyC:20190730161438j:plain

(左)作手歴史民俗資料館の外観。(右)作手歴史民俗資料館の2階。

 

2005年(平成17年)に南設楽郡作手村新城市編入されてから12年後、2017年(平成29年)には新城市役所作手支所が新築移転し、同時期には旧作手村役場の場所に「新城市つくで交流館・新城市立作手小学校」(複合施設)が完成しています。この2施設は地元産の木材を用いた木造平屋建ての建物であり、2014年(平成26年)に北設楽郡設楽町に完成した設楽町役場・設楽町民図書館と同じです。

f:id:AyC:20190730170636j:plain

(写真)新城市役所作手支所。

 

1.2 愛知県立新城東高校作手校舎

私が乗車した新城市コミュニティバス「Sバス」には、新城市街地から愛知県立新城東高校作手校舎に通う高校生も乗車していました。作手村に隣接していた額田郡額田町や東加茂郡下山村には過去にも高校がなかったのに、作手村には現在も高校の校舎が存在しているうえに、1978年(昭和53年)から2011年(平成23年)までは愛知県立作手高校という独立した学校だったようです。

豊鉄バス「作手線」が新城市コミュニティバスに移管されて利便性が向上し、作手地区内からの入学者よりも作手地区外からの入学者のほうが多くなったそうです。新城東高校作手校舎のすぐ南側には、水田の中にたたずむ鎮守の森が青空に映える粕塚八幡宮がありました。

f:id:AyC:20190730161448j:plainf:id:AyC:20190730161455j:plain

(左)北から見た粕塚八幡宮。(右)南から見た粕塚八幡宮。左奥は愛知県立新城東高校作手校舎。

f:id:AyC:20190730170710j:plain

(写真)愛知県立新城東高校作手校舎。

 

1.3 作手地区の農地

作手地区の農地は水田が中心ではありますが、ビニールハウスも目立ちます。同じように高原上に位置する設楽町津具地区ではビニールハウスでトマトを栽培していましたが、作手地区では菊を栽培しているようです。愛知県で菊といえば渥美半島の電照菊が有名ですが、作手村の菊には何か特色があるのでしょうか。

f:id:AyC:20190730161516j:plainf:id:AyC:20190730161523j:plain

(左)水田とビニールハウスが混じる作手清岳の農地。(右)農地の中央を通る用水路。

f:id:AyC:20190730161534j:plainf:id:AyC:20190730161559j:plain

 (左)ビニールハウスで栽培されている菊。(右)ビニールハウスの暖房機用燃料タンク。

 

1.4 作手谷中分水点

作手高原からは北に向かって矢作川水系巴川が、南に向かって豊川水系巴川が流れており、愛知県を代表する両河川の分水界となっています。基本的に東三河地方は豊川水系(と天竜川水系)に属しますが、水系を考えると作手地区は東三河地方と西三河地方の中間に位置するようです。両河川は作手高原でわずか2kmの距離にまで迫っており、農地の中央を流れる用水路で結ばれています。このため、作手高原上の標高530m地点には水流が北と南に分かれる地点(作手谷中分水点)があります。分水界(分水点)は一般的に山地の稜線であり、平地が分水界となる谷中分水点(谷中分水界)は全国的に見ても珍しいものです。

f:id:AyC:20190801154257p:plain

(地図)矢作川水系豊川水系の分水界に位置する作手市街地。©OpenStreetMap contributors

f:id:AyC:20190801154338p:plain

(写真)2つの巴川の上流部と作手谷中分水点。国土地理院 地理院地図 空中写真に加筆

f:id:AyC:20190730161606j:plainf:id:AyC:20190730161615j:plain

(左)豊川矢作川分水点の縦長看板と説明看板。(右)豊川矢作川分水点。

 

 

1.5 作手地区の芸者置屋

作手歴史民俗資料館では70代の男性職員に「芸者置屋があった」という話を聞きました。『作手村誌』には昭和20年代の作手市街地における商店マップが掲載されており、市街地北端部の安ノ沢という小字には芸者置屋が2軒、他の地点にもさらに1軒あったようです。

f:id:AyC:20190730161624j:plainf:id:AyC:20190730161636j:plainf:id:AyC:20190730161647j:plain

(写真)芸者置屋があった小字。(左)右の民家の地点に2軒の芸者置屋があったとされる。

 

 

2. 新城市作手交流館図書室を訪れる

2.1 2017年完成の複合施設

新築された新城市役所作手支所の場所には、かつて新城市作手開発センターがあり、3,000冊程度の蔵書を有する図書室があったようです。2017年(平成29年)には「新城市つくで交流館・新城市立作手小学校」(複合施設)が完成し、新城市つくで交流館図書室が開館しました。

この複合施設は芝生の中庭を取り囲むように「ロ」の字型に建物が配置され、東側には土のグラウンドがあります。靴からスリッパに履き替えて建物内に入ると、すぐ右手に図書室があり、奥の左手に多目的ホールがあります。奥の右手には多目的ルームがあり、調理室や和室などもあります。中庭は交流館と小学校の共有スペースです。小学校の専有スペースには市民が立ち入れないようになっています。

f:id:AyC:20190730170747j:plain

(写真)新城市立作手小学校・新城市つくで交流館。

f:id:AyC:20190730161705j:plainf:id:AyC:20190730161656j:plain

(写真)新城市立作手小学校・新城市つくで交流館。

 

f:id:AyC:20190730161729j:plainf:id:AyC:20190730161738j:plainf:id:AyC:20190730161749j:plain

(写真)新城市つくで交流館の内部。(左)つくで交流館の廊下から見た中庭。(中)つくで交流館ホール。(右)つくで交流館図書室。

f:id:AyC:20190730161812j:plainf:id:AyC:20190730161804j:plain

 (写真)新城市立作手小学校・新城市つくで交流館の中庭。

 

2.2 新城市つくで交流館図書室

交流館図書室の入口にはカウンターがあり、交流館の受付と図書の貸出返却窓口を兼ねているようです。図書室の東側には3方向に壁面書架が設置されているほか、中央部にも2つの書架が置かれています。机のある学習席、青色とオレンジ色のソファ席、黄色の背もたれ付きソファ席と、10人程度が座って本を読めるスペースがあります。

書庫はないと思われます。開架の蔵書数を確認したところ、一般書が約1,000冊、郷土資料が約100冊、文芸書が600-800冊、参考図書が200-300冊、児童書が200-300冊、絵本・紙芝居が500-1,000冊といったところでしょうか。新城図書館の「大阪圭吉コーナー」のような特設コーナーなどは存在しません。蔵書の充実のために300万円を寄贈した中川良隆氏についての紹介がありました。

特に一般書はこの数年で購入された新しい本が目立ち、古い本は廃棄したか新城図書館の書庫に移動されたのかもしれません。交流館図書室の蔵書は新城図書館と一体化させて管理されているそうですが、公民館図書室から公共図書館への昇格はなされておらず、今でも新城市公共図書館は新城図書館の1館だけです。交流館図書室内の写真を撮りたいというと、「宣伝になるから」と快く許可してくださいました。

 

中川良隆氏

1934年 愛知県南設楽郡作手村田原生まれ

1964年 東北大学医学部を卒業

1969年 東北大学大学院医学研究科を卒業

1981年 静岡県三島市に中川内科医院を開業

2012年 大塚敬節記念東洋医学賞を受賞

f:id:AyC:20190730170907j:plain

(写真)新城市つくで交流館図書室。書架が置かれている東側半分。

f:id:AyC:20190730161837j:plainf:id:AyC:20190730161843j:plainf:id:AyC:20190730161848j:plain

 (写真)新城市つくで交流館図書室。書架が置かれている東側半分。

f:id:AyC:20190730161909j:plainf:id:AyC:20190730161904j:plain

 (写真)新城市つくで交流館図書室。書架が置かれている東側半分。(左)文芸書。(右)一般書。

f:id:AyC:20190730161931j:plain

 (写真)新城市つくで交流館図書室。西側にある絵本コーナー。

  

 

3. 作手地区の映画館

3.1 常盤映画劇場(-1960年代中頃)

所在地 : 愛知県南設楽郡作手村高里8
開館年 : 1955年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「常盤映画劇場」。1960年の映画館名簿では「常盤映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。現在の新城市作手地区にあった唯一の映画館。

映画館名簿には作手村唯一の映画館として「常盤映画劇場」(常盤映劇)が登場します。作手歴史民俗資料館で70代の男性職員に映画館について聞いたところ、「(Aコープ作手店と作手郵便局の中間付近にある)現在の齋藤新聞店近くに映画館があったというような話を聞いたことがある」とのことでした。55年ほど前になくなっている映画館ですし、晩年は散発的に興行を行うだけだったのかもしれません。

作手村誌 本文編』(新城市、2011年)には昭和20年代作手村中心部にあった商店の地図が掲載されており、住民への聞き取りによって作成されたそうです。この地図にも常盤映画劇場は掲載されていませんが、映画館が開館したのは昭和30年代初頭のことだと思われるため、時期的には掲載されていなくてもおかしくありません。交流館図書室には作手村誌の編纂に携わった女性職員がおり、常設映画館については「まったく聞いたことがない」とのことでしたが、「作手村でもナトコ映画の上映会が開催されていたことは把握している」とのことでした。

f:id:AyC:20190730161943j:plain

(写真)常盤映画劇場があったと思われる地点付近。左は齋藤新聞店。右奥に作手郵便局。

 

あわら市の映画館

f:id:AyC:20190730160951j:plain

(写真)ストリップ劇場「あわらミュージック劇場」。

2019年(令和元年)7月、福井県あわら市の金津市街地と芦原市街地を訪れました。かつてあわら市には映画館「金津東映劇場」や「芦原文化映画劇場」がありました。

 

1. あわら市を訪れる

1.1 あわら市の沿革

あわら市福井県北部にある人口3万人弱の自治体。2004年(平成16年)に坂井郡金津町と芦原町が合併して発足しました。2006年(平成18年)には坂井郡の残り4町が合併して坂井市が発足しており、坂井郡の6町は平成の大合併で2市に再編されています。

あわら市坂井市には、JR北陸本線えちぜん鉄道三国芦原線の2本の鉄道路線が通っています。しかし、JR芦原温泉駅は旧芦原町ではなく旧金津町にあり、芦原温泉街の最寄駅はえちぜん鉄道あわら湯のまち駅です。また、JR丸岡駅は旧丸岡町ではなく旧坂井町にあり、丸岡城の近くには鉄道駅がありません。芦原温泉街や丸岡城を公共交通機関で訪れるのはやや不便であり、観光客にとってはわかりにくい鉄道網に見えます。

f:id:AyC:20190730185950p:plain

(地図)福井県におけるあわら市の位置。©OpenStreetMap contributors

f:id:AyC:20190730185958p:plain

(地図)平成の大合併による坂井郡6町の再編。©OpenStreetMap contributors


1.2 旧芦原町を訪れる

現在のあわら市の西部にあったのが坂井郡芦原町(あわらちょう)です。芦原温泉福井県最大の温泉街であり、芦原温泉 - Wikipediaによると「大正から昭和初期の旅行・観光ブームにのり発展した」そうです。この大正・昭和戦前期から営業している旅館も多くありますが、1956年(昭和31年)には芦原大火に見舞われているため、温泉街の建物の大半は芦原大火後に建てられたものです。

 

あわら市芦原図書館

芦原温泉はえちぜん鉄道線の北側に形成されていますが、あわら市芦原図書館があるのはあわら湯のまち駅の南側です。あわら市湯のまち公民館の脇にある独立した建物であり、開館は1988年(昭和63年)、延床面積は695m2です。

蔵書数は約6万冊であり、旧坂井郡6町すべてに1館ずつある図書館の中ではもっとも規模の小さい図書館です。開架室からはみ出してロビーにまで書架が置かれていました。芦原温泉に関する郷土資料は一通りありますが、本の貸し借りに特化した旧来型の図書館という雰囲気であり、温泉客が訪れて楽しめる図書館ではありません。

f:id:AyC:20190730160956j:plainf:id:AyC:20190730161009j:plain

(左)あわら市芦原図書館。(右)左はあわら市湯のまち公民館。右があわら市芦原図書館。

 

旅館べにや

芦原温泉街には旅館「べにや」があります。この老舗旅館は1884年明治17年)創業であり、芦原大火直後の1957年(昭和32年)には数寄屋造りで本館が再建されています。明治時代には政治家の伊藤博文後藤新平が、大火後の建物には皇太子時代の上皇夫妻、作家の水上勉や俳優の石原裕次郎が宿泊しているそうです。

2015年(平成27年)には本館が登録有形文化財に登録されましたが、2018年(平成30年)5月5日の失火により焼失してしまいました。シンボル的存在だった樹齢250年のシイの大木だけが残っており、更地となった敷地にはシートで目隠しがされていました。2020年(令和2年)夏の営業再開を目指して、今後建物の再建が行われるようです。

f:id:AyC:20190730180522j:plain

(写真)旅館「べにや」跡地。玄関脇のシイの大木は無事だった。

 

1.3 旧金津町を訪れる

現在のあわら市の東部にあったのが坂井郡金津町(かなづちょう)です。JR北陸本線芦原温泉駅には北陸新幹線の駅が設置される予定であり、2022年度(令和4年度)の福井延伸開業に向けて工事が進められています。

金津町の人口は1万5000人程度であり、また芦原温泉街からも離れているため、駅前商店街の規模は大きくありません。駅前のビルからは昭和の香りが漂っており、3年後には新幹線が停車する駅になることが信じられません。駅前からは芦原温泉街行きのバスの他に、丸岡市街地行きのバスも発車しています。

f:id:AyC:20190730161052j:plainf:id:AyC:20190730161058j:plain

(左)JR北陸本線芦原温泉駅。(右)芦原温泉駅前のビル群。

 

あわら市金津図書館

芦原温泉駅から駅前通りを歩いて徒歩10分の場所には、あわら市発足後の2013年(平成25年)に開館した「金津本陣IKOSSA」があります。1階にあわら市金津図書館が入っており、あわら市のメイン図書館に位置付けられているようです。あわら市図書館の利用者カードを作成できるのは、「あわら市在住・在学・在勤者、坂井市在住者、石川県加賀市在住者」。あわら市と石川県加賀市との間で交流がどれだけあるのか気になります。

一般名詞としての本陣は街道の宿場にある宿泊施設を指しますが、金津町では各地区にある公民館的施設のことを本陣と呼ぶようであり、全17区に本陣があるようです。

f:id:AyC:20190730161134j:plain

(写真)あわら市金津図書館が入る「金津本陣IKOSSA」。

 

2. あわら市の映画館

2.1 金津会館(1946年11月-1962年頃)

所在地 : 福井県坂井郡金津町六日(1962年)
開館年 : 1946年11月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「金津会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1947年(昭和22年)1月1日、坂井郡金津町六日に公会堂兼映画館の金津会館が開館しました。映画館名簿には1962年(昭和37年)版まで掲載されていますが、正確な跡地は不明です。

 

2.2 芦原文化映画劇場(1953年頃-1966年頃)

所在地 : 福井県坂井郡芦原町二面(1966年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「芦原文化映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

坂井郡芦原町の芦原温泉街の東側にある二面温泉地区には芦原文化映画劇場(芦原文映)がありました。1953年(昭和28年)の芦原温泉開湯70周年記念事業と同じ頃に開館したとされ、冬季には豆炭暖房のサービスを行っていたようです。

1965年(昭和40年)のゼンリン住宅地図には二面温泉地区に「映画館」とあり、これが芦原文化映画劇場であるならば、跡地は駐車場と民家になっています。道路を挟んで西側には、廃業した老舗旅館「仁泉」の廃墟がありました。「仁泉」はかなり敷地の広い旅館であり、地形図には池も描かれています。

f:id:AyC:20190730180340j:plain

(写真)芦原文化映画劇場の跡地にある駐車場。

f:id:AyC:20190730203423p:plain

(地図)芦原温泉街における芦原文化映画劇場の位置。国土地理院 地理院地図に加筆

 

2.3 金津東映劇場(1960年頃-1968年頃)

所在地 : 福井県坂井郡金津町新富(1968年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1968年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「金津東映」。1962年・1963年の映画館名簿では「金津東映劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「金津劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「コシカワ写真館」の奥の空き地。

坂井郡金津町のJR芦原温泉駅の近くには金津東映劇場がありました。金津会館が1960年代初頭に金津東映劇場に改称したと思われますが、両者は別施設の可能性もあります。1948年(昭和23年)6月28日には福井地震が起こっていますが、金津会館の建物は無事だったため避難所として使用され、その後は金津町の震災復興対策本部が置かれたそうです。

金津東映劇場の跡地は「若桜料理店」の裏手のようですが、現在は駅前通りから映画館跡地に至る路地はありません。航空写真や地形図を見ると、少なくとも2008年(平成20年)まで金津東映劇場の建物が残っていた可能性があります。

f:id:AyC:20190730161116j:plain

(写真)芦原温泉駅駅前通り。正面が駅。

f:id:AyC:20190730161124j:plainf:id:AyC:20190730161129j:plain

(写真)芦原温泉駅駅前通り。灰色の建物は若桜料理店。ベージュ色の建物はヨシカワ写真館。オレンジ色の建物はニシタ時計店。右の写真の手前は水口橋。金津東映劇場は若桜料理店の奥にあった。

f:id:AyC:20190730202651p:plain

(地図)現在の地形図における金津東映劇場の位置。国土地理院 地理院地図に加筆

f:id:AyC:20190730202704p:plain

(地図)1960年代の航空写真における金津東映劇場の位置。国土地理院 地理院地図に加筆

 

3. あわら市のストリップ劇場

3.1 あわらミュージック劇場(1956年頃-営業中)

あわら温泉を象徴する劇場はストリップ劇場であり、ストリップ劇場「あわらミュージック劇場」が健在です。2010年(平成22年)に石川県加賀市山代温泉)のストリップ劇場「山代劇場」が閉館したことで、北陸4県では唯一のストリップ劇場となりました。『芦原温泉ものがたり』によると「1956年4月の芦原大火後まもなく」、『ストリップのある街』によると「1958年」に開館し、今日まで営業を続けています。

東海3県唯一のストリップ劇場である岐阜市のまさご座は、基本的に1か月のうち10日間が休館となるようです。一方であわらミュージック劇場は、1か月の中で頭興行(上旬)・中興行(中旬)・結興行(下旬)すべてを行うようです。岐阜市のまさご座は1日の興行に5人の踊り子が出演しますが、あわらミュージック劇場は1日の興行に3人しか出演しないようです。

成人映画館の館外には男性の欲情をあおるタイトルやビジュアルのポスターが貼ってあることが多いですが、ストリップ劇場の館外は踊り子のポスターもなく殺風景であり、通りに溶け込んでいます。

f:id:AyC:20190730161040j:plainf:id:AyC:20190730161046j:plain

(左)あわらミュージック劇場がある通り。中央左があわらミュージック劇場。(右)あわらミュージック劇場の入口。

 

映画館について調べたことは「福井県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(福井県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

祖父江町の映画館

f:id:AyC:20190725072302j:plain

(写真)かつて映画館「新豊座」だったパチンコ大和の廃墟。 

2019年(令和元年)7月と2020年(令和2年)10月、愛知県稲沢市の祖父江地区を訪れました。かつて祖父江町には映画館「新豊座」と「森上会館」がありました。関連記事として「稲沢市立祖父江の森図書館を訪れる」があります。

ayc.hatenablog.com

 

 

1. 祖父江町の映画館

1.1 新豊座(1952年頃-1963年頃)

所在地 : 愛知県中島郡祖父江町祖父江南川原(1963年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1963年頃
1950年・1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「新豊座」。1955年の映画館名簿では「新富座」。1958年の映画館名簿では「新豊座」。1960年の映画館名簿では「新富座」。1963年の映画館名簿では「新豊座」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。2015年には合名会社新豊座が稲沢市祖父江町祖父江南川原94番地に設立されている。跡地は「ダイワパチンコ」の廃墟。

 

1950年代から1960年代の映画館名簿には、祖父江町中心市街地の映画館として「新豊座」(しんとよざ)が登場します。1956年(昭和31年)の祖父江町の商工会員名簿には「演劇・映画」の欄に高木屋興行と酒井興行が掲載されていますが、新豊座を経営していたのがどちらなのかは不明です。

祖父江町史』には祝賀会場として新豊座が使われたという一文がありますが、その歴史などについては触れられていません。もっとも古い祖父江町の住宅地図は『全商工住宅案内図帳』であり、映画館が存在していた時期の住宅地図はないようです。要するに、稲沢市立中央図書館や稲沢市立祖父江の森図書館の文献ではこの映画館のことがほとんど何もわかりません。

Google ストリートビュー祖父江町中心市街地を閲覧していた際から気になっていたのが、巨大なパチンコ大和の廃墟です。この廃墟は新町通りの商店街の西端近くにあり、通りから約20m奥まった場所に建物の入口があります。建物の規模といい立地と言い閉館後の活用方法といい、典型的な映画館跡地に見えますか 、ここに新豊座があったのでしょうか。

f:id:AyC:20190725072618j:plain

(写真)かつて映画館「新豊座」だったパチンコ大和の廃墟。

 

まずはこの廃墟を訪れて建物の周囲を確認しましたが、映画館だったことを示すものは見つかりませんでした。東側の路地に沿った建物の増築部分にスナック「硝ノ靴」がありましたが、とても営業しているようには見えません。そこで中心市街地の「花乃屋菓子舗」で60-70代と思われる店主に聞いてみると、やはりこの廃墟が映画館「新豊座」で間違いないとのことでした。

新町通りの商店街の発展策として地元有志が出資して開館した映画館だそうで、名称は新町通りに由来するそうです。映画館としての閉館後はアオキスーパーの店舗となり、その後パチンコ大和になったそうです。パチンコ大和が閉店してから久しいものの、開館時に出資した組合が残っているため安易に取り壊せないとのことでした。

花乃屋菓子舗の南側には大きな工場がありますが、この場所には1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃に開館した芝居小屋があったそうで、浪曲師の三波春夫が来館したこともあったそうです。芝居小屋と新豊座は同時期に存在していたとのことですが、主人はこの芝居小屋の名前は思い出せないとのことでした。

f:id:AyC:20190725072625j:plainf:id:AyC:20190725072633j:plain

 (写真)かつて映画館「新豊座」だったパチンコ大和の廃墟。

f:id:AyC:20190725072644j:plainf:id:AyC:20190725072652j:plain

 (写真)かつて映画館「新豊座」だったパチンコ大和の廃墟。

f:id:AyC:20190725091654p:plain

(写真)1960年代の新町通り国土地理院 地理院地図 1961年-1969年に加筆

f:id:AyC:20190725091701p:plain

(写真)2009年の新町通り国土地理院 地理院地図 航空写真 全国最新写真に加筆

 

f:id:AyC:20210603032608j:plain

(地図)1982年の住宅地図。新豊座の建物はマキノチェーン祖父江センター。

f:id:AyC:20210603032506j:plain

(地図)1993年の住宅地図。新豊座の建物は巨大な空白として描かれている。

 

1.2 森上会館(1952年頃-1963年頃)

所在地 : 愛知県中島郡祖父江町森上(1963年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1963年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「森上会館」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

 

1950年代から1960年代の映画館名簿を見ると、祖父江町には新豊座のほかに「森上会館」(もりかみかいかん)という映画館も掲載されています。

祖父江町にあった商店街は新町発展会と森上発展会の2つであり、森上発展会は名鉄尾西線森上駅の南東側、線路を挟んで東西に延びています。森上発展会は新町通りと同じく八神街道沿いにあり、新町通りからの距離は2.2km。森上発展会は新町発展会よりも営業中の店舗が少なく、衣料品店や八百屋やよろず屋がわずかに店を開けているだけでした。新町発展会にも森上発展会にも、イチョウの葉をデザインした洒落た街路灯があります。

商店街の近くで座っていた80代と思われる女性に映画館について聞いてみましたが、「映画館などなかった」と即答されてしまいました。花乃屋菓子舗の主人に聞いた時も「森上駅近くに映画館があったかどうかは知らない」とのことでした。映画館名簿には掲載されているものの、年に数回興行を行う程度の芝居小屋だったのかもしれません。

f:id:AyC:20190725072707j:plainf:id:AyC:20190725072736j:plain

(写真)名鉄森上駅前の商店街「森上発展会」。八百屋「八百トウ商店」。

f:id:AyC:20190725072742j:plain

 (写真)名鉄森上駅前の商店街「森上発展会」の街路灯。

 

祖父江町で最も古い1970年の住宅地図を見ると、森上駅前に "森上館" という施設が描かれています。この場所について1961年の航空写真を見てみると、目立つほど大きな建物は写っておらず、"森上館" が映画館の森上会館であると断定することはできません。

f:id:AyC:20210529005352p:plain

(地図)森上館という施設がある1970年の住宅地図。

f:id:AyC:20210529005649p:plain

(写真)1961年の森上駅周辺の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス

 

さらに時代の進んだ住宅地図を見ると、"森上館" は映画館ではなく旅館であることがわかりました。残念。

f:id:AyC:20210603032245j:plain

(地図)旅館 森上館と書かれた1982年の住宅地図。

 

祖父江町にあった映画館について調べたことは「尾張地方の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶(愛知県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com